みゃあ。
宮子さまの飼い猫、黒猫クロエだにゃん。
ここは――元正《げんしょう》天皇のお住まいだにゃ。
光明子が来る前に、ちょこっとだけ奈良講座だにゃん。
今の帝《みかど》は、第44代天皇・元正天皇。
女帝さまで、聖武天皇――つまり首《おびと》皇子のおばあさまにあたるお方だにゃ。
このお方、実はすごいにゃ。
『日本書紀』を完成させたり、法律を整えたり、農地を増やす制度を作ったり。
――めちゃくちゃ働くスーパー女帝だにゃん。
……おっと。
来たにゃ。
今日の主役、未来から来た極道のお嬢――光明子だにゃ!
◇
「姫さま、足元にお気をつけくださいませ」
雑司女《ぞうしめ》のサチが、小声で言った。
あたしは今日――元正天皇に仕える采女《うねめ》に会いに来ていた。
「あ、クロエ!」
廊下の向こうに黒いしっぽ。
「こらー、待ちなさい!」
……が。
ひらり。
黒猫は、あたしをからかうみたいに逃げていく。
「もうっ!」
サチが、くすりと笑った。
「猫は自由でございますね。好きな時に来て、好きな時に去ってしまうのです」
「いいなあ。あたしも猫になりたい」
「光明子さまが猫になられたら……皆が毎日、ちゅ〜るを献上いたしますわ」
「何その姫待遇」
ふたりで笑った、その時。
ふわり――
甘い香が漂ってきた。
白檀《びゃくだん》だろうか。
深く吸い込むと、心が静かになる。
そして。
御簾《みす》の向こうから、音が流れてきた。
――ぽろん。
低く、やさしい響き。
琵琶《びわ》だ。
春風みたいに穏やかな音が、空気をゆっくり揺らしていた。
「……好きかも。この音」
思わず、ぽつり。
すると。
「お入りなさい」
静かな声がした。
御簾が上がる。
そこにいた人を見て――あたしは固まった。
(うわ……)
美人。
めちゃくちゃ美人。
艶《つや》のある黒髪。
すっと通った鼻筋。
少し細めの目元は、優しいのにどこか色っぽい。
ぽってりした唇。
長く細い指が、琵琶を美しく支えている。
(令和だったら確実に女優……いや、国宝級)
サチが小声で囁いた。
「笠目《かさめ》の采女《うねめ》にございます。歌舞音曲《かぶおんぎょく》の名手で、宮中でも有名なお方です」
(歌姫か……)
うちの組に来たら大変だ。
男たちが全員正座して、
『姐《あね》さん、女神さまです!』
とか言いながら、床に額こすりつけるレベル。
「ようこそ、光明子さま」
笠目の采女が、ふわりと笑った。
「琵琶をお忘れになったとか」
「あー……うん。頭ぶつけて記憶飛んじゃって」
「では、一からご一緒いたしましょう」
そう言って、あたしの手を取る。
あったかい。
そして――近い。
(うわ、美人の圧……!)
どきん、とした。
笠目は琵琶を優しく抱えさせ、静かに弦を弾いた。
ぽろん――
低く、美しい音。
空気がふるりと震える。
「光明子さまも、どうぞ」
「え!? いきなり!?」
「音に、失敗などございません」
にっこり。
いや、その笑顔ずるい。
断れないって。
おそるおそる弦に触れた、その時。
ふっと。
頭の中に、現代の記憶が浮かんだ。
(……そうだ)
春。
桜。
卒業式。
あの歌。
「この琵琶で――『さくらさくら』を弾きたい」
ぽつりと呟く。
すると。
――ぽろん。
指が、勝手に動いた。
「え?」
ぽろん。
ぽろん、ぽろん――
「さーくーらー、さーくーらー……」
気づけば歌っていた。
指が止まらない。
(出たああああ! チート発動!)
やばい。
めっちゃ弾ける!
