「――若旦那さまが、死んでる……?」
ドレスを届けに来ただけだった。
大正時代の横浜の雪の夜、わたし、朝霧すみれはとんでもない事件にまきこまれてしまった。
◆
私は朝霧すみれ、十七歳。
女学校を出たばかりの、洋裁師見習いです。
元町の洋裁店で、毎日ドレスの布と糸にかこまれて働いている。
今日のお仕事は、山手のお屋敷へ、仮ぬいのドレスを届けること。
赤ワイン色の、とてもきれいなドレス。
……なのに。
「うぅ、雪がすごいです……」
横浜に雪なんて、めずらしい。
街灯も、人力車も、白いレースを広げたみたいに雪に包まれていた。
今日の私のよそおいは、茶系の着物にチョコレート色の袴。
足元は、黒い編み上げ靴。
おしゃれはカンペキ。
ただ、トレードマークのすみれ色のリボンが、雪でしめってしまうのだけが気がかりだった。
「雪か……」
その時、ふと、ばあやの言葉を思い出した。
「雪の夜には、雪女が出るのですよ。そして、うそが溶けるのですよ。さあ、さあ、早くお休みなさい」
子どものころ、眠れない夜に聞かされた話。
……まさかね。
私は首を小さくふって、ドレスの包みを胸に抱え直した。
たどり着いたのは、山手の丘に建つ大きな洋館だった。
◆◆
赤いれんがの壁。
ちらちらゆれるガス灯。
まるで外国のおとぎ話に出てきそうなお屋敷。
雪のせいで時間がかかり、あたりはもう夕闇にのみこまれそうだった。
急がなきゃ。
けれど門をくぐった瞬間、私は足を止めた。
庭の梅の木の下に、白い着物の女の人が立っていたのだ。
長い黒髪。
雪みたいに白い着物。
肌まで、雪にとけてしまいそうに白い。
「……あ、あのっ」
声をかけたけれど、その人はふり向かない。
ただ、梅の木の下でじっと立っている。
「洋裁店の朝霧です。仮ぬいのお約束で……」
言い終わる前に。
白い女の人は、ふっと雪の中へ消えてしまった。
「え……?」
今の、何?
風?
見間違い?
胸がどきどきする。
でも、お仕事中にこわがってなんていられない。
私は息を吸って、玄関のノッカーをコンコンと鳴らした。
扉を開けてくれたのは、若旦那さまの西園寺涼馬さんだった。
青いスカーフを巻いた、きれいな顔の男の人。
まるで雑誌の挿絵から抜け出してきたみたい。
「ようこそ、朝霧さん。こんな雪の中、よく来てくれたね」
「は、はい。仮ぬいのドレスをお持ちしました」
「寒かっただろう。さあ、中へ」
応接室――いえ、客間に通されると、暖炉の火がぱちぱち音を立てていた。
あたたかい空気に包まれて、少しだけほっとする。
そこへ、上品な和服姿の桐子夫人が現れた。
桐子夫人は私のお客様で、涼馬さんのお義母さまだ。
「雪の日に、よう来てくださいましたね。帰りは危ないわ。今夜は泊まっていってちょうだい」
「えっ、でも……」
「お願い。今夜は、なんだか胸さわぎがするの。旦那様は品川の別邸に行かれて、お留守ですし」
夫人の声は、少しふるえていた。
白く美しい顔に、かすかな影が落ちている。
私はドレスを広げた。
赤ワイン色のシルクが、暖炉の光を受けて、つややかに光る。
「まあ、すてき……」
夫人がほほえんだ、その時だった。
コツン。
窓の方で、小さな音がした。
ふり向くと、雪玉のついたガラスに、指で書いたような文字があった。
《ヨウコヲ カエセ》
「……なに、これ」
夫人の顔が、さっと青くなる。
「また……出たのね……」
また?
今、またって言った?
私が聞き返そうとした、その時。
玄関の扉が、ばたんと開いた。
◆◆◆
入ってきたのは、黒い外套を着た男の人だった。
ハンチング帽にも肩にも、雪が積もっている。
長身で、すらっとしていて、少し長い前髪。
雪をはらう仕草まで、なぜか絵になる。
そして――悔しいけれど、かなり顔がいい。
「吹雪で行き場を失いまして。今夜、こちらに泊めていただけませんか」
男の人は、帽子を取って軽く頭を下げた。
「横浜日々新聞の、小田切蓮と申します」
新聞記者さん?
小田切さんは、ちらりと私を見た。
「そちらのお嬢さんも、泊まり客ですか?」
「お、お嬢さんではありません。洋裁師見習いです」
「へえ。こんな雪の夜に仕事とは、感心ですね。ハハハ」
ほめているのか、からかっているのか分からない言い方。
……なんだか、少し感じが悪い。
なのに、顔がいい。
ずるい。
外の風は、どんどん強くなっていった。
「音楽でもいかがかな?」
涼馬さんが、蓄音機のそばへ歩いていく。
「うわあ、蓄音機ですか? 初めてです」
思わず声が弾んでしまった。
涼馬さんが針を落とすと、部屋には異国の音楽が流れはじめる。
雪の日のお屋敷で、初めて聞く異国の音楽。
まるで物語の中に入りこんだみたい。
私は、うっとりしてしまった。
私と桐子夫人は、暖炉の前で紅茶をいただいた。
小田切さんは、部屋の中をゆっくり歩いて見回している。
記者さんって、いつでも何かを探している人種みたい。
その視線が、壁にかけられた外国の剣で止まった。
「これは、珍しいですね」
小田切さんが言うと、涼馬さんがうれしそうに近づいた。
「分かるのかい?」
「少しだけ。持ち手の模様が独特だ。蛇とバラ……秘密結社のしるしにも見える」
「ほう!」
涼馬さんの目が輝く。
そこに彫られた蛇とバラの模様について、ふたりはしばらく熱心に話しこんでいた。
難しい言葉が多くて、私には半分も分からない。
でも、何かの拍子にふたりが同時に笑った。
涼馬さんは、すっかりご機嫌だった。
「秘密結社の話ができる日本人に、初めて会ったよ」
「西園寺家の若旦那は、らしくない趣味をお持ちですね」
「ほめ言葉として受け取っておこう」
ふたりは、また笑った。
そして涼馬さんは、ワインの栓を開けた。
赤い液体がグラスに注がれる。
その色は、私が持ってきたドレスによく似ていた。
赤ワイン色。
美しくて、少しだけ胸さわぎのする色。

