大正ハイカラ娘・朝霧すみれと新聞記者・小田切レン~最強バディで事件の謎を解く


暖炉の火が、ぱちりと音を立てた。

桐子夫人は、しばらくの沈黙のあと、私だけに聞こえる小さな声で言った。

「……私は、涼馬さんの本当の母ではないのです」

私は、はっと顔を上げた。

横浜の人なら、誰でも知っているその事実。

だけど、このお屋敷では決して話題にしてはいけないこと。

夫人は、どこか遠くを見るように目を細める。

「涼馬さんのお母さまは、涼馬さんを産んだ後の回復が悪く、早くに亡くなったそうです」

暖炉の明かりが、夫人の横顔をゆらゆら照らしていた。

「私がこの家に嫁いだのは、涼馬さんが二十歳の時でした」

「二十歳……?」

思わず聞き返してしまう。

夫人は、さびしそうに笑った。

「その時、私も二十歳でした」

私は言葉を失った。

同じ年の親子。

そんなこと、あるの……?

そこへ、小田切さんが静かに割り込んできた。

「お金持ちの家では、珍しくありません。家を守るための縁談です」

……なんだか、大人の世界ってむずかしい。


◆◆◆◆

小田切さんは、ワインのグラスをゆっくり回している。

涼馬さんは、蓄音機の近くでレコードを選んでいた。

そのそばには、空になったワイングラスがある。

「涼馬さんは、私を母とは呼びませんでした」

桐子夫人が、少し笑う。

「でも三年後、洋子が生まれて……ようやく、『母上』と呼んでくれました。その時、初めて家族になれた気がしたのです。うれしかったわ」

夫人の声が、ふるえる。

暖炉の上の写真立て。

そこには、幼い女の子が笑っていた。

大きなリボン。

ぷっくりしたほっぺ。

下には、きれいな文字でこう書かれている。

――西園寺 洋子、四歳。

「けれど、あの子は……四歳の冬に消えてしまいました」

部屋の空気が、ひやりと冷える。

「世間では、誘拐だと言われました。西園寺家に恨みのある人の犯行だとも」

小田切さんが静かに言った。

「資産家の娘の行方不明事件。当時、新聞でも大きく取り上げられました」

「横浜中が騒ぎましたよ。西園寺家の令嬢失踪、と」

小田切さんの表情が、少し曇る。

「結局、身代金の要求はなく、犯人も見つからなかった」

夫人が、顔を伏せた。

「毎日、あの子を探しました。港も、教会も、公園も……。けれど見つからなかった」

長い沈黙だった。

私は桐子夫人を思うと、たまらなくなってきた。

「……もしかしたら、今もどこかで生きているかもしれませんわ、奥様」

気づけば、私はそう口にしていた。

夫人が、ゆっくり顔を上げる。

「朝霧さん……あなた……」

「だって、ご遺体は見つかっていないのでしょう?」

私の言葉に、部屋が静まる。

その時。

小田切さんが、ちらりと私を見た。

そして、ほんの少しだけ笑う。

「すみれさんって、放っておけませんね」

「え?」

「やさしい人だ」

――え。

今、なんて?

胸がどきんと鳴った。

こんな時なのに。

ずるい。

本当に、この人ずるい。

でも――。

私は、もう一度写真を見る。

洋子ちゃん。

どうか、生きていて。

この広い横浜のどこかで、笑っていて。

その時だった。

電灯が、ちかちかっとまたたいた。

「停電だ!」

部屋が、真っ暗になった。

「ひゃっ」

思わず声が出る。

「うぐっ、やめろ!」

誰かの声。

何?

今の、誰?

すると、すぐ近くで小田切さんの声がした。

「動かないで」

耳元で、低い声がした。

「……けがをされたら困ります」

ぐいっと手首をつかまれる。

大きな手。

あたたかい。

こんな時なのに、胸がどきんとしてしまう。

「は、離してくださいっ」

「転びたいなら離します」

「……離さなくていいです」

うぅ。

くやしい。

だけど、その手があるだけで少し安心してしまう。

その瞬間だった。

「うっ……!」

どさり。

何かが床に倒れる音がした。

「なにがあったの? こわいわ」

桐子夫人が叫んだ。

「誰か、ランプを! 弥助? いますか? すぐにランプを!」

暗闇の中、暖炉の火だけが赤くゆれている。

私は小田切さんの手首を、ぎゅっとつかみ返していた。

やがて、部屋が明るくなった。

弥助と呼ばれる背の高い男の人が、ランプを持ってきたのだ。

タータンチェック柄のシャツは、たぶんイギリス製。

ここでは、下働きの人でさえも一流の生地を身につけている。

こんな時なのに、私は布を見てしまう。

それが洋裁師見習いのくせなのかもしれない。

弥助さんがランプを掲げて、部屋をぐるっと照らした。

そこで私が目にしたものは――。


◆◆◆◆◆

「りょ……涼馬さん……?」

若旦那さまが、胸から血を流して倒れていた。

「きゃあああっ!」

桐子夫人が悲鳴をあげる。

私は足がすくんだ。

小田切さんは、すぐに涼馬さんのそばへひざをついた。

青いスカーフを外し、首に手を当てる。

そして、静かに目を閉じた。

「残念ですが……亡くなっています」

部屋の空気が、凍った。

私は口を押さえた。

さっきまで笑っていた人が、もう動かない。

胸には、銀色のナイフ。

その持ち手には、小さなヘビとバラの模様が入っていた。

さっき、小田切さんと涼馬さんが話していた外国の剣と同じ模様。

赤い血が、ペルシャ織りのじゅうたんに広がって、ゆっくり吸い込まれていく。

私は目をそらした。

こわい。

なんということでしょう。

ふと、冷たい風を感じた。

見ると、テラスの扉が開いていた。

雪の上には、足あとがまっすぐ続いている。

五本の指のあとがはっきりとした、まぎれもなく人間の足あと。

それは、女の人のもののようだった。

小さな、細い足あと。

桐子夫人が、ふるえながら言った。

「雪女だわ……。雪女が、涼馬さんを殺したのよ……!」

雪女?

「そういえば、さっき庭で見たわ。白い着物の女の人」

まさか。

本当に?

「あなたも見たのですか? すみれさん」

小田切さんが私を見る。

「……見ました。梅の木の下に、白い着物の女の人を」

「なるほど」

小田切さんは目を細めた。

「おもしろい」

「おもしろくありませんっ。人が亡くなっているんですよ」

「もちろん。だからこそ、真実を見つける必要がある」

その声は、さっきまでと違って、とてもまじめだった。

私は胸の前で手をにぎる。

こわい。

でも、気になる。

窓の文字。

白い足あと。

胸のナイフ。

そして、夫人が言った「また」という言葉。

何かが変。

糸が、からまっている。

でもきっと、どこかにほどける場所がある。

――この時の私は、まだ知らなかった。

雪女の正体も。

そして、少し意地悪な新聞記者さんが、私の毎日を変えてしまうことも。