あの旅から、数か月が過ぎた。
日々は、何事もなかったみたいに続いている。
朝のオフィス。
同じ会議。
同じ画面。
動いてはいる。
けれど――どこにも進んでいない気がしていた。
ふと、思い出す。
京都のことを。
あの、冷たい朝を。
最後まで交わされなかった言葉を。
喉の奥で止まったままの想いを。
理香の連絡先は、今も残っている。
ときどき、やり取りもする。
短く、用事だけ。
あの夜のことには、触れないまま。
まるで、最初からなかったみたいに。
ある日、ふと思った。
ここにいていいのか、と。
仕事が嫌なわけじゃない。
人間関係に不満があるわけでもない。
ただ――
どこにも馴染めていない気がしていた。
それから数週間後、僕は退職願を出した。
はっきりした理由はない。
長い説明も、しなかった。
上司の前で、短く伝えただけだ。
手続きは、あっけなかった。
書類にサインをして、引き継ぎを終えて。
最後に外へ出たとき、
会社の看板を見上げた。
不思議と、何も感じなかった。
もともと、そこに何もなかったみたいに。
それからの生活は、少しだけ変わった。
フリーで、小さな仕事を受けるようになった。
カフェで作業する日もあれば、
部屋にこもる日もある。
自由だった。
その分だけ、埋まらないものも残った。
ある夕方。
名古屋の空が、ゆっくり赤くなりはじめた頃。
部屋の扉が、控えめに叩かれた。
開けると、理香が立っていた。
シンプルなワンピース。
下ろしたままの髪。
少しだけ迷いを含んだ目。
それでも、もう逸らさない。
「……入ってもいい?」
小さな声。
僕は、頷いた。
部屋に入ると、自然と向かい合って座った。
出したお茶から、細い湯気が立つ。
やがて、静かに消えていく。
あとに残った沈黙は、少し長かった。
理香は視線を落とし、
カップの縁をなぞっている。
言葉の入口を探しているみたいだった。
「……どう話せばいいのか、わからなくて」
彼女が言う。
僕は何も言わず、待った。
少しの間。
それから、彼女が続ける。
「最近、よく考えてたの。私たちのこと」
息を止める。
「京都で……」
一度、言葉が途切れる。
「……本当は、言いたいことがあった」
顔を上げたその目には、もう迷いはない。
「でも、言えなかった」
僕は、小さく頷く。
「僕もだ」
思っていたより、あっさり出た。
理香が、かすかに笑う。
けれど、その笑みはどこか遠い。
「待ってたの」
静かな声。
「あなたが、先に言ってくれたらって……思ってた」
胸の奥が、ゆっくり締まる。
視線を落とす。
「僕も、待ってた」
自分の声なのに、少し遠く感じた。
それ以上、言葉はいらなかった。
どこで何を失ったのか。
もう、わかっている。
ただ――
少し遅すぎただけだ。
理香が、息を整える。
「今日は……それだけじゃなくて」
顔を上げる。
わずかな間。
そして――
「結婚するの」
時間が、止まった気がした。
すぐには、言葉が出ない。
冷めたお茶のカップに、指先が触れている。
「……結婚?」
ようやく、声にする。
理香は頷く。
「うん」
静かな声。
迷いはない。
「会社の人。……いい人なの」
僕は、小さく頷いた。
何かを言うには、もう遅い。
理香が、まっすぐこちらを見る。
「もう、前みたいにいなくなるのは嫌だったの」
「何も言わないまま、終わるのは」
顔を上げる。
「僕も……」
ゆっくり、言葉にする。
「ちゃんと言うべきだった」
どの言葉が足りなかったのか。
いつ、失ったのか。
言わなくても、わかる。
理香が、静かに微笑む。
大丈夫だからじゃない。
もう、待つのをやめた顔だった。
やがて、立ち上がる。
「泉……」
僕も立つ。
近い。
でも、もう届かない距離だった。
理香が一歩、近づく。
そのまま、抱きしめてくる。
僕も、応えた。
温かい。
確かに、ここにある。
それでも――
そこに、期待はなかった。
ただ、終わりを受け入れるための温もりだった。
「大丈夫」
肩越しに、彼女が囁く。
目を閉じる。
「……わかってる」
抱擁は、長すぎず、短すぎず。
言葉にならなかったものを、埋めるには十分だった。
やがて、彼女は離れる。
僕は、引き止めなかった。
「元気でね、泉」
「……ああ」
小さく笑って、背を向ける。
呼び止めることは、しなかった。
扉が静かに閉まる。
その音だけが、やけに大きく響いた。
しばらく、その場に立っていた。
それから、ゆっくり座る。
目の前のカップは、すっかり冷えている。
外から、電車の音がかすかに聞こえた。
近づいて、過ぎていく。
掴めないものみたいに。
ゆっくり、息を吐く。
思う。
終わらないものもある。
終わらせられなかったんじゃない。
ただ――
終わるきっかけを、失っただけだ。
そして。