桜が風に舞うみたいな音が、部屋いっぱいに広がっていく。
その時だった。
「――よい音ね」
空気が、変わった。
部屋中の者が、一斉に伏す。
「お上《かみ》……!」
振り向く。
そこにいたのは――。
上品な笑みを浮かべた女性。
元正天皇だった。
「よいのよ。続けて」
サチが慌てて囁く。
「お上です……!」
(えええええ!? 皇帝来た!?)
しかも。
女帝。
本物。
「誰かと思えば、光明子ではないの」
元正天皇は、くすりと笑った。
「久しぶりねえ」
「す、すみません。頭ぶつけて記憶なくしちゃって……」
「あらまあ。それなのに、こんな素敵な音を?」
そして。
元正天皇は、楽しそうに歌い始めた。
「さくら〜、さくら〜♪」
(乗ってきたーーー!?)
あたしは慌てて撥《ばち》を握る。
――そうか。
このチート。
みんなを楽しませるために使えばいいんだ。
「じゃあ、いきます!」
ぽろん!
琵琶が鳴る。
人が集まる。
采女《うねめ》、命婦《みょうぶ》、役人たちまで。
誰かが足を鳴らした。
だん、だん。
「踏歌《とうか》ですね!」
サチが笑う。
気づけば、みんな歌っていた。
足を踏み鳴らし。
笑いながら。
笠目も琵琶をかき鳴らす。
元正天皇まで、手拍子してる。
(奈良時代ライブ、最高かよ!)
最後――。
じゃんっ!!
笠目と同時に音を止める。
部屋に静寂。
そして。
わああああっ!!
大拍手。
「ああ、楽しかったわ」
元正天皇が笑った。
「またやりましょう、光明子さま」
笠目が目を輝かせる。
「あたぼうよ!」
思わず言ってしまって。
……しまった。
「?」
「……えっと。もちろんです!」
ライブを終えたミュージシャンって、こんな気持ちなんだろうな。
心臓、まだバクバクしていた。
宮子さまの飼い猫、黒猫クロエだにゃん。
ここは――元正《げんしょう》天皇のお住まいだにゃ。
光明子が来る前に、ちょこっとだけ奈良講座だにゃん。
今の帝《みかど》は、第44代天皇・元正天皇。
女帝さまで、聖武天皇――つまり首《おびと》皇子のおばあさまにあたるお方だにゃ。
このお方、実はすごいにゃ。
『日本書紀』を完成させたり、法律を整えたり、農地を増やす制度を作ったり。
――めちゃくちゃ働くスーパー女帝だにゃん。
……おっと。
来たにゃ。
今日の主役、未来から来た極道のお嬢――光明子だにゃ!
◇
「姫さま、足元にお気をつけくださいませ」
雑司女《ぞうしめ》のサチが、小声で言った。
あたしは今日――元正天皇に仕える采女《うねめ》に会いに来ていた。
「あ、クロエ!」
廊下の向こうに黒いしっぽ。
「こらー、待ちなさい!」
……が。
ひらり。
黒猫は、あたしをからかうみたいに逃げていく。
「もうっ!」
サチが、くすりと笑った。
「猫は自由でございますね。好きな時に来て、好きな時に去ってしまうのです」
「いいなあ。あたしも猫になりたい」
「光明子さまが猫になられたら……皆が毎日、ちゅ〜るを献上いたしますわ」
「何その姫待遇」
ふたりで笑った、その時。
ふわり――
甘い香が漂ってきた。
白檀《びゃくだん》だろうか。
深く吸い込むと、心が静かになる。
そして。
御簾《みす》の向こうから、音が流れてきた。
――ぽろん。
低く、やさしい響き。
琵琶《びわ》だ。
春風みたいに穏やかな音が、空気をゆっくり揺らしていた。
「……好きかも。この音」
思わず、ぽつり。
すると。
「お入りなさい」
静かな声がした。
御簾が上がる。
そこにいた人を見て――あたしは固まった。
(うわ……)
美人。
めちゃくちゃ美人。
艶《つや》のある黒髪。
すっと通った鼻筋。
少し細めの目元は、優しいのにどこか色っぽい。
ぽってりした唇。
長く細い指が、琵琶を美しく支えている。
(令和だったら確実に女優……いや、国宝級)
サチが小声で囁いた。
「笠目《かさめ》の采女《うねめ》にございます。歌舞音曲《かぶおんぎょく》の名手で、宮中でも有名なお方です」
(歌姫か……)
うちの組に来たら大変だ。
男たちが全員正座して、
『姐《あね》さん、女神さまです!』
とか言いながら、床に額こすりつけるレベル。
「ようこそ、光明子さま」
笠目の采女が、ふわりと笑った。
「琵琶をお忘れになったとか」
「あー……うん。頭ぶつけて記憶飛んじゃって」
「では、一からご一緒いたしましょう」
そう言って、あたしの手を取る。
あったかい。
そして――近い。
(うわ、美人の圧……!)
