その夜、キャサリンは寝室で本を開いていた。
開いているだけで、目は文字を追っていない。
――時計職人……ねえ。
不意に出てきた言葉が、どうにも頭から離れなかった。
エマが町で出会ったという人物。
懐かしい方。
悪い人ではないと評した相手。
それが時計職人なのだろうか。
昼間に執事のギルバートから聞いた話を、キャサリンは思い返す。
王都の外れで時計の修理をしている、ダミアンという男の話だ。
南の町から王都へ出てきて、若い頃から職人のもとで働いている。目立った借財はなく、誰かと揉めている様子もない。評判は、良く言えば人懐っこく、悪く言えば少し頼りない。
市場通りで粗悪な部品を売りつけられていたところを、エマによって助けられたらしい。
そこまで聞いたとき、キャサリンは思わず黙りこんだ。
話だけを聞けば、いかにもエマが放っておけなさそうな相手だったからだ。まるで聞いていたダライアスの話に似ている。
少し抜けている職人。
その響きが、どうにも引っかかった。
――偶然にしては、少しできすぎている気もするのよね……。
だが、ギルバートの調べた限りでは、ダミアンに不審な点は見当たらない。
人柄も、経歴も、仕事ぶりにも明らかな瑕疵はない。少なくとも、エマを意図的に害そうとして近づいた人物には見えなかった。
考えれば考えるほど、ただの恋めいた話に思える。
春。
亡夫の命日。
町での偶然の出会い。
懐かしい面影を持つ男。
そこまで並べればエマの心が揺れるのも無理はない。
ただ一つだけ、ギルバートは妙なことを言っていた。
――ダライアス様に似ているのだろうということだったけれど……。
ダミアンという男を知る者は多いのに、誰もその姿を見かけていないのだ。
エマは恋をしたからといっても、仕事に穴を空けるような人間ではないだろう。ましてや、予定の日付まで取り違えるようなことなどないはずだ。
考えすぎだろうか。
キャサリンは本を閉じた。
寝台脇の燭台の炎が、かすかに揺れている。
明日になれば、いつものエマに戻っているとキャサリンは思った。
そう思ったところで、廊下の向こうから微かな物音が聞こえた。
足音ではない。
何かが落ちたような、小さな音だった。
「……エマ?」
呼んでも返事はない。
しばらく耳を澄ませたが、それ以上の物音はもう鳴らない。
やがてキャサリンは小さく息を吐き、もう一度だけ本に手を伸ばした。
開いているだけで、目は文字を追っていない。
――時計職人……ねえ。
不意に出てきた言葉が、どうにも頭から離れなかった。
エマが町で出会ったという人物。
懐かしい方。
悪い人ではないと評した相手。
それが時計職人なのだろうか。
昼間に執事のギルバートから聞いた話を、キャサリンは思い返す。
王都の外れで時計の修理をしている、ダミアンという男の話だ。
南の町から王都へ出てきて、若い頃から職人のもとで働いている。目立った借財はなく、誰かと揉めている様子もない。評判は、良く言えば人懐っこく、悪く言えば少し頼りない。
市場通りで粗悪な部品を売りつけられていたところを、エマによって助けられたらしい。
そこまで聞いたとき、キャサリンは思わず黙りこんだ。
話だけを聞けば、いかにもエマが放っておけなさそうな相手だったからだ。まるで聞いていたダライアスの話に似ている。
少し抜けている職人。
その響きが、どうにも引っかかった。
――偶然にしては、少しできすぎている気もするのよね……。
だが、ギルバートの調べた限りでは、ダミアンに不審な点は見当たらない。
人柄も、経歴も、仕事ぶりにも明らかな瑕疵はない。少なくとも、エマを意図的に害そうとして近づいた人物には見えなかった。
考えれば考えるほど、ただの恋めいた話に思える。
春。
亡夫の命日。
町での偶然の出会い。
懐かしい面影を持つ男。
そこまで並べればエマの心が揺れるのも無理はない。
ただ一つだけ、ギルバートは妙なことを言っていた。
――ダライアス様に似ているのだろうということだったけれど……。
ダミアンという男を知る者は多いのに、誰もその姿を見かけていないのだ。
エマは恋をしたからといっても、仕事に穴を空けるような人間ではないだろう。ましてや、予定の日付まで取り違えるようなことなどないはずだ。
考えすぎだろうか。
キャサリンは本を閉じた。
寝台脇の燭台の炎が、かすかに揺れている。
明日になれば、いつものエマに戻っているとキャサリンは思った。
そう思ったところで、廊下の向こうから微かな物音が聞こえた。
足音ではない。
何かが落ちたような、小さな音だった。
「……エマ?」
呼んでも返事はない。
しばらく耳を澄ませたが、それ以上の物音はもう鳴らない。
やがてキャサリンは小さく息を吐き、もう一度だけ本に手を伸ばした。

