続 ・ あなたが愛しすぎて…

激しい夜の熱を帯びた空気が、朝の柔らかな光ですっきりと洗い流された。

食卓にはいつものように、温かい朝食の湯気が上がっている。陽葵は元気よく「行ってきます!」と手を振り、ランドセルを揺らして学校へ向かった。

​その日の夕方。
学校から帰宅した陽葵は、玄関に靴を脱ぎ捨てる勢いで絵里のもとへ駆け寄った。
​「ママ、これ! パパに渡して!」

​陽葵が差し出したのは、数週間後の日曜日に予定されている「父の日・授業参観」のプリントだった。キッチンで夕飯の支度をしていた絵里は、娘の弾んだ声に目を細める。

​「パパ、まだお仕事だよ。帰ってきたら一緒に渡そうね」
​「えー、早く言いたい! パパ、絶対びっくりするよ!」

​陽葵は待ちきれない様子で、何度も玄関の方を振り返った。
​やがて、鍵が開く音がして章男が帰宅した。陽葵はパタパタと廊下を走り、章男が鞄を置く間も与えずにその腰にしがみついた。

​「パパ、おかえり! あのね、これ、絶対に来てほしいの!」
​章男は驚きながらも、陽葵の差し出したプリントを受け取った。そこには大きく『父の日 授業参観』の文字。

大勢の人が集まる場所は、彼にとって今も緊張を強いる場所だ。少し戸惑ったように絵里と顔を見合わせた章男だったが、自分を真っ直ぐに見つめる娘の瞳には、一切の迷いも恥じらいもなかった。

​章男は膝をついて陽葵と目線を合わせると、ゆっくりと、力強く頷いた。
​『約束だ。必ず行くよ』
​その手話を読み取った陽葵は「やったー!」と叫び、章男の首にぎゅっと抱きついた。

​そして、授業参観当日。
窓の外には初夏の眩しい光が溢れていた。
​教室の後ろに並ぶ保護者たちの中に、章男と絵里、そして少し離れたところには、緊張した面持ちの和代の姿もあった。

​「……次は、河原陽葵さん。お願いします」
​担任の先生に促され、陽葵が教壇に立った。クラスメイトや保護者たちの視線が一斉に集まる。章男は無意識に、シャツの裾をぎゅっと握りしめた。

​けれど、陽葵は違った。彼女は真っ直ぐに章男を見つめ、にっこりと笑った。
​「私のパパを紹介します。名前は章男といいます」
​陽葵は、はっきりとした声で話し始めた。それと同時に、彼女の両手もしなやかに動き出す。

​『私のパパは、耳が聞こえません。でも、誰よりも優しくて、素敵な人です』
​教室が静まり返る。陽葵の指先は、章男と一緒に練習したあの「素敵なパパ」を伝えるための手話を、迷いなく宙に描いた。

​「パパの手は、魔法の手です。私とお話をしてくれるし、楽しいことをたくさん教えてくれる。私は、パパのことを世界一かっこいいと思っています!」

​陽葵が最後に、胸を張って『大好き』という手話を章男に贈ったとき、教室中から温かな拍手が沸き起こった。

​章男は、もう俯いてはいなかった。
視界が涙で潤んでいくのを止められなかったが、その瞳はしっかりと、自分を誇らしいと伝えてくれた娘を捉えていた。隣で絵里が彼の腕をそっと支え、和代もまた、何度も頷きながら目元をハンカチで押さえていた。

​章男の心にあった深い傷跡は、絵里の深い愛と、陽葵が教えてくれた「誇り」という名の光によって、今、完全に癒やされていた。
​三人の影が、寄り添うようにして家路へと続いていく。
それは、どんな言葉よりも雄弁に、彼らの幸せな未来を物語っていた。