タイムリープするお嬢様――二度目の婚約破棄はもう遅い。あなたが破滅する始まりです

 その夜のことだ。
 就寝前の習慣どおり、エマは1日を振り返った。
 薬草の買いつけ。市場でのひと騒動。管理人への根回し。
 仕事に抜かりはなかった。
 ところが、思考がそこで止まらない。
 ダミアンの顔が浮かんだ。
 爽快感がありますと言ったときの声。
 惜しいと感じてしまった、あの一瞬。

「……」

 エマは目を開けて、天井を見た。
 蝋燭の火はすでに消してある。暗い天井が、静かに広がっている。
 会いたい。
 そう思ってから、エマは自分の額に手をあてた。
 どうかしている。
 センチメンタルな言葉が、自分の中から出て来るなんて思ってもいなかった。
 夫が亡くなってから、特定の異性に会いたいと感じることは一度もなかった。

「疲れているのかもしれないわね……」

 いつもの結論を出そうとしてみたものの、今夜はどうにも据わりが悪い。
 疲労が無意味に人恋しさを導くものだろうか。
 エマはしばらく黙ったまま天井を見つめていた。
 やがて目を閉じる。
 暗闇の中に、浮かんで来る顔がある。
 ダライアスの顔だ。
 7年間、隣にいた人間……。



✿✿✿❀✿✿✿



 没落というものは、音もなく来る。
 もう何年も前の話だ。
 19歳のエマが実家の没落を知ったのは、秋の終わりのことだった。知らせを受けてから屋敷を出るまでの時間は、驚くほど短かった。長年仕えてくれた使用人たちに別れを告げ、身の回りのものだけを鞄に詰めて、馬車に乗った。

 西部の都市に出て来たのは、ほかに行く場所がなかったからで、深いゆえあってのことではない。
 遠縁の伝手を頼って、とある商家に住み込みの仕事を得た。帳簿の管理と来客の応対。子爵とはいえ、貴族令嬢としての教育が、思わぬ形で役に立った。

 だが、それだけだ。

「……」

 朝に起きて、仕事をして、夜に眠る。
 自分が何のために動いているのかが、わからなくなることがあった。
 このまま、ずっとこうなのだろうか。
 そう思いながら通りを歩いていたある日のことだ。
 職人街の外れに差しかかったとき、工房の前で人影が動いているのに気がついた。
 通りに面した引き戸が開け放たれていて、中の様子が丸見えになっている。
 工房の中には炉があり、その前に男の職人が立っていた。

 吹き竿の先に、溶けたガラスの塊がついている。
 職人が息を吹きこむと、ガラスが膨らんでいく。
 だが、次の瞬間に形が崩れた。

「てめえ! おんなじことを何度やりやがるんだ」

 奥から別の声が飛んで来る。親方だろう。太くて、よく通る声だった。
 エマは眼前の人間がどれだけ怒っていようが、縮みあがることはない。元とはいえ貴族の自覚があったし、そもそも怒鳴り散らすような男を下品だと思っていた。

 下品な相手を前にして感じるのは、不愉快さであり、恐怖ではない。憐れに思うことがあったとしても、怯えることは決してなかった。

 だが、かわいそうなことに職人は違うらしい。

「すいません!」

 短く答えると、竿を持ちなおして、また炉に向かう。
 親方がため息をついて、引っこんでいく。
 少しの間、エマは足を止めた。

「……」

 職人の横顔が見える。20代の前半だろうか。
 眉根を寄せて、唇を真一文字に引き結んでいる。難しい顔だ。あまり格好いいとは言いがたい。ただ、真剣なのだということだけは、遠目からでも伝わって来た。

 また息を吹きこむ。
 膨らんでいく。
 今度は形が保たれるも、竿から外す段で歪んだ。

「ふぅ……」

 職人は歪んだガラスをしばらく眺めてから、また炉に向かった。
 捨てない。
 諦めない。
 何度も同じことをくり返している。
 翌日もエマは同じ場所を通った。
 職人は今日も失敗して、親方に怒鳴られていた。
 3日目も変わらない。
 4日目に工房の前を通りかかると、職人の姿が外にあった。
 完成した作品を木箱に入れているので、納品に出かけるところらしい。
 エマはそのまま通り過ぎたのだが、少しだけ気になったので帰りに寄ってみることにした。
 職人は木箱を抱えて、とぼとぼと歩いていた。横目でちらりと箱の中を覗いてみれば、作品がそのままだった。

 突き返されたのだと直感で理解した。
 職人の肩が落ちている。
 足取りは重い。
 それでも、木箱を抱きかかえる腕は丁寧だった。商品にならなくとも、乱暴に扱うつもりはないらしい。

 エマは立ち止まって、その背中を見送った。