その日の朝、僕は少し早めに駅に着いた。
長いベンチに腰を下ろし、行き交う乗客たちを眺める。
駅のアナウンスが低く響き、急ぎ足の足音がそれに重なっていた。
スマホの時計に目をやる。電車が出るまで、まだ時間はある。
目の前では、一人の男が大きなスーツケースを引いていた。
その傍らでは、若い母親が小さな子供をあやしている。
すべては、いつも通りの風景だった。
けれど、今日は少しだけ、何かが違っていた。
たぶん、長い間僕の人生から消えていた誰かを待っているからだろう。
改札の方をじっと見つめる。
絶え間なく人が流れてくる。
そして、その人混みの中に、彼女の姿を見つけた。
理香だ。
彼女は肩に小さなバッグをかけ、ゆったりとした足取りで歩いてきた。
僕と目が合うと、一瞬だけ足を止め、それから微笑む。
何年も経っているはずなのに、どこか見覚えのある笑顔だった。
僕はベンチから立ち上がった。
「ごめん、待った?」
「いや、そんなに」
そう答える。
本当はかなり前から来ていた。けれど、それをわざわざ口にする必要はない気がした。
理香は駅の構内をぐるりと見渡した。
「電車、まだだよね?」
「ああ、まだ時間はあるよ」
彼女は小さく頷いた。
数秒間、僕たちはただそこに立っていた。
動き続ける駅の中心で、流れる時間だけがやけに長く感じられる。
けれど同時に、昔と変わらない何かが、そこにあるようにも思えた。
「行こう」ようやく僕は言った。「今からホームに向かえば、急がなくて済むから」
理香はもう一度、頷いた。
僕たちは電車に乗り込もうとする人々の流れに身を任せ、歩き出した。
電車は定刻通りに出発した。
僕たちは窓際の席に並んで座る。
ドアが閉まり、電車はゆっくりと駅を離れていった。
線路沿いの建物が、ガラス越しに一つ、また一つと後ろへ流れていく。
しばらくの間、僕たちは黙っていた。
理香は外を眺め、僕は窓ガラスに映る自分たちのぼんやりとした影を見ていた。
「こんな時間に電車に乗るなんて、ほとんどないわ」
ようやく彼女が口を開いた。
「僕もだよ。普段なら今頃はもうオフィスにいて、最初の一杯のコーヒーを待っている時間だ」
理香は小さく笑った。
「考えてみれば、なんだか不思議ね」
「何が?」
「こうして二人で、京都へ出かけるなんて」
僕は少しだけ彼女の方を振り向いた。
「……そうだね」
彼女はまた外の景色に目を向けた。
「あなたは昔、あそこに四年間住んでいたのよね?」
「ああ」
理香は静かに頷いた。
電車のスピードが上がる。
景色は密集した家並みから、やがて開けた空地や田んぼへと変わっていった。
「私、実は京都って行ったことがないの」
理香が言った。僕は少し驚いた。
「本当にか?」
「ええ」
「どうして? 近いのに」
彼女は小さく肩をすくめる。
「きっかけが、なかっただけだと思う」
数秒の沈黙の後、彼女は微かに微笑んだ。
「だから、今回京都に行けることになって、少し嬉しいの」
僕はすぐには答えなかった。
ただ外を眺め、遠くへ続く線路の曲線を目で追う。
この電車に彼女と座っているだけで、見慣れたはずの旅路が少し違って見えた。
京都駅に近づくと、電車は速度を落とした。
車内アナウンスが流れる。
やがて電車が止まり、乗客たちが一斉に立ち上がった。
「やっと着いたわね」理香が静かに言った。
僕たちは人の流れに乗って改札を出た。
外の空気は、名古屋とは少しだけ違う気がした。
この街には、どこか落ち着いた空気が流れている。
理香は好奇心に満ちた目で辺りを見回した。
「本当に初めての京都だわ」
「どんな気分?」
