続 ・ あなたが愛しすぎて…

「……パパ」
​リビングに響いたその小さな声に、絵里は思わず手に持っていた絵本を落としそうになった。

​「えっ、今パパって言った? 陽葵、もう一回……ママでしょ? マ・マ!」

「ぱぱ!」
​絵里の必死な訴えも虚しく、陽葵は満面の笑みでソファに座る章男を指さした。

章男は、陽葵が自分を呼んだのだと本能で察したのだろう。彼は陽葵をこれ以上ないほど愛おしそうに抱きしめ、その柔らかな頬に自分の顔を寄せた。

​章男の目は、喜びで少し潤んでいるように見えた。彼は絵里に向かって、人差し指で頬をなでてから、親指を立てる「パパ」の手話を見せ、それから陽葵の頭を何度も何度も撫でた。

​「……もう、パパに負けちゃった。でも、章男がこんなに幸せそうなんだから、いっか」

​絵里は苦笑しながら、三人の着替えを準備し始めた。今日は、陽葵がお気に入りの近所の公園へ行く日だ。

​公園は春の柔らかな日差しに包まれていた。
陽葵は砂場で遊んでいた少し年上の女の子から、赤いバケツを「どうぞ」と貸してもらった。

​その時だった。
​「……あり、がと」
​陽葵がたどたどしく口にした言葉と一緒に、小さな右手の甲を、左手で軽く叩く仕草をした。それは、章男がいつも家で使っている「ありがとう」の手話だった。

​貸してくれた女の子も、その母親も、驚いたように目を丸くした。
​「あら! 今、手話でお礼してくれたの? すごいねえ、お利口さんね」

​絵里は胸が熱くなるのを感じた。教えていたわけではない。けれど、陽葵は毎日、パパとママが交わしている「愛の伝え方」を、ちゃんと自分のものにしていたのだ。

​章男は少し離れたところで、その光景を静かに、けれど誇らしげに見守っていた。絵里が章男に駆け寄り、今の出来事を手話で伝えると、彼は驚いたあと、深く、深く頷いた。

​『陽葵は、僕たちの言葉をちゃんと見ていてくれたんだね』
​章男の手話は、少し震えていた。

​陽葵がパパを「パパ」と呼び、パパの大切な言葉で世界と繋がっていく。

かつて孤独の中にいた章男と、愛に迷った絵里。二人の間に生まれた小さな命は、音のある世界とない世界を、その小さな手で、いとも簡単に、そして美しく繋いでみせた。

​「……陽葵、大好きだよ」
​絵里が陽葵を抱き上げると、章男も二人の肩を抱いた。
公園の喧騒の中で、そこだけが凪いだ海のように静かで、けれど世界で一番温かい光に満ちていた。