夜明けが近づくころ。
横浜の空が、少しずつ青くなりはじめた。
雪はまだ残っているけれど、吹雪はもう止んでいる。
やがて、お屋敷に警察官たちがやって来た。
「これは……!」
客間の様子を見た刑事さんが顔をしかめる。
若旦那さまのご遺体。
ぼろぼろになった赤ワイン色のドレス。
左目をおさえてうずくまる弥助さん。
そして、力なく座りこむ桐子夫人。
私は、冷えた指先をぎゅっとにぎった。
全部、本当に起こったことなんだ。
夢じゃない。
「事情を聞かせてください」
刑事さんが言うと、小田切さんが一歩前へ出た。
黒い外套には雪が残っている。
頬の小さな傷が、なんだか痛そうだった。
でも、小田切さんは少しも動じていない。
「犯行時刻は、おそらく午後九時前後です」
その声は、落ち着いていて、よく通る。
私は、思わず見とれてしまった。
……すごい。
さっきまで命がけで戦っていたのに。
もう、ちゃんと記者さんの顔をしている。
小田切さんは、懐中時計を見せながら、事件の流れを説明した。
停電した時間。
雪女の足あと。
窓に書かれた文字。
《ヨウコヲカエセ》。
そして――。
「足あとは、本物ではありません」
小田切さんが続ける。
「押し型で作られたものです。こちらの朝霧すみれさんが気づきました」
「えっ」
突然名前を出されて、肩がびくっとなる。
刑事さんたちの視線が集まった。
「このお嬢さんが?」
「はい。彼女の観察力がなければ、私は雪女を信じていたかもしれません」
「ちょ、小田切さんっ」
顔が熱い。
そんなにほめられると困る。
でも。
少しだけ、うれしい。
刑事さんがうなずいた。
「なるほど……」
やがて、弥助さんが重たい口を開いた。
「……全部、私がやりました」
部屋が静まる。
「雪女の衣装を用意し、足あとも作りました。洋子お嬢さまの恨みを晴らしたかったんです」
その声は、泣いているみたいだった。
「奥さまだけを責めないでください。私も、ずっと許せなかった」
桐子夫人は、静かに目を閉じる。
赤ワイン色のドレスのすそが、破れたまま床に落ちていた。
きれいだったドレス。
でも今は、もう悲しい色に見えた。
「洋子を守れなかった」
夫人が、小さくつぶやく。
「せめて、涼馬に罪を犯したことを知ってほしかった……」
私は、何も言えなかった。
悪い人。
そう言い切れない。
だけど、許されることでもない。
人の気持ちは、ドレスの糸みたい。
少しずつほつれて、気づいた時には元に戻れなくなる。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
大時計が、ボーンと七時を告げた。
朝だった。
桐子夫人と弥助さんは、刑事さんに連れられていった。
雪の上に、ふたりの足あとがのびる。
その後ろ姿は、なんだか少しだけ、さみしそうだった。
私は、白くなった息を見つめた。
「終わったんですね……」
すると、ぽん。
頭に何か乗った。
「ひゃっ」
見ると、小田切さんの手だった。
「おつかれさまです、名探偵さん」
「だから、名探偵じゃありません!」
「では、洋裁探偵?」
「もっと変です!」
小田切さんが、くすっと笑う。
あ。
この人、ちゃんと笑うんだ。
なんだか、それが少しうれしかった。
「でも、本当に助かりました。小田切さん、命の恩人です」
私は頭を下げた。
「小田切さんがいなかったら、私……」
言いかけた時。
ふいに、頭をぽんぽんされた。
「すみれさん、それは私も同じ気持ちですよ」
「え?」
「あなたが外へ飛び出して、人を呼んでくれた。あれがなければ危なかった」
まっすぐな声。
雪みたいに冷たい朝なのに、胸の奥があたたかくなる。
小田切さんが、こわれた万年筆を見せた。
「ひとつお願いがあります」
「え?」
「これ、だめになってしまいました」
「あ……」
戦いの時に使った、あの万年筆。
「では、お礼に新しいものをお贈りします!」
「本当ですか?」
「はい!」
小田切さんは、にやりと笑った。
少し意地悪そうな笑い方。
「では、ナイフ入りをお願いします。スパイが使う特別製なので少し高いですが」
「ええ!?」
思わず声が大きくなる。
「そんな高そうなもの、買えません!」
「そうですね。たぶん、ドレス十着分くらいでしょうか」
「じゅ、十着!?」
私は青ざめた。
「それじゃ、十年くらいかかります……!」
すると小田切さんが、ふっと笑った。
「では、十年待ちます」
「え?」
「その代わり――」
少しかがんで、私を見る。
近い。
近いです!
「また事件が起きたら、手伝ってください」
胸が、どきんと鳴った。
私は、こほんと咳払いする。
「……し、仕方ありませんね」
「頼もしい返事です」
「でも! 次は危ないことなしです!」
「約束はできません」
「もう!」
笑ってしまう。
さっきまであんなにこわかったのに。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
横浜の雪もやっと溶け、春が来た。
港の風はやさしく、汽笛がぼうっとひびく。
あの夜の雪は、とっくにとけていた。
洋裁店の帰り道。
私は、ふと丘の上のお屋敷を見上げる。
今はもう、空き家になっている。
――その時。
窓の奥に、ほんの一瞬、灯りがゆれた気がした。
「……まさか、ね」
私は小さく笑う。
でも。
雪どけの石畳に、小さな足あとが残っていた。
生きていれば、七歳。
洋子ちゃんは、もしかしたら、あの夜どこかへ連れて行かれたのかもしれない。
もし、どこかで生きているなら。
どうか、しあわせでいて。
この広い横浜のどこかで。
春の光の中、笑っていて。
そのころ――。
横浜日々新聞では、小田切さんの書いた『雪女事件』の記事が大人気になっていた。
そして数日後。
私のもとへ、一通の手紙が届く。
『新しい事件です。すみれさん、また力を貸してください』
差出人は――。
もちろん、意地悪な新聞記者さん。
私は、思わず笑ってしまった。
「……もう。仕方ない人」
でも。
少しだけ、会えるのが楽しみな自分がいた。
大正横浜。
こうして、洋裁師見習い・朝霧すみれと新聞記者・小田切蓮の、最初の事件は終わった。
そして――
ふたりの物語は始まった。

