桐子夫人は、ゆっくり立ち上がった。
さっきまで青ざめて、ふるえていた人とは思えない。
赤いくちびるが、すうっと笑う。
「……気づかれてしまったようですわね」
その声は、氷みたいに冷たかった。
「弥助。次の作戦にすすめましょう」
「はい、奥さま」
背後から、弥助さんがあらわれた。
その手には、長いロープ。
私は思わず、小田切さんのそでをつかんだ。
「小田切さん……」
「大丈夫。私の後ろに」
小田切さんは、すぐに私の前へ出た。
その背中が、思っていたより大きく見える。
こんな時なのに、胸がきゅっとした。
けれど、弥助さんの動きは早かった。
「おとなしくしてくださいませ。夜は長うございます。三つのなきがらと過ごす夜は、とびきり長くなりそうですからな」
「三つ……?」
私の声が、ふるえた。
次の瞬間、私と小田切さんは、ふたりまとめてロープでしばられてしまった。
背中合わせに座らされる。
小田切さんの背中のあたたかさが、布ごしに伝わってくる。
こんなにこわいのに。
そのぬくもりだけが、私をつなぎとめてくれていた。
目の前には、若旦那さまのなきがら。
銀色のナイフ。
赤く染まったじゅうたん。
私は唇をかみしめた。
「奥さま……どうして、こんなことを」
桐子夫人は答えなかった。
弥助さんが、暖炉の薪の中へ黒いかたまりを投げこんだ。
「練炭……!」
小田切さんが声を低くした。
「やめろ。そんなものを燃やしたら、中毒で死んでしまう」
「だからですわ」
桐子夫人は、やさしくほほえんだ。
「雪女のしわざに見せるには、朝まで静かにしていただくのが一番ですもの」
電気が消された。
部屋は、また暗くなった。
暖炉の火だけが、赤くゆれている。
ぱちぱち、ぱちぱち。
薪の火が、練炭にうつっていく。
部屋はしめきられていた。
だけど、さっきテラスの扉が開いたせいで、どこかから細い風が入っている。
それでも、時間がたてば危ないことに変わりはない。
「小田切さん……私たち、死んでしまうの?」
「死なせません」
すぐに返ってきた声は、少しもゆれていなかった。
「約束します。あなたは私が守ります」
その言葉に、涙が出そうになった。
だめ。
泣いたら、小田切さんを心配させてしまう。
私は小さく息を吸った。
「……はい。信じます」
背中ごしに、小田切さんが少しだけ動いた。
まるで、私を安心させるみたいに。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
奥さまと弥助さんは部屋を出ていった。
客間の大時計が、重い音をひびかせる。
ボーン。
ボーン。
ボーン。
三時。
長い夜が、私たちをのみこんでいく。
暖炉の火は、赤く、赤く、燃えていた。
息が少し苦しい。
頭がぼんやりする。
でも、小田切さんはずっと静かだった。
「すみれさん」
「はい……」
「眠ってはいけません。私の声だけ聞いていて」
「小田切さんの声……?」
「ええ。ほら、私の悪口でもいいですよ。起きていられるでしょう」
「……小田切さんは、意地悪です」
「はい」
「口が悪いです」
「自覚しています」
「顔がいいからって、何を言っても許されると思っています」
「それは初耳ですね」
「……でも」
「でも?」
私は、熱くなった顔をうつむけた。
「助けに来てくれるところは、少しだけ……かっこいいです」
背中ごしに、小田切さんが息をのむ気配がした。
「それは光栄です」
声が少しだけ、やわらかい。
こんな時なのに、胸がどきんと鳴る。
本当に、ずるい人。
やがて、大時計が四時を告げた。
ボーン。
ボーン。
ボーン。
ボーン。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
扉が開いた。
入ってきた桐子夫人は、赤ワイン色のドレスに着替えていた。
深い赤。
夜のバラみたいな色。
私が仮ぬいしたドレスだった。
けれど今は、こわいくらい美しい。
「三年前の吹雪の夜のことを、話しましたね」
桐子夫人は、静かに言った。
「涼馬さんが、洋子を外に出して扉を閉めたのです。西園寺家の主として、あの子を罰したのです」
暖炉の火が、夫人の横顔を赤く照らす。
「でも、私たちは見ていることしかできませんでした。洋子が吹雪の中で泣きさけぶのを」
夫人の声が、ふるえた。
「お母さまぁ。お母さまぁ――」
その言葉に、胸がつぶれそうになった。
四歳の小さな女の子。
雪の中で、母を呼んでいた子。
「その声が、まだこの耳に残っています」
桐子夫人は、自分の耳に手を当てた。
「私はドアに背をつけて、耳をふさいで耐えていました。旦那さまには責められました。どうして助けに行かなかったのかと。けれど、あの時の私は、西園寺家の若い主に逆らえなかった」
「奥さま……」
「やがて、その声は聞こえなくなりました。あの子の姿も、消えました」
夫人の目から、涙がこぼれた。
「私は必死で探しました。雪の中、あの子の足あとを探しました。でも、ぷつりと、あの子のはだしの足あとが消えていたのです」
