そこから先のことにも、劇的なものはほとんどない。
ダライアスは何度か道に迷い、エマは何度か呆れた。
茶を飲む約束をしていたはずが、いつの間にか彼の納品先の確認を手伝うことになった日もある。工房の親方に怒鳴られて、真っ白になったダライアスを見かねて、エマが代わりに発注書を整理した日もあった。
世話が焼ける。
心底そう思った。
それなのに、嫌ではなかった。
傅かれてばかりだったのに、人を支えることのほうが向いていたとは、なんとも逆説的だ。それとも、もてなされて来たからこそ、マネジメントされる側の気持ちがわかるようになったのかもしれない。
ダライアスもエマの没落を憐れまなかった。
元令嬢として持ち上げることもなければ、商家で働く女性として見下すこともない。ただ、エマが目の前にいることを、そのまま受け止めていた。
まもなく、交際は周囲にも知られるようになり、ミリアムは自分の手柄のように喜んだ。ロルフは「ダライアス君は腕が立つものの、抜けているところが多いので、エマさんくらいしっかりした人が隣にいたほうがいい」と豪快に笑った。自分がけなすのはともかく、他人からダライアスを悪く言われることには、あまり穏やかな気分を抱かなかったのだが、事実なのでエマも否定はしなかった。
順調にダライアスは技術を習得していった。
親方に怒鳴られる回数こそ目に見えて減らなかったが、納品を突き返される回数はどんどんと少なくなっていった。
初めて彼の作品が高値で売れた日、ダライアスは工房の前で泣きそうな顔をしていた。
エマが祝いの言葉をかけると、彼は首を横に振った。
「あなたがいてくれたからです」
「……。私は何もしていません」
「見ていてくれました」
その言葉に、エマは少しの間、返す言葉を失った。
最初は通りすがりに横目で見る程度だった。
次第に気になって、いつしかダライアスの背中を追うことが多くなった。それは恋慕の情ではなかったし、単に目先の支えにしていただけだ。失ったばかりの自分の一里塚として、怒られてばかりの職人を使ったにすぎない。
ダライアスに対して、財布を握ってくれる人が必要なはずだと感じたのは本当だ。それが自分になるかもしれないと、全くよぎらなかったと言えば嘘になる。しかし、こうもストレートに感謝を示されるのは面はゆい。まるで自分がダライアスのことを愛おしくてたまらないみたいではないか。
たまたま人の世話をすることが好きだっただけだ。あるいは、ミリアムの性格がいつの間にか移ってしまったのかもしれない。
「……」
エマは無理やり自分に言い聞かせる。
だが、どうにも顔が緩むのを止められなかった。
✿✿✿❀✿✿✿
それから数年後、ダライアスは独立して自分の工房を持つことを許された。
「工房はイズルベシアに建てようと思っています」
唐突な言葉に、エマは瞬きをした。
ダライアスはひどく真面目な顔をしている。真面目すぎて、かえって何かを間違えているときの顔だった。
「なぜですか?」
「あなたの故郷だと、聞いていましたので」
「それは理由になっていません」
「そう……でしょうか?」
「ええ。職人として独立するなら、王都のほうがよろしいでしょう。販路があります。親方の紹介もあります。何より、あなたの作品を覚えてくださったお客様も、大抵は王都からの注文でした。田舎町を選ぶ理由がありません」
ダライアスは、しゅんと肩を落とした。
叱られた犬のようだと思ったが、エマは口には出さなかった。
「では、王都にします」
「……ずいぶんと決断が早いですね」
「あなたがそう言うのなら、そのほうが正しいのでしょう」
「……」
それは少し困る。
自分の言葉ひとつで、この人は本当に人生の向きを変えてしまうのだ。
何度思ったかわからない感想を、エマはまた抱きながらダライアスの顔を見る。
まったく仕方のない人だ。
「……。これは、工房の相談ですか? それとも私への求婚ですか?」
ダライアスの喉がわずかに動いた。
炉の火が、ぱちりと小さく鳴った。
ダライアスは耳まで赤くして、それでも逃げはしなかった。
たどたどしい言葉づかいではあったが、最後にはやはり言いきっていた。
「プロポーズの……つもりです」
「最初から、そうおっしゃればよろしいのに」
「すみません」
「謝るところではありません」
いつかと同じやり取りだ。
そう思った瞬間、エマはちょこっとだけ笑いそうになった。
「帳簿は私が見ます。炉の位置も、採光も、仕入れ先も、きちんと考え直します」
「はい……」
「住まいは工房の二階で構いませんね?」
「……。……え?」
ようやく意味に気がついたらしい。
今にも泣きそうな顔で、ダライアスがエマを見る。
「なんですか?」
「その……つまり」
「一世一代の大勝負だと思いますが、これも私から言ったほうがいいですか?」
少しだけ意地悪だったかもしれない。だが、最初に言葉を省いて、楽をしようとしたのはダライアスのほうだろう。相手の性格を考えれば無茶な注文だとは思うが、平時はともかく、こういう特別なときくらいは、ダライアスにもいくらかの男らしさを発揮してもらいたいものだ。
ダライアスは深く息を吸った。
炉の前に立つときと同じ顔になる。
「僕と結婚してください」
案の定、声はかなり震えていた。
だが、エマもそこまでは求めない。
「はい」
エマは短く答える。
差し出された小さなガラスの家は、少し歪んでいた。
きっと設計図のつもりなのだろう。
窓の形も揃っていないし、不細工な出来だ。
だが、光を受けると、春の空気を閉じ込めたように、やわらかく輝いた。
