続 ・ あなたが愛しすぎて…

数年後、陽葵はすっかり背が伸び、少し大人びた制服姿が板につくようになっていた。

​ある休日の午後、リビングで絵里と二人、洗濯物を畳んでいた陽葵が、ふと手を止めて尋ねた。

​「ねえ、ママ。ママは……パパの声、聞いたことある?」
​その唐突な問いに、絵里は一瞬動きを止めたが、すぐに穏やかな微笑みを浮かべて頷いた。

​「あるよ。何度か、ね」
​「えー、ずるい……」

​陽葵は少し唇を尖らせた。その子供っぽさが残る反応に、絵里は小さく笑った。
​「ずるいって言われても。どうして急にそんなこと気になったの?」

​「うーん……。この前、友達がお父さんと普通に言い合いしたり、電話で話したりしてるのを見て、ふと思っちゃったんだ。パパの声って、本当はどんな感じなんだろうな、って」

​陽葵は、ベランダ越しに広がる青空を見つめながら、まだ聞かぬ音に想いを馳せるような瞳をしていた。

​「優しい声だよ」
​絵里は、遠い記憶を慈しむように言葉を紡いだ。

​「低くて、少し掠れていてね。陽葵を抱き上げたときに、パパがたまに漏らす吐息みたいな、あの温かい響きをそのまま形にしたような声」

​「優しい声かぁ……」
​陽葵は自分の喉元にそっと手を当てた。

​「陽葵も、一度でいいから聞いてみたいな。パパの声」
​少し寂しそうに笑う娘の横顔を、絵里は愛おしそうに見つめた。

​「ふふ、でもね、パパの声はママだけのだから。ママのパパなんだもん。あ、でも……陽葵が生まれたとき、パパ、一生懸命に陽葵の名前を呼ぼうとしてたんだよ」

​「え、そうなの?」
​陽葵の瞳がぱっと輝いた。

​「うん。声にはならなかったかもしれないけど、パパの全身が、陽葵を呼ぶ『声』になってた。今も、パパが手話をしてくれるときは、ママにはパパの声がはっきり聞こえるよ」

​その言葉に、陽葵は深く頷いた。
ちょうどその時、玄関の開く音がして、買い物から戻った章男がリビングに入ってきた。

​「パパ、おかえり」
​陽葵は、かつてのように駆け寄って抱きついたりはしない。けれど、椅子から立ち上がって章男の荷物を受け取ると、彼と目を合わせて、少し大人びた手話を添えた。

​『パパ、お疲れ様。お茶、淹れるね』
​章男は少し照れくさそうに、でも最高に幸せそうに目を細めて、陽葵の頭を軽くポンと叩いた。

​陽葵には、その掌から伝わる温もりが、どんな言葉よりも深く心に響く「声」のように感じられた。

​陽葵がキッチンへ向かい、茶葉の準備を始める後ろ姿を見送りながら、絵里と章男はリビングで視線を合わせた。
​章男はふと、窓の外に広がる夕焼けを見つめた。
窓から差し込むオレンジ色の光が、家族で過ごしてきた年月を優しく包み込んでいる。
​今のこの家にあるのは、決して冷たい沈黙ではない。
陽葵が淹れるお茶の香り、絵里が畳む洗濯物の柔らかな音。そして、言葉を介さなくても伝わり合う、確かな愛の温度。
​章男はゆっくりと、絵里に向かって手を動かした。
​『絵里、幸せだね』
​絵里は、その手話の動きの端々に、先ほど陽葵に話した「優しくて、少し掠れた声」が重なって聞こえた気がした。彼女は章男の隣に座り、その大きな手に自分の手をそっと重ねる。
​「ええ、本当に」
​キッチンから、陽葵の明るい声が響く。
「パパ、お待たせ! 今日のお菓子も美味しそうだよ」
​陽葵が運んできた湯呑みを手に取り、章男は温かな湯気に目を細めた。
自分の声は、娘の耳には直接届かないかもしれない。
けれど、自分が絵里を愛し、陽葵を慈しみ、こうして共に生きてきた日々そのものが、一つの大きな「歌」のように家族を包んでいることを、今の章男は知っている。
​かつて授業参観で陽葵が見せてくれた、あの誇らしげな笑顔。
その光は今も色褪せることなく、三人の行く先を明るく照らし続けている。
​三人の穏やかな時間が重なり合い、溶けていく。
音のない世界で、誰よりも雄弁に愛を語り合う家族の物語は、これからもこの温かな部屋から、未来へと続いていく。