「まだ分からない」彼女は小さく微笑んだ。「これからよ」
駅から少し歩いたところで、理香が振り返る。
「お腹、空いてない?」
「それなりに」
「じゃあ、まずは何か食べましょう」
大通りから少し入ったところに、暖簾のかかった小さな料理屋を見つけた。
店に入ると、出汁の温かい香りがふわりと漂ってくる。
僕たちは壁際のテーブル席に座った。
店員がメニューを差し出す。理香はそれをパラパラとめくった。
「正直、何を頼めばいいか分からないわ」
「こういう店なら、大抵何を食べても美味しいよ」
「じゃあ、あなたの勧めに任せるわ」
僕は簡単な昼食のセットを二人分注文した。
数分後、料理が運ばれてくる。
理香は数秒、その料理を眺めていた。
「思っていたより、本格的ね」
「本格的?」
「ええ。もっとサッと食べてすぐ出るようなものかと思ってたから」
「急いでいるわけじゃないだろ?」
彼女は首を振った。
それからしばらく、僕たちは言葉少なに食事をした。
数口食べた後、理香が不意に尋ねる。
「大学時代、こういうところでよく食べてたの?」
「たまにね」
「たまに、ってことは、実際は結構通ってたんでしょ?」
僕は少しだけ笑った。「たぶんね」
理香は僕をじっと見つめた。
「なんだか、面白いわ」
「何が?」
「あなたはここに四年間も住んでいたのに、私は今、初めてここに来ていることが」
僕はその言葉を少し考えた。
「……確かに」
彼女は箸を一度置いた。
「あなたがここにいた頃、一度も京都に誘ってくれなかったものね」
軽い口調だった。
けれど、その言葉に僕は動きを止めた。
「……あの頃は、そんなこと考えもしなかったんだ」
ようやくそう答える。
理香は静かに頷いた。
「そうね。私もだわ」
彼女は再び箸を取り、食事を続けた。
まるで今の言葉が、ただの世間話だったかのように。
けれどその言葉を聞いた後、僕にとってこの街は、少しだけ色を変えた。
食事を終え、店を出る。
しばらくの間、目的もなく歩いた。
通りはそれほど混んでいない。小さな店が道沿いに並んでいる。
「京都って、思っていたより静かなのね」
「ここはまだ静かな方だよ。もっと賑やかな場所もたくさんある」
僕たちはさらに細い路地へと曲がった。
両側には木造の家が並んでいる。
先ほどの通りよりも、さらに静寂が深まった。
僕たちの歩調は、無意識のうちに緩やかになっていく。
僕は、かつてこんな場所を歩いたことがあるような気がした。
「どうしたの?」
「いや、何でもない。ただ、懐かしいなと思って」
理香は前を見据えた。
「学生時代、よくこうして散歩してたの?」
「いや。講義が終わったら、すぐに帰ることが多かった」
「本当?」
僕は肩をすくめる。
「たぶん、ここでの時間をあまり有効に使えていなかったんだろうな」
理香は薄く微笑んだ。
「もったいないわね」
僕たちはまた歩き出した。
しばらくして、理香が小さな店の前で足を止めた。
ガラスのショーケースには、和菓子が整然と並べられている。
「可愛い……」彼女が小さく呟いた。
「食べるか?」
理香は首を振る。
「いいえ、大丈夫」
そう言って微笑む。
けれど、その笑顔はどこか先ほどとは違って見えた。
通りが少しずつ賑やかになってきた。
小さな橋を渡る。
下には川が穏やかに流れ、傾き始めた午後の光を反射していた。
理香は橋の真ん中で足を止める。
「綺麗……」
僕も彼女の隣で立ち止まった。
「ああ」
しばらくの間、僕たちはただそこに立っていた。
「変よね」
理香がふいに言った。
「何が?」
「こんなに久しぶりに会ったのに、こうして歩いているなんて」
