「停電していたのは、たった二分……」
小田切さんが、銀の時計を見つめたまま低くつぶやいた。
「その短い暗闇の中で、若旦那さまは命を落としたのか」
胸には、銀色のナイフ。
広がる血の海。
開いたテラスの扉。
雪の上に残る、白い足あと。
そして――。
「雪女よ……」
桐子夫人が、口元を押さえながら後ずさった。
「雪女が、涼馬さんを連れていったのよ……」
客間が、しんと静まり返る。
暖炉の火だけが、ぱちぱちと音を立てていた。
私はぎゅっと手をにぎった。
雪女。
さっき庭で見た、白い着物の女の人。
あの人が、本当に……?
◆◆◆◆◆◆
「すみれさん」
小田切さんが、私を見る。
「もう一度聞きます。あなたも、白い女を見たんですよね?」
「……はい。梅の木の下にいました。白い着物で、長い髪の女の人が」
「なるほど」
「なるほど、じゃありません。こわいです」
「こわいのに、ちゃんと見ていた」
「え?」
小田切さんは、ほんの少し笑った。
「あなた、案外度胸がありますね」
「そ、そんなことありません」
ほめられたのか、からかわれたのか分からない。
でも、こんな時なのに、胸が少しだけどきんとした。
……だめ。
今は事件のことを考えなくちゃ。
桐子夫人は、青い顔で指先をふるわせていた。
その指には、大きな宝石の指輪。
暖炉の火を受けて、あやしく光る。
こんなに美しい人なのに、今は何かにおびえているみたいだった。
「雪女は、本当にいるのですわ……。三年前も、そうだったもの……」
「三年前?」
私が聞き返すと、夫人ははっと口をつぐんだ。
その時。
小田切さんが、そっと私の前に立った。
まるで、夫人の不安から私をかばうみたいに。
「外を見てきましょう」
「え?」
「足あとです。消える前に確かめたい」
「私も行きます」
そう言うと、小田切さんは眉を上げた。
「危ないですよ」
「でも、私も見たいんです。糸口が、そこにある気がするから」
「糸口?」
「洋裁では、ほどけた糸を見つければ、どこから破れたか分かるんです。事件も、きっと同じです」
小田切さんは、少しだけ目を見開いた。
それから、自分の外套を脱ぐと、私の肩にふわりとかけた。
「では、名探偵さん」
「だから、探偵ではありませんっ」
「風邪をひかれては困ります」
その言い方が、少しだけやさしい。
耳が熱くなる。
……本当に、この人ずるい。
そして次の瞬間。
小田切さんは、外套ごと私をぎゅっと引き寄せた。
「きゃっ……!」
「雪で足を滑らせます。気をつけて」
近い。
近すぎる。
外套から、インクと煙草のにおいがした。
胸が、どきどきする。
こんな時なのに。
◆◆◆◆◆◆◆
テラスに出ると、冷たい風が頬を打った。
雪はまだ、しんしんと降っている。
庭は、白一色の絵本の世界だった。
足あとは、テラスから庭へと続いていた。
小さくて、細い足あと。
女の人の裸足みたいに見える。
けれど――。
「消えてる……?」
十歩ほど進んだところで、足あとはふっと消えていた。
まるで、空へ消えたみたいに。
「雪女なら、空を飛ぶのかもしれませんね」
小田切さんが言う。
「冗談やめてください」
「怖がりですね」
「怖いです!」
「でも、逃げませんよね」
その言葉に、私は少し黙った。
……たしかに。
こわい。
でも、知りたい。
私はしゃがみこんで、雪を見つめた。
雪がまつげに落ちる。
寒い。
でも、見なくちゃ。
「あれ……?」
「何か分かりましたか?」
「この足あと……変です」
「変?」
「深さが全部同じなんです」
「同じ?」
私は雪にそっと指を置いた。
「人が歩いたなら、力の入り方で少しずつ違うはずです。布に針を刺す時だって、力で穴の大きさが変わります」
小田切さんが、私の横にしゃがみこんだ。
近い。
肩が触れそうで、息が止まりそうになる。
「つまり?」
「この足あと、歩いたものじゃありません」
「え?」
「何かで押して作ったんです」
風が、ひゅうっと吹いた。
小田切さんの目が細くなる。
「……面白い」
「また、それですか」
「すみれさんの目が、です」
そう言われて、私は何も返せなくなった。
寒いのに、顔だけ熱い。
◆◆◆◆◆◆◆
その時だった。
「絶対に雪女だ!」
男の人の叫び声が聞こえた。
「雪女が若旦那さまを!」
私たちは急いで客間へ戻った。
叫んでいたのは、弥助さんだった。
「間違いない! 雪女が、若旦那さまを連れて行ったんだ……!」
「弥助、落ち着きなさい」
桐子夫人が、ふるえる声で言った。
「皆さま、この者は西園寺家に長く仕えている弥助です」
弥助さんは、涼馬さんのそばへ寄り、声を上げて泣いた。
「若旦那さま……どうして……」
その泣き声に、胸が痛くなる。
涼馬さんは、使用人にも慕われていたんだ。
でも――。
私は、弥助さんの肩を見た。
少し雪が積もっている。
外にいたの?