ダライアスは何度か道に迷い、エマは何度か呆れた。
茶を飲む約束をしていたはずが、いつの間にか彼の納品先の確認を手伝うことになった日もある。工房の親方に怒鳴られて、真っ白になったダライアスを見かねて、エマが代わりに発注書を整理した日もあった。
世話が焼ける。
心底そう思った。
それなのに、嫌ではなかった。
傅かれてばかりだったのに、人を支えることのほうが向いていたとは、なんとも逆説的だ。それとも、もてなされて来たからこそ、マネジメントされる側の気持ちがわかるようになったのかもしれない。
ダライアスもエマの没落を憐れまなかった。
元令嬢として持ち上げることもなければ、商家で働く女性として見下すこともない。ただ、エマが目の前にいることを、そのまま受け止めていた。
まもなく、交際は周囲にも知られるようになり、ミリアムは自分の手柄のように喜んだ。ロルフは「ダライアス君は腕が立つものの、抜けているところが多いので、エマさんくらいしっかりした人が隣にいたほうがいい」と豪快に笑った。自分がけなすのはともかく、他人からダライアスを悪く言われることには、あまり穏やかな気分を抱かなかったのだが、事実なのでエマも否定はしなかった。
順調にダライアスは技術を習得していった。
親方に怒鳴られる回数こそ目に見えて減らなかったが、納品を突き返される回数はどんどんと少なくなっていった。
初めて彼の作品が高値で売れた日、ダライアスは工房の前で泣きそうな顔をしていた。
エマが祝いの言葉をかけると、彼は首を横に振った。
「あなたがいてくれたからです」
「……。私は何もしていません」
「見ていてくれました」
その言葉に、エマは少しの間、返す言葉を失った。
最初は通りすがりに横目で見る程度だった。
次第に気になって、いつしかダライアスの背中を追うことが多くなった。それは恋慕の情ではなかったし、単に目先の支えにしていただけだ。失ったばかりの自分の一里塚として、怒られてばかりの職人を使ったにすぎない。
ダライアスに対して、財布を握ってくれる人が必要なはずだと感じたのは本当だ。それが自分になるかもしれないと、全くよぎらなかったと言えば嘘になる。しかし、こうもストレートに感謝を示されるのは面はゆい。まるで自分がダライアスのことを愛おしくてたまらないみたいではないか。
たまたま人の世話をすることが好きだっただけだ。あるいは、ミリアムの性格がいつの間にか移ってしまったのかもしれない。
「……」
エマは無理やり自分に言い聞かせる。
だが、どうにも顔が緩むのを止められなかった。
✿✿✿❀✿✿✿
それから数年後、ダライアスは独立して自分の工房を持つことを許された。
「工房はイズルベシアに建てようと思っています」
唐突な言葉に、エマは瞬きをした。
ダライアスはひどく真面目な顔をしている。真面目すぎて、かえって何かを間違えているときの顔だった。
「なぜですか?」
「あなたの故郷だと、聞いていましたので」
「それは理由になっていません」
「そう……でしょうか?」
「ええ。職人として独立するなら、王都のほうがよろしいでしょう。販路があります。親方の紹介もあります。何より、あなたの作品を覚えてくださったお客様も、大抵は王都からの注文でした。田舎町を選ぶ理由がありません」
ダライアスは、しゅんと肩を落とした。
叱られた犬のようだと思ったが、エマは口には出さなかった。
「では、王都にします」
「……ずいぶんと決断が早いですね」
「あなたがそう言うのなら、そのほうが正しいのでしょう」
「……」
それは少し困る。
自分の言葉ひとつで、この人は本当に人生の向きを変えてしまうのだ。
何度思ったかわからない感想を、エマはまた抱きながらダライアスの顔を見る。
まったく仕方のない人だ。
「……。これは、工房の相談ですか? それとも私への求婚ですか?」
ダライアスの喉がわずかに動いた。
炉の火が、ぱちりと小さく鳴った。
ダライアスは耳まで赤くして、それでも逃げはしなかった。
たどたどしい言葉づかいではあったが、最後にはやはり言いきっていた。
「プロポーズの……つもりです」
「最初から、そうおっしゃればよろしいのに」
「すみません」
「謝るところではありません」
いつかと同じやり取りだ。
そう思った瞬間、エマはちょこっとだけ笑いそうになった。
「帳簿は私が見ます。炉の位置も、採光も、仕入れ先も、きちんと考え直します」
「はい……」
「住まいは工房の二階で構いませんね?」
「……。……え?」
ようやく意味に気がついたらしい。
今にも泣きそうな顔で、ダライアスがエマを見る。
「なんですか?」
「その……つまり」
「一世一代の大勝負だと思いますが、これも私から言ったほうがいいですか?」
少しだけ意地悪だったかもしれない。だが、最初に言葉を省いて、楽をしようとしたのはダライアスのほうだろう。相手の性格を考えれば無茶な注文だとは思うが、平時はともかく、こういう特別なときくらいは、ダライアスにもいくらかの男らしさを発揮してもらいたいものだ。
ダライアスは深く息を吸った。
炉の前に立つときと同じ顔になる。
「僕と結婚してください」
案の定、声はかなり震えていた。
だが、エマもそこまでは求めない。
「はい」
エマは短く答える。
差し出された小さなガラスの家は、少し歪んでいた。
きっと設計図のつもりなのだろう。
窓の形も揃っていないし、不細工な出来だ。
だが、光を受けると、春の空気を閉じ込めたように、やわらかく輝いた。