僕はすぐには答えなかった。
「……そうだね」
「本当なら、もっと気まずいはずでしょ?」
僕は少しだけ笑う。
「少しは、ね」
理香は小さく笑い声を上げた。
「でも、それほどでもないわ」
僕は頷いた。
「それほどでもない」
理香は再び川の方へ目を向ける。
「昔だって、こんな風に二人で歩くことなんて、あまりなかったのに」
軽い響きだった。
けれど、その言葉は僕の中に静かに沈んでいった。
「……ああ」
僕は短く答えた。
空の色がゆっくりと変わり始めていた。
明るかった青が、次第に深みを帯びていく。
僕たちは、より広い川べりへと辿り着いた。
川沿いには、何人かの人々が等間隔に座っている。
僕たちも、その近くで足を止めた。
理香は穏やかに流れる水面を見つめていた。
「こういう場所、いいわね」
「そうだね」
夕方の風が少し冷たくなってきた。
僕はジャケットのポケットに手を入れる。
「こんなに歩いて、疲れてないか?」
そう尋ねると、理香は首を振った。
「いいえ。むしろ楽しいわ」
短い沈黙が落ちる。
「今は、まだ昔の家に住んでいるのか?」
僕が聞くと、理香は頷いた。
「ええ」
それだけだった。
彼女は川を見つめたままだったが、ふとこちらに少しだけ顔を向け、小さく微笑んだ。
けれど、その微笑みはすぐに消えた。
空がゆっくりと暗くなっていく。
道沿いの街灯が、一つ、また一つと灯り始めた。
何かが違う、と感じた。
場所のせいではない。
僕たちの、何かが。
僕たちは再び、川べりに沿って歩き出した。
「京都がこんな風に感じられるなんて、思わなかった」
理香が言った。
「どんな風に?」
「思っていたよりも、ずっと静かで……穏やか」
僕は頷いた。
「僕も、初めてここに来た時はそう思ったよ」
僕たちはさらに、人通りの少ない道へと曲がった。
店の軒先に吊るされた提灯が、柔らかな光を落としている。
「私、ふと思ったんだけど」
理香が唐突に言った。
僕は彼女の方を見る。
「何を?」
彼女はすぐには答えなかった。
歩調は緩やかなままだった。
「もし、あの時が違っていたら」
ようやく、彼女が口を開く。
「……私たちも、昔こうして一緒に、こんな場所に来ていたのかしら」
その言葉は、僕たちの間に静かに落ちた。
僕はすぐには答えられなかった。
「あの頃は、今とは多くのことが違っていたから」
ようやく、そう言う。
理香は薄く微笑んだ。
「そうね」
それ以上、その話は続かなかった。
数歩歩いた後、彼女はまた口を開く。
「ここの場所、まだ覚えてる?」
「いくつか、ね。でも全部じゃない」
「もっと詳しく覚えているかと思ったわ」
「昔ならね。今は、もうそうでもないんだ」
理香は少しの間、黙り込んだ。
「変ね」
静かな声だった。
「何が?」
「昔あんなに通っていた場所でも、時間が経てば普通になってしまうなんて」
理香が足を止める。
僕もそれに合わせた。
彼女は僕ではなく、目の前の道を見つめている。
「おかしいわよね。変わらないものはあるはずなのに、今は全然違って感じるなんて」
僕はすぐには答えなかった。
その言葉は、別の意味を含んでいるようにも聞こえた。
「……その人次第、なのかもしれないけどね」
ようやく、そう言う。
理香は小さく微笑んだ。
「そうね」
夜の風が、さらに冷たさを増していく。
僕たちの歩調は、いつの間にか揃わなくなっていた。
少し先に、ホテルの小さな看板が道端で光っているのが見えた。
僕が先にそれに気づいた。
無意識のうちに、足が少しだけ重くなる。
理香も、同じ方向を見ていた。
