その日、世界がブチ壊れる音を聞いた。
ピンポンピンポンピンポンピンポン――!
玄関のチャイムが、やけにうるさい。
「警察だ! ここを開けろ!」
ドンドンドンドンッ!
あー、はいはい。
来ましたね。
うちは今日も、たいへん平和じゃない。
「お嬢! 親父さんから電話で――がさ入れが決まったと!」
「はぁ!? なんで急に!?」
お嬢と呼ばれるあたし、鬼塚サツキ、十五歳。
高校一年生。
そして、ちょっとだけ普通じゃない家の娘。
まあ、正直に言うと――極道一家の跡取りである。
今は、お勤め中のじいちゃんの代わりに、家を仕切っている。
いや、仕切らされている。
こっちはまだ、放課後にクレープ食べたい年ごろなんですけど?
鉄の扉がガラッと開き、廊下の向こうからスーツ姿の若衆が駆け込んできた。
机の上の携帯は震えっぱなし。
金屏風の龍は、灯の下でギラギラ光っている。
「サブの奴、ヘマこいたっす!」
「ヘマ!? 何やらかしたのよ、あのバカぁ!」
あたしは立ち上がった。
弱い者いじめも、身内のヘマも、だいっきらい。
「何のヘマだ、言いな!」
「……お嬢には言うなって親父さんが……」
「言えやオラァァァ! で、がさ入れはいつ!」
その時だった。
ピンポーン。
「警察だ! ここを開けろ!」
ドンドンドンドン!
ピンポンピンポンピンポンピンポン!
あたしは、ため息をひとつ。
「……ちょ、ちょっと待ってくださーい♡」
「はようせんかぁ! 早うここ開けろぉ!」
深呼吸。
ふう……。
笑顔、笑顔。
こわい顔をしたら負け。
「お嬢、どうします? サブの奴、震えてます!」
「サブ、地下通路から逃げろ! トンネル越えて、あっちの島まで行け! 女装して電車乗れ!」
「ひゃ、ひゃい!」
「あと、顔がこわばってんのよ! もっとかわいく走れ!」
あたしは髪をかき上げ、制服のボタンを留めた。
襟のリボンを整える。
鏡の中のあたしは、どこから見ても普通の女子高生。
……たぶん。
「はーい。警察の皆さま、いつもご苦労様ですぅ♡ 今日はどうされましたかぁ?」
玄関を開けた瞬間、警官たちがどかどかと上がり込んできた。
「お嬢、遅い! 入らせてもらうぞ!」
「何ですか? うちは健全な会社ですよぉ? 税金も払ってます♡」
「ヤバいもん扱ってるだろが! サブが鉄砲ぶっぱなしたやろ!」
「そんなわけないでしょ? あの子、金魚に餌やるのもビビるんですよ?」
「匿ったら、じいさんの刑期が伸びるぞ」
その言葉に、あたしの笑顔が止まった。
「……へえ?」
「塀の中から指示してたとか、なんとでも言えるからな」
「まあまあまあ……警察官ともあろうお方が、脅しみたいなことを♡」
にっこり笑う。
でも、声は少し低くなっていた。
「女子高生が聞いたら、震えちゃいますよ?」
「お嬢、ただの女子高生じゃないだろが! 三代目を継ぐ姉御じゃろが!」
その瞬間――。
ガチャリ。
背後の扉が開いた。
「……サブ?」
地下通路から逃げたはずのサブが、そこに立っていた。
真っ青な顔。
震える手。
そして、その両手に握られていたものを見た瞬間、あたしの背中が冷えた。
「サブ、やめ――」
ドンッ。
耳鳴りがした。
世界が、スローモーションになる。
床に倒れこむあたし。
誰かが叫んでいる。
「お嬢ーー! 救急車呼べぇぇ!」
「確保しろっ! 逃がすな!」
視界がぐにゃりとゆがむ。
音も光も、ぜんぶ遠くなっていく。
ああ。
撃たれた。
まじか。
あたし、まだクレープも食べてないのに。
スマホの中には、読みかけの恋愛小説も残っている。
古代の姫に転生して、イケメン皇子に一途に愛される話。
あれ、続き読みたかったな。
できれば、あたしも一回くらい。
誰かに守られるだけじゃなくて。
大事な人を守って、めちゃくちゃ愛される人生とか――。
「……あたし、やっぱツイてない」
そう思ったのに。
心の奥で、なぜか笑っていた。
だって、負けっぱなしで終わるなんて、あたしらしくない。
光が差した。
白くて、どこまでも広い世界。
そこに、金の瞳を持つ女の人が立っていた。
「鬼塚サツキ。あんたほど度胸のある十五歳、なかなかいないわね」
「誰?」
「あえて言うなら、神様みたいなものかしら」
「へぇー。で、あたし死んだの?」
「ほぼね」
「ほぼって何。こわ」
女神は、きれいな顔で笑った。
「あんたを、古代に送りこむことにしたの」
「古代?」
「そう。奈良時代」
「奈良時代!?」
思わず声が裏返った。
「待って。平安じゃなくて? 十二単でイケメン貴公子と恋するやつじゃなくて?」
「残念。もっと前」
「もっと前!?」
「でも安心して。皇子はいるわ」
「皇子」
その言葉に、ちょっとだけ反応してしまう。
いや、だって。
皇子ですよ?