どきん、とした。
笠目は琵琶を優しく抱えさせ、静かに弦を弾いた。
ぽろん――
低く、美しい音。
空気がふるりと震える。
「光明子さまも、どうぞ」
「え!? いきなり!?」
「音に、失敗などございません」
にっこり。
いや、その笑顔ずるい。
断れないって。
おそるおそる弦に触れた、その時。
ふっと。
頭の中に、現代の記憶が浮かんだ。
(……そうだ)
春。
桜。
卒業式。
あの歌。
「この琵琶で――『さくらさくら』を弾きたい」
ぽつりと呟く。
すると。
――ぽろん。
指が、勝手に動いた。
「え?」
ぽろん。
ぽろん、ぽろん――
「さーくーらー、さーくーらー……」
気づけば歌っていた。
指が止まらない。
(出たああああ! チート発動!)
やばい。
めっちゃ弾ける!
桜が風に舞うみたいな音が、部屋いっぱいに広がっていく。
その時だった。
「――よい音ね」
空気が、変わった。
部屋中の者が、一斉に伏す。
「お上《かみ》……!」
振り向く。
そこにいたのは――。
上品な笑みを浮かべた女性。
元正天皇だった。
「よいのよ。続けて」
サチが慌てて囁く。
「お上です……!」
(えええええ!? 皇帝来た!?)
しかも。
女帝。
本物。
「誰かと思えば、光明子ではないの」
元正天皇は、くすりと笑った。
「久しぶりねえ」
「す、すみません。頭ぶつけて記憶なくしちゃって……」
「あらまあ。それなのに、こんな素敵な音を?」
そして。
元正天皇は、楽しそうに歌い始めた。
「さくら〜、さくら〜♪」
(乗ってきたーーー!?)
あたしは慌てて撥《ばち》を握る。
――そうか。
このチート。
みんなを楽しませるために使えばいいんだ。
「じゃあ、いきます!」
ぽろん!
琵琶が鳴る。
人が集まる。
采女《うねめ》、命婦《みょうぶ》、役人たちまで。
誰かが足を鳴らした。
だん、だん。
「踏歌《とうか》ですね!」
サチが笑う。
気づけば、みんな歌っていた。
足を踏み鳴らし。
笑いながら。
笠目も琵琶をかき鳴らす。
元正天皇まで、手拍子してる。
(奈良時代ライブ、最高かよ!)
最後――。
じゃんっ!!
笠目と同時に音を止める。
部屋に静寂。
そして。
わああああっ!!
大拍手。
「ああ、楽しかったわ」
元正天皇が笑った。
「またやりましょう、光明子さま」
笠目が目を輝かせる。
「あたぼうよ!」
思わず言ってしまって。
……しまった。
「?」
「……えっと。もちろんです!」
ライブを終えたミュージシャンって、こんな気持ちなんだろうな。
心臓、まだバクバクしていた。

