突っこんだ質問をしてみたいところだが、雇用主と侍女という関係を盾にしたくはなかった。大ざっぱな問いで、最低限の部分だけをキャサリンは尋ねる。
「その方は、紳士なの?」
「悪い方ではないと思います」
エマの声に温かかみがある。
――あら……?
キャサリンは内心で目を細めた。
思ったよりも珍しい事態なのかもしれない。
知り合ったばかりの相手に、エマがそこまで高い評価をしているとは考えてもみなかった。警戒や皮肉ではなく、親しみが混じってあるのだから相当だ。
――さてさて、エマほどの女性を射止めたのは、いったいどんな殿方なのかしらね。あとで、それとなくギルバートあたりに聞いてみようかしら。
ベルクリフを伯父に持つ執事だ。
さすがにエマと比べるのはかわいそうだが、優秀な部類に入ることは間違いない。やや鈍いことが玉に瑕だが、同僚の変化を察せないほどの朴念仁ではないはずだった。
「そう。なら、大事になさいな」
「何をでしょうか?」
「春の出会いを」
エマは今度こそ、はっきりと困った顔をした。
「お嬢様……」
「冗談よ」
キャサリンは書類に視線を戻す。
エマが誰かに心を動かされることは、寂しいようでもあり、喜ばしいことでもあった。
自分のそばにいるエマは静かで、あまりにも変わらない。だからこそ、時々忘れそうになる。
彼女にも、自分が及びもしない時間があり、知らない痛みがあり、共有されない幸福があるのだ。そして、それがあるべきだとキャサリンも思っている。
――ええ、いいことだわ。
このときはキャサリンも侍女の幸せを疑ってはいなかった。
✿✿✿❀✿✿✿
初めのほころびは、些細なものだった。
エマがつけるべき封蝋を取り違えたのだ。
「すぐに改めます」
「……。珍しいわね」
キャサリンに責めるつもりはない。
純粋に、こういったケアレスミスをエマがしでかすことが新鮮だった。
「申し訳ございません。確認が不十分でした」
「いいわ。急ぎではないもの」
軽く手を振って、キャサリンは応じる。エマは頭を下げてから、封筒を持って部屋を出ていった。
扉が閉まる。
――浮かれているのかしら。
あのエマに限ってそんなことはないと思うが、これは微笑ましいことかもしれない。
どんな状況でも過不足なく動く侍女が、目の前の注意を欠くほどに誰かのことを考えているのだとしたら、きっと喜ばしいことに違いない。
キャサリンは結論づけると、再び書類に目を落としていた。
だが、翌日にも違和感が続いた。
「午後の予定を確認してくれるかしら?」
「本日は二時より、クラリス様からの使者がいらっしゃいます。その後、三時半にフィリップ様より絵画の件で――」
エマの声は淀みない。
いつものように、必要な情報が簡潔に並べられていく。
「それから、火曜日の午前中に時計職人の方が――」
そこで、言葉が止まった。
キャサリンが顔を上げる。
「時計職人?」
エマは手元の予定表に視線を落とした。
そこに予定はないはずだった。
「失礼いたしました。言い間違いでございます」
「……。そう……それで正しい予定は何かしら?」
「仕立て屋です。火曜日の午前中に、確認の者が来る予定です」
「それは水曜日ではなくて?」
キャサリンの指摘に、エマがもう一度予定表を見直した。
「……はい。おっしゃるとおりです」
沈黙が落ちた。
エマが静かに頭を下げる。
「申し訳ございません」
「疲れているの?」
キャサリンは努めて穏やかに尋ねた。
「いいえ。問題ございません」
「問題があるかどうかを聞いているのではないわ。私は疲れているかを聞いているのよ」
「少々、寝不足なのかもしれません」
珍しい返答だった。
いつもなら体調の不備を口にする前に、自分で立て直してしまうことだろう。
だからこそ、キャサリンは椅子の背に指を添えたまま、じっとエマを見た。
「今日は早めに休みなさい」
「ですが……」
「命令よ」
エマが口を閉じる。
反論は許さないという視線を向けると、ようやく侍女は観念したように一礼した。
「かしこまりました」
エマの返事が、いつもより弱々しく感じられた。
「その方は、紳士なの?」
「悪い方ではないと思います」
エマの声に温かかみがある。
――あら……?