響きがすでに強い。
「しかも、かなり美しい」
「ほう」
「病弱だけど」
「病弱!?」
女神は、まっすぐあたしを見た。
「その皇子を守って。あの時代は、放っておくと壊れる」
「なんであたしが?」
「さっき願ったでしょ?」
「何を」
「古代の姫になって、イケメン皇子に一途に愛されたいって」
「……聞かれてたの!?」
「ばっちり」
「最悪! 心の中までのぞくとか反則!」
「ラノベ好きの魂って、波動が強いのよ」
「なにその雑な理由!」
女神が、にっこり笑った。
「チートもあげるわ」
「チート?」
「思ったことが、少しだけ現実になる力」
「少しだけ?」
「強く願えば、運命を動かせる。でも、使い方をまちがえたら、あなた自身も傷つく」
「ふーん」
あたしは腕を組んだ。
「つまり、あたしにその病弱皇子を守れってことね」
「そう。そして名を――光明子《こうみょうし》と名乗りなさい」
「こうみょうし?」
「いつか皇后になる娘よ」
皇后。
その言葉が、白い世界にひびいた。
皇后って、国で一番えらい女の人じゃん。
あたしが?
極道の娘のあたしが?
「上等じゃない」
あたしは、にやっと笑った。
「やるならてっぺん取る。泣いてるだけの姫なんて、あたしには無理だから」
女神が満足そうにほほえんだ。
「いい目ね。行きなさい、サツキ。あなたの恋が、歴史を変える」
まばゆい光があふれた。
世界が、ぐるんとひっくり返る。
◆◆◆
……次に目を開けた時。
あたしは、絹の寝台に寝ていた。
天井には、見たこともない花の模様。
壁には唐花文。
薄い布の幕が、風でふわりとゆれている。
外には、朱塗りの太い柱。
反り返った瓦屋根。
「……ここどこぉおおお!?」
叫んだ瞬間、そばにいた女の人たちが悲鳴を上げた。
「姫さま!?」
「光明子さま!」
「どうなされたのですか!」
「ちょ、待って。今、姫って言った!?」
あたしは飛び起きた。
しゃらん、と金のかんざしが鳴る。
自分の髪を見て、固まった。
長い。
黒い。
つやつや。
なにこれ、古代の姫仕様?
あわてて銅鏡をのぞきこむ。
そこに映っていたのは、あたしじゃなかった。
漆黒の髪。
真珠みたいな肌。
ふっくらした頬。
お姫さまみたいな衣。
「……うそでしょ」
本当に転生してる。
しかも奈良時代。
いや、奈良時代って何する時代?
鹿?
大仏?
修学旅行?