彼女は、何も言わなかった。
長いベンチに腰を下ろし、行き交う乗客たちを眺める。
駅のアナウンスが低く響き、急ぎ足の足音がそれに重なっていた。
スマホの時計に目をやる。電車が出るまで、まだ時間はある。
目の前では、一人の男が大きなスーツケースを引いていた。
その傍らでは、若い母親が小さな子供をあやしている。
すべては、いつも通りの風景だった。
けれど、今日は少しだけ、何かが違っていた。
たぶん、長い間僕の人生から消えていた誰かを待っているからだろう。
改札の方をじっと見つめる。
絶え間なく人が流れてくる。
そして、その人混みの中に、彼女の姿を見つけた。
理香だ。
彼女は肩に小さなバッグをかけ、ゆったりとした足取りで歩いてきた。
僕と目が合うと、一瞬だけ足を止め、それから微笑む。
何年も経っているはずなのに、どこか見覚えのある笑顔だった。
僕はベンチから立ち上がった。
「ごめん、待った?」
「いや、そんなに」
そう答える。
本当はかなり前から来ていた。けれど、それをわざわざ口にする必要はない気がした。
理香は駅の構内をぐるりと見渡した。
「電車、まだだよね?」
「ああ、まだ時間はあるよ」
彼女は小さく頷いた。
数秒間、僕たちはただそこに立っていた。
動き続ける駅の中心で、流れる時間だけがやけに長く感じられる。
けれど同時に、昔と変わらない何かが、そこにあるようにも思えた。
「行こう」ようやく僕は言った。「今からホームに向かえば、急がなくて済むから」
理香はもう一度、頷いた。
僕たちは電車に乗り込もうとする人々の流れに身を任せ、歩き出した。
電車は定刻通りに出発した。
僕たちは窓際の席に並んで座る。
ドアが閉まり、電車はゆっくりと駅を離れていった。
線路沿いの建物が、ガラス越しに一つ、また一つと後ろへ流れていく。
しばらくの間、僕たちは黙っていた。
理香は外を眺め、僕は窓ガラスに映る自分たちのぼんやりとした影を見ていた。
「こんな時間に電車に乗るなんて、ほとんどないわ」
ようやく彼女が口を開いた。
「僕もだよ。普段なら今頃はもうオフィスにいて、最初の一杯のコーヒーを待っている時間だ」
理香は小さく笑った。
「考えてみれば、なんだか不思議ね」
「何が?」
「こうして二人で、京都へ出かけるなんて」
僕は少しだけ彼女の方を振り向いた。
「……そうだね」
彼女はまた外の景色に目を向けた。
「あなたは昔、あそこに四年間住んでいたのよね?」
「ああ」
理香は静かに頷いた。
電車のスピードが上がる。
景色は密集した家並みから、やがて開けた空地や田んぼへと変わっていった。
「私、実は京都って行ったことがないの」
理香が言った。僕は少し驚いた。
「本当にか?」
「ええ」
「どうして? 近いのに」
彼女は小さく肩をすくめる。
「きっかけが、なかっただけだと思う」
数秒の沈黙の後、彼女は微かに微笑んだ。
「だから、今回京都に行けることになって、少し嬉しいの」
僕はすぐには答えなかった。
ただ外を眺め、遠くへ続く線路の曲線を目で追う。
この電車に彼女と座っているだけで、見慣れたはずの旅路が少し違って見えた。
京都駅に近づくと、電車は速度を落とした。
車内アナウンスが流れる。
やがて電車が止まり、乗客たちが一斉に立ち上がった。
「やっと着いたわね」理香が静かに言った。
僕たちは人の流れに乗って改札を出た。
外の空気は、名古屋とは少しだけ違う気がした。
この街には、どこか落ち着いた空気が流れている。
理香は好奇心に満ちた目で辺りを見回した。
「本当に初めての京都だわ」
「どんな気分?」