僕は、それを手放した。
日々は、何事もなかったみたいに続いている。
朝のオフィス。
同じ会議。
同じ画面。
動いてはいる。
けれど――どこにも進んでいない気がしていた。
ふと、思い出す。
京都のことを。
あの、冷たい朝を。
最後まで交わされなかった言葉を。
喉の奥で止まったままの想いを。
理香の連絡先は、今も残っている。
ときどき、やり取りもする。
短く、用事だけ。
あの夜のことには、触れないまま。
まるで、最初からなかったみたいに。
ある日、ふと思った。
ここにいていいのか、と。
仕事が嫌なわけじゃない。
人間関係に不満があるわけでもない。
ただ――
どこにも馴染めていない気がしていた。
それから数週間後、僕は退職願を出した。
はっきりした理由はない。
長い説明も、しなかった。
上司の前で、短く伝えただけだ。
手続きは、あっけなかった。
書類にサインをして、引き継ぎを終えて。
最後に外へ出たとき、
会社の看板を見上げた。
不思議と、何も感じなかった。
もともと、そこに何もなかったみたいに。
それからの生活は、少しだけ変わった。
フリーで、小さな仕事を受けるようになった。
カフェで作業する日もあれば、
部屋にこもる日もある。
自由だった。
その分だけ、埋まらないものも残った。
ある夕方。
名古屋の空が、ゆっくり赤くなりはじめた頃。
部屋の扉が、控えめに叩かれた。
開けると、理香が立っていた。
シンプルなワンピース。
下ろしたままの髪。
少しだけ迷いを含んだ目。
それでも、もう逸らさない。
「……入ってもいい?」
小さな声。
僕は、頷いた。
部屋に入ると、自然と向かい合って座った。
出したお茶から、細い湯気が立つ。
やがて、静かに消えていく。
あとに残った沈黙は、少し長かった。
理香は視線を落とし、
カップの縁をなぞっている。
言葉の入口を探しているみたいだった。
「……どう話せばいいのか、わからなくて」
彼女が言う。
僕は何も言わず、待った。
少しの間。
それから、彼女が続ける。
「最近、よく考えてたの。私たちのこと」
息を止める。
「京都で……」
一度、言葉が途切れる。
「……本当は、言いたいことがあった」
顔を上げたその目には、もう迷いはない。
「でも、言えなかった」
僕は、小さく頷く。
「僕もだ」
思っていたより、あっさり出た。
理香が、かすかに笑う。
けれど、その笑みはどこか遠い。
「待ってたの」
静かな声。
「あなたが、先に言ってくれたらって……思ってた」
胸の奥が、ゆっくり締まる。
視線を落とす。
「僕も、待ってた」
自分の声なのに、少し遠く感じた。
それ以上、言葉はいらなかった。
どこで何を失ったのか。
もう、わかっている。
ただ――
少し遅すぎただけだ。
理香が、息を整える。
「今日は……それだけじゃなくて」
顔を上げる。
わずかな間。
そして――
「結婚するの」
時間が、止まった気がした。
すぐには、言葉が出ない。
冷めたお茶のカップに、指先が触れている。
「……結婚?」
ようやく、声にする。
理香は頷く。
「うん」
静かな声。
迷いはない。
「会社の人。……いい人なの」
僕は、小さく頷いた。
何かを言うには、もう遅い。
理香が、まっすぐこちらを見る。
「もう、前みたいにいなくなるのは嫌だったの」
「何も言わないまま、終わるのは」
顔を上げる。
「僕も……」
ゆっくり、言葉にする。
「ちゃんと言うべきだった」
どの言葉が足りなかったのか。
いつ、失ったのか。
言わなくても、わかる。
理香が、静かに微笑む。
大丈夫だからじゃない。
もう、待つのをやめた顔だった。
やがて、立ち上がる。
「泉……」
僕も立つ。
近い。
でも、もう届かない距離だった。
理香が一歩、近づく。
そのまま、抱きしめてくる。
僕も、応えた。
温かい。
確かに、ここにある。
それでも――
そこに、期待はなかった。
ただ、終わりを受け入れるための温もりだった。
「大丈夫」
肩越しに、彼女が囁く。
目を閉じる。
「……わかってる」
抱擁は、長すぎず、短すぎず。
言葉にならなかったものを、埋めるには十分だった。
やがて、彼女は離れる。
僕は、引き止めなかった。
「元気でね、泉」
「……ああ」
小さく笑って、背を向ける。
呼び止めることは、しなかった。
扉が静かに閉まる。
その音だけが、やけに大きく響いた。
しばらく、その場に立っていた。
それから、ゆっくり座る。
目の前のカップは、すっかり冷えている。
外から、電車の音がかすかに聞こえた。
近づいて、過ぎていく。
掴めないものみたいに。
ゆっくり、息を吐く。
思う。
終わらないものもある。
終わらせられなかったんじゃない。
ただ――
終わるきっかけを、失っただけだ。
そして。
僕は、それを手放した。