キャサリンは内心で目を細めた。
思ったよりも珍しい事態なのかもしれない。
知り合ったばかりの相手に、エマがそこまで高い評価をしているとは考えてもみなかった。警戒や皮肉ではなく、親しみが混じってあるのだから相当だ。
――さてさて、エマほどの女性を射止めたのは、いったいどんな殿方なのかしらね。あとで、それとなくギルバートあたりに聞いてみようかしら。
ベルクリフを伯父に持つ執事だ。
さすがにエマと比べるのはかわいそうだが、優秀な部類に入ることは間違いない。やや鈍いことが玉に瑕だが、同僚の変化を察せないほどの朴念仁ではないはずだった。
「そう。なら、大事になさいな」
「何をでしょうか?」
「春の出会いを」
エマは今度こそ、はっきりと困った顔をした。
「お嬢様……」
「冗談よ」
キャサリンは書類に視線を戻す。
エマが誰かに心を動かされることは、寂しいようでもあり、喜ばしいことでもあった。
自分のそばにいるエマは静かで、あまりにも変わらない。だからこそ、時々忘れそうになる。
彼女にも、自分が及びもしない時間があり、知らない痛みがあり、共有されない幸福があるのだ。そして、それがあるべきだとキャサリンも思っている。
――ええ、いいことだわ。
このときはキャサリンも侍女の幸せを疑ってはいなかった。
✿✿✿❀✿✿✿
初めのほころびは、些細なものだった。
エマがつけるべき封蝋を取り違えたのだ。
「すぐに改めます」
「……。珍しいわね」
キャサリンに責めるつもりはない。
純粋に、こういったケアレスミスをエマがしでかすことが新鮮だった。
「申し訳ございません。確認が不十分でした」
「いいわ。急ぎではないもの」
軽く手を振って、キャサリンは応じる。エマは頭を下げてから、封筒を持って部屋を出ていった。
扉が閉まる。
――浮かれているのかしら。
あのエマに限ってそんなことはないと思うが、これは微笑ましいことかもしれない。
どんな状況でも過不足なく動く侍女が、目の前の注意を欠くほどに誰かのことを考えているのだとしたら、きっと喜ばしいことに違いない。
キャサリンは結論づけると、再び書類に目を落としていた。
だが、翌日にも違和感が続いた。
「午後の予定を確認してくれるかしら?」
「本日は二時より、クラリス様からの使者がいらっしゃいます。その後、三時半にフィリップ様より絵画の件で――」
エマの声は淀みない。
いつものように、必要な情報が簡潔に並べられていく。
「それから、火曜日の午前中に時計職人の方が――」
そこで、言葉が止まった。
キャサリンが顔を上げる。
「時計職人?」
エマは手元の予定表に視線を落とした。
そこに予定はないはずだった。
「失礼いたしました。言い間違いでございます」
「……。そう……それで正しい予定は何かしら?」
「仕立て屋です。火曜日の午前中に、確認の者が来る予定です」
「それは水曜日ではなくて?」
キャサリンの指摘に、エマがもう一度予定表を見直した。
「……はい。おっしゃるとおりです」
沈黙が落ちた。
エマが静かに頭を下げる。
「申し訳ございません」
「疲れているの?」
キャサリンは努めて穏やかに尋ねた。
「いいえ。問題ございません」
「問題があるかどうかを聞いているのではないわ。私は疲れているかを聞いているのよ」
「少々、寝不足なのかもしれません」
珍しい返答だった。
いつもなら体調の不備を口にする前に、自分で立て直してしまうことだろう。
だからこそ、キャサリンは椅子の背に指を添えたまま、じっとエマを見た。
「今日は早めに休みなさい」
「ですが……」
「命令よ」
エマが口を閉じる。
反論は許さないという視線を向けると、ようやく侍女は観念したように一礼した。
「かしこまりました」
エマの返事が、いつもより弱々しく感じられた。