「まだ分からない」彼女は小さく微笑んだ。「これからよ」
駅から少し歩いたところで、理香が振り返る。
「お腹、空いてない?」
「それなりに」
「じゃあ、まずは何か食べましょう」
大通りから少し入ったところに、暖簾のかかった小さな料理屋を見つけた。
店に入ると、出汁の温かい香りがふわりと漂ってくる。
僕たちは壁際のテーブル席に座った。
店員がメニューを差し出す。理香はそれをパラパラとめくった。
「正直、何を頼めばいいか分からないわ」
「こういう店なら、大抵何を食べても美味しいよ」
「じゃあ、あなたの勧めに任せるわ」
僕は簡単な昼食のセットを二人分注文した。
数分後、料理が運ばれてくる。
理香は数秒、その料理を眺めていた。
「思っていたより、本格的ね」
「本格的?」
「ええ。もっとサッと食べてすぐ出るようなものかと思ってたから」
「急いでいるわけじゃないだろ?」
彼女は首を振った。
それからしばらく、僕たちは言葉少なに食事をした。
数口食べた後、理香が不意に尋ねる。
「大学時代、こういうところでよく食べてたの?」
「たまにね」
「たまに、ってことは、実際は結構通ってたんでしょ?」
僕は少しだけ笑った。「たぶんね」
理香は僕をじっと見つめた。
「なんだか、面白いわ」
「何が?」
「あなたはここに四年間も住んでいたのに、私は今、初めてここに来ていることが」
僕はその言葉を少し考えた。
「……確かに」
彼女は箸を一度置いた。
「あなたがここにいた頃、一度も京都に誘ってくれなかったものね」
軽い口調だった。
けれど、その言葉に僕は動きを止めた。
「……あの頃は、そんなこと考えもしなかったんだ」
ようやくそう答える。
理香は静かに頷いた。
「そうね。私もだわ」
彼女は再び箸を取り、食事を続けた。
まるで今の言葉が、ただの世間話だったかのように。
けれどその言葉を聞いた後、僕にとってこの街は、少しだけ色を変えた。
食事を終え、店を出る。
しばらくの間、目的もなく歩いた。
通りはそれほど混んでいない。小さな店が道沿いに並んでいる。
「京都って、思っていたより静かなのね」
「ここはまだ静かな方だよ。もっと賑やかな場所もたくさんある」
僕たちはさらに細い路地へと曲がった。
両側には木造の家が並んでいる。
先ほどの通りよりも、さらに静寂が深まった。
僕たちの歩調は、無意識のうちに緩やかになっていく。
僕は、かつてこんな場所を歩いたことがあるような気がした。
「どうしたの?」
「いや、何でもない。ただ、懐かしいなと思って」
理香は前を見据えた。
「学生時代、よくこうして散歩してたの?」
「いや。講義が終わったら、すぐに帰ることが多かった」
「本当?」
僕は肩をすくめる。
「たぶん、ここでの時間をあまり有効に使えていなかったんだろうな」
理香は薄く微笑んだ。
「もったいないわね」
僕たちはまた歩き出した。
しばらくして、理香が小さな店の前で足を止めた。
ガラスのショーケースには、和菓子が整然と並べられている。
「可愛い……」彼女が小さく呟いた。
「食べるか?」
理香は首を振る。
「いいえ、大丈夫」
そう言って微笑む。
けれど、その笑顔はどこか先ほどとは違って見えた。
通りが少しずつ賑やかになってきた。
小さな橋を渡る。
下には川が穏やかに流れ、傾き始めた午後の光を反射していた。
理香は橋の真ん中で足を止める。
「綺麗……」
僕も彼女の隣で立ち止まった。
「ああ」
しばらくの間、僕たちはただそこに立っていた。
「変よね」
理香がふいに言った。
「何が?」
「こんなに久しぶりに会ったのに、こうして歩いているなんて」