頭の中が大混乱していた、その時。
廊下の向こうから、苦しそうなせきが聞こえた。
「こほっ……」
細くて、今にも消えそうな音。
あたしは思わず、ふり返った。
そこに立っていたのは、ひどくきれいな男の子だった。
白い顔。
細い指。
金糸の衣が、月明かりを受けてかすかに光っている。
今にも倒れそうなくらい弱々しいのに、その目だけはまっすぐだった。
「……光明」
低くて、やさしい声。
「目を覚ましてくれて、よかった」
胸が、どくんと鳴った。
誰。
この人。
きれいすぎる。
それなのに、放っておいたら消えてしまいそう。
「あなた……誰?」
周りの侍女たちが、一斉に青ざめた。
「姫さま!」
「なんということを!」
けれど、その少年は怒らなかった。
少し困ったように笑うだけ。
「忘れてしまったのかな」
風が吹いた。
彼の細い髪が、ふわりと揺れる。
誰かが、小さな声で言った。
「首皇子《おびとのみこ》さま……」
首皇子。
――未来の天皇。
女神の言葉が、頭の中でよみがえる。
病弱皇子を守って。
あの時代は、放っておくと壊れる。
あたしは、ごくりとつばを飲んだ。
目の前の皇子は、静かにあたしへ手を伸ばす。
「光明。無理をしてはいけない。君が倒れたと聞いて、心配で……」
そう言いかけて、彼自身が小さくせきこんだ。
「こほっ……」
え。
待って。
心配されてる場合じゃない。
この人の方が、明らかに危ない。
あたしは寝台から降りると、皇子の手をつかんだ。
細い。
冷たい。
「ちょっと、あんた」
侍女たちが「姫さま!?」と悲鳴を上げる。
でも、そんなの知らない。
あたしは首皇子をまっすぐ見た。
「人の心配してる場合じゃないでしょ。そんな顔色で立ってたら、倒れるわよ」
皇子は、目を丸くした。
それから、ふっと笑った。
「……君は、ずいぶん強くなったね」
その笑顔が、あまりにもきれいで。
胸が、また跳ねた。
やばい。
この病弱皇子、守りたい。
いや、守らなきゃ。
あたしは、にやっと笑った。
「いい? 今日からあたしが守る。あんたも、この国も」
「この国も?」
「そうよ。泣いてるだけの姫なんて、あたしには無理」
侍女が卒倒しそうな顔をする。
でも、首皇子だけは、月明かりの中でやさしく笑った。
「面白いね、光明」
そして、あたしの手をぎゅっと握り返した。
冷たい指なのに、その力は思ったより強かった。
「では、私も誓おう」
「何を?」
首皇子は、静かに言った。
「君がこの国を守るなら、私は君を守る」
心臓が、止まりそうになった。
……何それ。
いきなり甘すぎない?
奈良時代、想像より危険。
そして、この皇子。
想像より、ずるい。
こうしてあたし、鬼塚サツキは、光明子として奈良時代に転生した。
病弱なのに、なぜかまぶしい皇子と出会い。
この国を変える恋に、足を踏み入れてしまったのだ。
――皇后になる未来なんて、この時はまだ知らない。
ピンポンピンポンピンポンピンポン――!
玄関のチャイムが、やけにうるさい。
「警察だ! ここを開けろ!」
ドンドンドンドンッ!
あー、はいはい。
来ましたね。
うちは今日も、たいへん平和じゃない。
「お嬢! 親父さんから電話で――がさ入れが決まったと!」
「はぁ!? なんで急に!?」
お嬢と呼ばれるあたし、鬼塚サツキ、十五歳。
高校一年生。
そして、ちょっとだけ普通じゃない家の娘。
まあ、正直に言うと――極道一家の跡取りである。
今は、お勤め中のじいちゃんの代わりに、家を仕切っている。
いや、仕切らされている。
こっちはまだ、放課後にクレープ食べたい年ごろなんですけど?
鉄の扉がガラッと開き、廊下の向こうからスーツ姿の若衆が駆け込んできた。
机の上の携帯は震えっぱなし。
金屏風の龍は、灯の下でギラギラ光っている。
「サブの奴、ヘマこいたっす!」
「ヘマ!? 何やらかしたのよ、あのバカぁ!」
あたしは立ち上がった。
弱い者いじめも、身内のヘマも、だいっきらい。
「何のヘマだ、言いな!」
「……お嬢には言うなって親父さんが……」
「言えやオラァァァ! で、がさ入れはいつ!」
その時だった。
ピンポーン。
「警察だ! ここを開けろ!」
ドンドンドンドン!
ピンポンピンポンピンポンピンポン!