白い雪。
小さな足あと。
そして、消えた女の子。
私は、何も言えなかった。
「悔やみました。泣きました。時間を戻せるのなら、今度はきっと逆らいます。家を出されてもいい。離縁されてもいい。今なら、そうします」
桐子夫人は、胸元をぎゅっとにぎった。
「だから、せめて今夜だけでも……あの日と同じ吹雪の夜に、洋子を家に迎えてやりたかったのです」
涙声が、ふいに低くなった。
「そして、涼馬に罰を与えたかった」
ぞくりとした。
「あなた方が、おとなしく雪女のせいにしてくれればよかったのに」
桐子夫人は、私を見る。
その目は、もう泣いていなかった。
「こざかしくも真実を言い当ててしまって。本当に迷惑だわ」
赤ワイン色のドレスのすそが、ふわりとゆれる。
「こんなドレス、もういまわしい代物になってしまった。けれど、返り血を浴びるにはちょうどいい色ね」
「やめてください……」
「あなたたちの血も、この赤なら目立たないでしょう?」
その時、後ろから弥助さんがあらわれた。
手には、長い刀。
異国のものらしく、光を受けてぎらりと光った。
「すみれさん」
小田切さんの声が、背中ごしに届く。
「目を閉じて」
「いやです」
「すみれさん」
「いやです。私も、ちゃんと見ます」
私はこわくてたまらなかった。
でも、小田切さんだけに戦わせたくなかった。
その時だった。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
ふわり。
手首のロープがゆるんだ。
「え……?」
小田切さんが、小さく笑った。
「ズボンのポケットに入れていた万年筆に、小さなナイフを仕込んでいたんです。まさか本当に役に立つとは」
「万年筆にナイフ……?」
「記者は、いろいろな場所に入りますからね」
ロープが落ちる。
小田切さんはすっと立ち上がり、私の前に立ちはだかった。
その背中は、もう一度、私を守る壁になった。
「すみれさんに、指一本ふれさせない」
低い声だった。
いつもの意地悪な声じゃない。
本気で怒っている声。
胸が、痛いくらい鳴った。
「小田切さん……」
弥助さんが刀をかまえる。
その瞬間、小田切さんは万年筆のキャップを外し、ひゅっと投げた。
銀色の小さな影が飛ぶ。
「ぐあっ!」
キャップは、弥助さんの左目のあたりをかすめた。
弥助さんがひるんだ。
そこからの小田切さんの動きは、まるで別人だった。
「すみれさん、下がって!」
「きゃっ」
私は後ろへ突き飛ばされる。
でも乱暴ではなかった。
転ばないよう、最後にそっと手で支えてくれた。
そのまま小田切さんは、弥助さんの胸へ飛びこんだ。
長い足が、するどく宙を切る。
弥助さんがよろめく。
刀が床に落ちた。
小田切さんはそれを拾い上げ、弥助さんとの間に構えた。
「逃げて、すみれ!」
初めて、呼び捨てにされた。
こんな時なのに、心臓が跳ねた。
でも、ぼうっとしている場合じゃない。
このままでは、私は足手まといになる。
私はテラスの扉へ走った。
「小田切さん、必ず追いかけてきてくださいね!」
「もちろんです。あなたをひとりにするわけがない」
その言葉を背中に受けて、私は庭へ飛び出した。
冷たい雪が、足にまとわりつく。
ふり向くと、窓の向こうで、小田切さんが刀をびゅんと振っていた。
桐子夫人の赤ワイン色のドレスのすそが、裂けていく。
きれいで、かなしいドレス。
それが、雪の夜にぼろぼろになっていく。
私はくちびるをかんで、通りへ走った。
こんな時、一番いい言葉は?
人を集めるには?
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
「火事でーーーーーーーーす!」
私はありったけの声で叫んだ。
「西園寺家の中で、火事が起きていますーー!」
嘘ではない。
暖炉で練炭が燃えている。
このままだと、本当に危ない。
近くの家の窓に、ぽつぽつと明かりがともった。
「なんだって?」
「西園寺家で火事?」
「とにかく、中を見に行け!」
人々が外へ出てくる。
その時、屋敷の扉が開いた。
雪の中に、小田切さんが出てきた。
肩で息をしている。
黒い髪に雪がついて、頬には小さな傷。
それでも、ちゃんと立っている。
「小田切さん!」
私は走り寄った。
「すみれさん、無事ですか」
「それは私のせりふです!」
思わず泣きそうになる。
小田切さんは、一瞬だけ困った顔をして、それから私の頭にそっと手を置いた。
「よくやりました。あなたの声で、人が集まった」
「……小田切さんが、逃げろって言ったからです」
「ええ。ちゃんと逃げてくれて、助かりました」
やさしい声だった。
雪の中なのに、胸だけがあたたかい。
小田切さんは集まった人たちに向き直った。
「火事ではありません。事件です! 若旦那さまが亡くなっています。中にはけが人もいます。すぐに警察を!」
夜明け前の横浜に、人々の声が広がっていく。
雪女の夜は、もう終わろうとしていた。

