天平恋詠~極道のお嬢が奈良時代に転生~病弱皇子を守って、この国、あたしが変えてみせます!

都の春は、香のように静かに満ちていた。

花びらが風に舞い、朱塗りの回廊をやさしく流れていく。

遠くで鳥が鳴き、屋根瓦の上を白い光がすべる。

今日も――皇子の学びの日だった。

十五歳の首《おびと》皇子が、未来の王として学ぶ日。

政治、歴史、礼、そして仏の教え。

婚約者であるあたし――光明子《こうみょうし》も、同席を許されていた。

もちろん。

あの意地悪夫人まで、ついてきている。

(なんで毎回いるんだよ……監視?)

学び舎の奥には、ひとりの僧が静かに座していた。

穏やかな眼差し。

深く澄んだ声。

「――行基《ぎょうき》さま」

その名に、侍女たちが頭を下げる。

行基さまは、ふわりと笑った。

「仏の道とは、己を照らし、人を照らす道」

静かな声が、部屋に溶けていく。

「光とは外にあるものではなく、皆の心に宿るものにございます」

(うわぁ……なんか法事っぽい)

あたしは、つい心の中でつぶやいた。

(じいちゃん家の法事思い出すんだけど。極道の家だから、お坊さんの声めっちゃデカかったし、説教ながかったんだよね……)

ありがたい話、なのはわかる。

……でも。

難しい。

めっちゃ難しい。

ちら、と横を見る。

首皇子は、背筋をまっすぐ伸ばしていた。

病弱で細い身体。

だけど、その横顔は驚くほど真剣だった。

ひと言も聞き漏らさないように。

まるで、この国の未来を背負う人みたいに。

(……あ)

少しだけ、胸がちくりとした。

この人。

ずっと、こうやって頑張ってきたのかな。

やがて。

唐から伝わった経典が運び込まれた。

今日の学びは――写経。

硯《すずり》に水が落ちる。

墨をする音が、静かな部屋に響いた。

す……。

す……。

首皇子が筆を持つ。

細い指。

白く長い手。

その動きは、水が流れるみたいになめらかだった。

墨を含ませ、

息を整え、

音もなく筆を走らせる。

――綺麗。

ただ、それだけ思った。

あまりにも、綺麗だった。

「姫様も、ご一緒になさいますか?」

行基さまが、やさしく笑う。

「ぜひ、お願いいたします」

そう答えて、皇子の隣へ座った。

すると。

ほんの一瞬だけ。

皇子が、こちらを見る。

静かな瞳。

湖みたいに透き通っている。

でもすぐに視線を戻し、また筆を動かした。

……なんだろ。

ちょっとだけ、さみしい。

その時だった。

「ふぁぁ……」

県犬養夫人が、大あくびをした。

「わたくし、少々用事を思い出しましたわ」

そう言って、さっさと出ていく。

(絶対飽きたな)

部屋が静かになる。

聞こえるのは筆の音だけ。

窓の外では雀がチュンチュン鳴いている。

香木の煙が、ゆらゆら揺れた。

(……平和すぎる)

眠い。

やばい。

めっちゃ眠い。

その時――。

ふと、皇子の手元が目に入った。

「……え」

思わず、息が止まる。

美しい。

線が、生きている。

《《夜》》の字が、まるで月の光をまとっているみたいだった。

「皇子さま……これ、すごい」

思わず声が漏れる。

皇子は静かに言った。

「王義之《おうぎし》の書を写している」

「えええええっ!?」

声が裏返った。

(やばっ!! 知ってる!!)

(ラノベで読んだ!! 書の神様の人!!)

皇子の口元が、ほんの少しだけ緩む。

「驚きすぎだ」

「だ、だってすごいじゃないですか!」

「トン、と筆を入れる。右払いは流すように」

そう言って。

皇子が、こちらへ身を寄せた。

近い。

近い近い近い。

「光明も、やってみよ」

「は、はいっ」

慌てて筆を持つ。

でも――。

ぽた。

「あ」

墨が落ちた。

紙に黒いしみ。

(終わったぁぁぁぁ!!)

その瞬間。

くすり。

小さな笑い声。

「光明……力が入りすぎだ」

ふわり、と。

皇子の手が、あたしの手に重なった。

ひゃっ。

心臓が跳ねる。

「もっと力を抜いて」

低い声。

近い吐息。

指先が、やさしい。

「腕も……そう」

(ちょっ……!?)

(これ何!? 少女漫画!?)

(距離バグってません!?)

顔が熱い。

近すぎる。

むり。

心臓がもたない。

――その時。

ドタドタドタッ!!

静寂を蹴破る足音。

次の瞬間。

「ワンッ!!」

「あっ!!」

黒犬――クマが飛び込んできた。

「クマっ!?」

(お前、生きてたのか!!)

低く唸る犬。

その後ろには。

扇をあおぎながら、県犬養夫人。

(……あー)

(なるほど)

(あたしだけ皇子と仲良くしてるの、気に入らないんだ)

瞬間。

口が勝手に動いた。

「オラオラオラオラァ!! 何見とるんじゃコラァ!!」

しーーーーん。

行基さま、硬直。

侍女たち、青ざめる。

(あ)

(またやった)

クマが吠える。

「ワンッ!!」

その時。

すっと。

皇子が前へ出た。

「クマ、下がれ」

低い声。

静かな声。

怒鳴っていないのに――怖い。

犬は耳を伏せた。

そして、しぶしぶ後退る。

県犬養夫人も、悔しそうに去っていった。

(……すご)

(この人、怒鳴らないのに強い)

皇子は背を向けたまま言う。

「県犬養夫人の犬だ」

少しの沈黙。

「また、お前が何かしたと噂される。気をつけろ」

「……そんなつもりじゃ」

「わかっている」

短い言葉。

でも。

そのひと言が、胸に残った。

――信じてくれてる。

そう思っていいのかな。

部屋にまた静けさが戻る。

墨の香。

紙の音。

あたしは、もう一度筆を取った。

(よし)

(未来の皇后になるなら)

(国一番の達筆くらい、なってやる!)

すると、行基さまが目を細めた。

「おお……上達が早いですな」

「こちらの姫は、学ぶ心をお持ちだ」

あたしは背筋を伸ばす。

「ありがたき幸せにございます」

にっこり微笑みながら――心の中では。

(極道の家で鍛えた根性、なめんなよ)