吹雪の夜に?
それに。
弥助さんのそばには、大きな風呂敷包みがあった。
衣類を、急いで無造作に包んだみたいにふくらんでいる。
洋裁店でこんな包み方をしたら、親方にすごく叱られる。
でも、とても急いでいる時、人はこういう包み方をしてしまう。
……もしかして。
私は風呂敷へ手を伸ばした。
その瞬間。
ぐい。
手首をつかまれる。
「触らないで」
小田切さんだった。
「証拠かもしれません」
「でも……」
「あなたの手を汚したくない」
どきん。
胸が、大きく鳴った。
弥助さんは、急いで風呂敷包みを抱え直した。
その時。
白い布が、ほんの少しだけのぞいた気がした。
◆◆◆◆◆◆◆◆
小田切さんは、部屋を見回した。
「整理しましょう。部屋はほぼ密室。外は吹雪。扉も窓も閉ざされていた」
「でも、テラスだけ開いていました」
「ええ。そして窓には文字」
私は、小さくうなずく。
「ヨウコヲカエセ、です」
その言葉を聞いた瞬間。
桐子夫人の顔色が変わった。
私は見逃さなかった。
白粉の下で、くちびるがふるえたことを。
「ヨウコ……」
小田切さんが、低くつぶやく。
「誰かの名前でしょうか」
その時。
また暖炉の上の写真立てが目に入った。
小さな女の子が、庭で笑っている。
丸いほっぺ。
大きなリボン。
そして、下に書かれた名前。
――西園寺 洋子、四歳。
「洋子ちゃん……」
私の声に、桐子夫人が肩をふるわせた。
暖炉の火が、ゆらりと揺れる。
夫人は、ゆっくりとうつむいた。
◆◆◆◆◆◆◆◆
「……三年前の冬でした」
その声は、とても細かった。
「洋子は、雪の夜に姿を消したのです」
部屋の空気が、また冷たくなる。
私は思わず、小田切さんを見た。
小田切さんも、もう笑っていなかった。
「どうして……?」
私が聞くと、夫人はくちびるをかんだ。
「雪女が洋子を連れて行ったのです。三年前の吹雪の日に」
窓の外には白い雪。
でも――。
「違います」
気づけば、私はそう言っていた。
小田切さんが、私を見る。
「すみれさん?」
私は一歩前へ出た。
こわい。
でも、言わなくちゃ。
「雪女なんて、私は信じません」
部屋にいる全員が、私を見た。
「たしかに、白い着物の女の人はいました。足あともありました。でも……」
私は、テラスの方を指さした。
「誰かが、雪女がいるように見せかけているんです」
桐子夫人が息をのむ。
弥助さんの肩が、ぴくりと動いた。
小田切さんだけが、静かに笑った。
「では、聞かせてください。すみれさん」
その声は、やさしいのに、まっすぐだった。
「あなたが見つけた糸口を」
私は深く息を吸った。
洋子ちゃんの悲しい過去。
そして、今夜の事件。
からまった糸が、少しずつほどけはじめていた。
「……でも、まだ全部はほどけていません」
私は、ゆっくり桐子夫人を見た。
「だから、続きを聞かせてください。三年前、本当は何があったのですか?」