あたしは、ため息をひとつ。
「……ちょ、ちょっと待ってくださーい♡」
「はようせんかぁ! 早うここ開けろぉ!」
深呼吸。
ふう……。
笑顔、笑顔。
こわい顔をしたら負け。
「お嬢、どうします? サブの奴、震えてます!」
「サブ、地下通路から逃げろ! トンネル越えて、あっちの島まで行け! 女装して電車乗れ!」
「ひゃ、ひゃい!」
「あと、顔がこわばってんのよ! もっとかわいく走れ!」
あたしは髪をかき上げ、制服のボタンを留めた。
襟のリボンを整える。
鏡の中のあたしは、どこから見ても普通の女子高生。
……たぶん。
「はーい。警察の皆さま、いつもご苦労様ですぅ♡ 今日はどうされましたかぁ?」
玄関を開けた瞬間、警官たちがどかどかと上がり込んできた。
「お嬢、遅い! 入らせてもらうぞ!」
「何ですか? うちは健全な会社ですよぉ? 税金も払ってます♡」
「ヤバいもん扱ってるだろが! サブが鉄砲ぶっぱなしたやろ!」
「そんなわけないでしょ? あの子、金魚に餌やるのもビビるんですよ?」
「匿ったら、じいさんの刑期が伸びるぞ」
その言葉に、あたしの笑顔が止まった。
「……へえ?」
「塀の中から指示してたとか、なんとでも言えるからな」
「まあまあまあ……警察官ともあろうお方が、脅しみたいなことを♡」
にっこり笑う。
でも、声は少し低くなっていた。
「女子高生が聞いたら、震えちゃいますよ?」
「お嬢、ただの女子高生じゃないだろが! 三代目を継ぐ姉御じゃろが!」
その瞬間――。
ガチャリ。
背後の扉が開いた。
「……サブ?」
地下通路から逃げたはずのサブが、そこに立っていた。
真っ青な顔。
震える手。
そして、その両手に握られていたものを見た瞬間、あたしの背中が冷えた。
「サブ、やめ――」
ドンッ。
耳鳴りがした。
世界が、スローモーションになる。
床に倒れこむあたし。
誰かが叫んでいる。
「お嬢ーー! 救急車呼べぇぇ!」
「確保しろっ! 逃がすな!」
視界がぐにゃりとゆがむ。
音も光も、ぜんぶ遠くなっていく。
ああ。
撃たれた。
まじか。
あたし、まだクレープも食べてないのに。
スマホの中には、読みかけの恋愛小説も残っている。
古代の姫に転生して、イケメン皇子に一途に愛される話。
あれ、続き読みたかったな。
できれば、あたしも一回くらい。
誰かに守られるだけじゃなくて。
大事な人を守って、めちゃくちゃ愛される人生とか――。
「……あたし、やっぱツイてない」
そう思ったのに。
心の奥で、なぜか笑っていた。
だって、負けっぱなしで終わるなんて、あたしらしくない。
光が差した。
白くて、どこまでも広い世界。
そこに、金の瞳を持つ女の人が立っていた。
「鬼塚サツキ。あんたほど度胸のある十五歳、なかなかいないわね」
「誰?」
「あえて言うなら、神様みたいなものかしら」
「へぇー。で、あたし死んだの?」
「ほぼね」
「ほぼって何。こわ」
女神は、きれいな顔で笑った。
「あんたを、古代に送りこむことにしたの」
「古代?」
「そう。奈良時代」
「奈良時代!?」
思わず声が裏返った。
「待って。平安じゃなくて? 十二単でイケメン貴公子と恋するやつじゃなくて?」
「残念。もっと前」
「もっと前!?」
「でも安心して。皇子はいるわ」
「皇子」
その言葉に、ちょっとだけ反応してしまう。
いや、だって。
皇子ですよ?
響きがすでに強い。
「しかも、かなり美しい」
「ほう」
「病弱だけど」
「病弱!?」
女神は、まっすぐあたしを見た。
「その皇子を守って。あの時代は、放っておくと壊れる」
「なんであたしが?」
「さっき願ったでしょ?」
「何を」
「古代の姫になって、イケメン皇子に一途に愛されたいって」
「……聞かれてたの!?」
「ばっちり」
「最悪! 心の中までのぞくとか反則!」
「ラノベ好きの魂って、波動が強いのよ」
「なにその雑な理由!」
女神が、にっこり笑った。
「チートもあげるわ」
「チート?」
「思ったことが、少しだけ現実になる力」
「少しだけ?」
「強く願えば、運命を動かせる。でも、使い方をまちがえたら、あなた自身も傷つく」
「ふーん」
あたしは腕を組んだ。
「つまり、あたしにその病弱皇子を守れってことね」
「そう。そして名を――光明子《こうみょうし》と名乗りなさい」
「こうみょうし?」
「いつか皇后になる娘よ」
皇后。
その言葉が、白い世界にひびいた。
皇后って、国で一番えらい女の人じゃん。
あたしが?
極道の娘のあたしが?