僕はすぐには答えなかった。
「……そうだね」
「本当なら、もっと気まずいはずでしょ?」
僕は少しだけ笑う。
「少しは、ね」
理香は小さく笑い声を上げた。
「でも、それほどでもないわ」
僕は頷いた。
「それほどでもない」
理香は再び川の方へ目を向ける。
「昔だって、こんな風に二人で歩くことなんて、あまりなかったのに」
軽い響きだった。
けれど、その言葉は僕の中に静かに沈んでいった。
「……ああ」
僕は短く答えた。
空の色がゆっくりと変わり始めていた。
明るかった青が、次第に深みを帯びていく。
僕たちは、より広い川べりへと辿り着いた。
川沿いには、何人かの人々が等間隔に座っている。
僕たちも、その近くで足を止めた。
理香は穏やかに流れる水面を見つめていた。
「こういう場所、いいわね」
「そうだね」
夕方の風が少し冷たくなってきた。
僕はジャケットのポケットに手を入れる。
「こんなに歩いて、疲れてないか?」
そう尋ねると、理香は首を振った。
「いいえ。むしろ楽しいわ」
短い沈黙が落ちる。
「今は、まだ昔の家に住んでいるのか?」
僕が聞くと、理香は頷いた。
「ええ」
それだけだった。
彼女は川を見つめたままだったが、ふとこちらに少しだけ顔を向け、小さく微笑んだ。
けれど、その微笑みはすぐに消えた。
空がゆっくりと暗くなっていく。
道沿いの街灯が、一つ、また一つと灯り始めた。
何かが違う、と感じた。
場所のせいではない。
僕たちの、何かが。
僕たちは再び、川べりに沿って歩き出した。
「京都がこんな風に感じられるなんて、思わなかった」
理香が言った。
「どんな風に?」
「思っていたよりも、ずっと静かで……穏やか」
僕は頷いた。
「僕も、初めてここに来た時はそう思ったよ」
僕たちはさらに、人通りの少ない道へと曲がった。
店の軒先に吊るされた提灯が、柔らかな光を落としている。
「私、ふと思ったんだけど」
理香が唐突に言った。
僕は彼女の方を見る。
「何を?」
彼女はすぐには答えなかった。
歩調は緩やかなままだった。
「もし、あの時が違っていたら」
ようやく、彼女が口を開く。
「……私たちも、昔こうして一緒に、こんな場所に来ていたのかしら」
その言葉は、僕たちの間に静かに落ちた。
僕はすぐには答えられなかった。
「あの頃は、今とは多くのことが違っていたから」
ようやく、そう言う。
理香は薄く微笑んだ。
「そうね」
それ以上、その話は続かなかった。
数歩歩いた後、彼女はまた口を開く。
「ここの場所、まだ覚えてる?」
「いくつか、ね。でも全部じゃない」
「もっと詳しく覚えているかと思ったわ」
「昔ならね。今は、もうそうでもないんだ」
理香は少しの間、黙り込んだ。
「変ね」
静かな声だった。
「何が?」
「昔あんなに通っていた場所でも、時間が経てば普通になってしまうなんて」
理香が足を止める。
僕もそれに合わせた。
彼女は僕ではなく、目の前の道を見つめている。
「おかしいわよね。変わらないものはあるはずなのに、今は全然違って感じるなんて」
僕はすぐには答えなかった。
その言葉は、別の意味を含んでいるようにも聞こえた。
「……その人次第、なのかもしれないけどね」
ようやく、そう言う。
理香は小さく微笑んだ。
「そうね」
夜の風が、さらに冷たさを増していく。
僕たちの歩調は、いつの間にか揃わなくなっていた。
少し先に、ホテルの小さな看板が道端で光っているのが見えた。
僕が先にそれに気づいた。
無意識のうちに、足が少しだけ重くなる。
理香も、同じ方向を見ていた。
彼女は、何も言わなかった。