「上等じゃない」
あたしは、にやっと笑った。
「やるならてっぺん取る。泣いてるだけの姫なんて、あたしには無理だから」
女神が満足そうにほほえんだ。
「いい目ね。行きなさい、サツキ。あなたの恋が、歴史を変える」
まばゆい光があふれた。
世界が、ぐるんとひっくり返る。
◆◆◆
……次に目を開けた時。
あたしは、絹の寝台に寝ていた。
天井には、見たこともない花の模様。
壁には唐花文。
薄い布の幕が、風でふわりとゆれている。
外には、朱塗りの太い柱。
反り返った瓦屋根。
「……ここどこぉおおお!?」
叫んだ瞬間、そばにいた女の人たちが悲鳴を上げた。
「姫さま!?」
「光明子さま!」
「どうなされたのですか!」
「ちょ、待って。今、姫って言った!?」
あたしは飛び起きた。
しゃらん、と金のかんざしが鳴る。
自分の髪を見て、固まった。
長い。
黒い。
つやつや。
なにこれ、古代の姫仕様?
あわてて銅鏡をのぞきこむ。
そこに映っていたのは、あたしじゃなかった。
漆黒の髪。
真珠みたいな肌。
ふっくらした頬。
お姫さまみたいな衣。
「……うそでしょ」
本当に転生してる。
しかも奈良時代。
いや、奈良時代って何する時代?
鹿?
大仏?
修学旅行?
頭の中が大混乱していた、その時。
廊下の向こうから、苦しそうなせきが聞こえた。
「こほっ……」
細くて、今にも消えそうな音。
あたしは思わず、ふり返った。
そこに立っていたのは、ひどくきれいな男の子だった。
白い顔。
細い指。
金糸の衣が、月明かりを受けてかすかに光っている。
今にも倒れそうなくらい弱々しいのに、その目だけはまっすぐだった。
「……光明」
低くて、やさしい声。
「目を覚ましてくれて、よかった」
胸が、どくんと鳴った。
誰。
この人。
きれいすぎる。
それなのに、放っておいたら消えてしまいそう。
「あなた……誰?」
周りの侍女たちが、一斉に青ざめた。
「姫さま!」
「なんということを!」
けれど、その少年は怒らなかった。
少し困ったように笑うだけ。
「忘れてしまったのかな」
風が吹いた。
彼の細い髪が、ふわりと揺れる。
誰かが、小さな声で言った。
「首皇子《おびとのみこ》さま……」
首皇子。
――未来の天皇。
女神の言葉が、頭の中でよみがえる。
病弱皇子を守って。
あの時代は、放っておくと壊れる。
あたしは、ごくりとつばを飲んだ。
目の前の皇子は、静かにあたしへ手を伸ばす。
「光明。無理をしてはいけない。君が倒れたと聞いて、心配で……」
そう言いかけて、彼自身が小さくせきこんだ。
「こほっ……」
え。
待って。
心配されてる場合じゃない。
この人の方が、明らかに危ない。
あたしは寝台から降りると、皇子の手をつかんだ。
細い。
冷たい。
「ちょっと、あんた」
侍女たちが「姫さま!?」と悲鳴を上げる。
でも、そんなの知らない。
あたしは首皇子をまっすぐ見た。
「人の心配してる場合じゃないでしょ。そんな顔色で立ってたら、倒れるわよ」
皇子は、目を丸くした。
それから、ふっと笑った。
「……君は、ずいぶん強くなったね」
その笑顔が、あまりにもきれいで。
胸が、また跳ねた。
やばい。
この病弱皇子、守りたい。
いや、守らなきゃ。
あたしは、にやっと笑った。
「いい? 今日からあたしが守る。あんたも、この国も」
「この国も?」
「そうよ。泣いてるだけの姫なんて、あたしには無理」
侍女が卒倒しそうな顔をする。
でも、首皇子だけは、月明かりの中でやさしく笑った。
「面白いね、光明」
そして、あたしの手をぎゅっと握り返した。
冷たい指なのに、その力は思ったより強かった。
「では、私も誓おう」
「何を?」
首皇子は、静かに言った。
「君がこの国を守るなら、私は君を守る」
心臓が、止まりそうになった。
……何それ。
いきなり甘すぎない?
奈良時代、想像より危険。
そして、この皇子。
想像より、ずるい。
こうしてあたし、鬼塚サツキは、光明子として奈良時代に転生した。
病弱なのに、なぜかまぶしい皇子と出会い。
この国を変える恋に、足を踏み入れてしまったのだ。
――皇后になる未来なんて、この時はまだ知らない。

