キャラメリゼ ワンルーム

 
 
 
 
 
 
意識しているのは、私だけみたいだ。




「桃香ちゃん、彼氏に連絡した?」
「しましたよぉ〜、多分もうすぐ来ますぅ〜〜」

ぼうっとしていた楓が、健太郎の言葉でハッとする。
手に持ったグラスから垂れた雫が、デニムに丸い跡を残した。

「桃香ちゃんの彼氏が来るまでは僕も一緒に待ってるから、みんなは先に帰ってもいいよ」

お会計を済ませた健太郎の言葉に、集まっていた数人のパート従業員や社員が朗らかに挨拶をしながら立ち上がった。

今日は職場の飲み会で、店の近くに新しくできた、おしゃれなカフェバルに来ていた。
職場の仲がいいので定期的に開かれるご飯会は、今日は六人ほどが集まっていた。

桃香が調子に乗って酒を飲みすぎて、三十分ほど前に健太郎に促されて、同棲している彼氏に迎えを頼んでいた。ぐったりと椅子の背もたれにもたれかかる桃香は、幼馴染で一緒に上京してきたという彼氏と一緒に住んでいて、付き合ってそれなりに長いらしい。

「楓ちゃんも帰っていいよ?」
「あ、私は家も近いのですぐに帰れますし、一緒に待ってます」
「そう?僕一人だとちょっとあれだから、そう言ってくれるとありがたいよ」

変にハラスメントとか疑われても良くないしねえと苦笑いした健太郎が、店員に話しかけられ、対応している。
楓が手持ち無沙汰に倒れていた桃香の荷物を直していると、その様子をぼんやりと見ていた桃香が言った。

「楓ちゃんは〜、兄って言葉に甘えすぎなんだよ〜」
「えっ、なんですか」

頬を赤らめる桃香は、首を傾けて、じっと楓を見ていた。
お酒はあまり強くないらしいが、飲むのは好きだということで桃香がこうなるのは珍しくないらしい。残っていた数人が、「また明日ねー」と声をかけて去っていった。

周りの席の客も引き揚げ始めた店内は、先ほどまでの喧騒が嘘のように静かで、店員が皿を片付ける金属音だけが低く響いていた。

テーブルにはいくつものグラスと、食べ終えた皿が残されている。
女性が多いだけあって、ゴミはまとめられ、皿も重ねて端に寄せてある。

「魔法の合言葉みたいにしてさぁ〜、兄って言えばなんでも許されると思ってるでしょ〜」
「え…」
「普通はさぁ、義理だからって、兄だからって、一緒に住もうなんか思わないよ〜」

桃香は機嫌が良さそうに、にこりと笑いながら、目の前の残っていたオレンジジュースを飲み干した。
ごくごくと喉が動く様子を、楓は黙って見ていた。
席に戻ってきた健太郎が、「場所間違えるといけないから、外で僕は待ってるね」と言って席を外した。


「妹でいれば、お兄ちゃんはずっと『お兄ちゃん』でいてくれるって、自分から去っていかないって、どっかで分かってたんじゃないの〜?」


自分から浅い息が漏れていった。
桃香はオレンジジュースのグラスを机の真ん中に置くと、「んん?」と机に置かれていた自分のスマホを見て、「彼氏がついたって」と機嫌良く言って、立ち上がった。

「あ、荷物、持ちます…」
「ありがと〜、可愛いねえ、楓ちゃんは」

桃香はふわりと浮くような足取りで椅子を机に仕舞い、よたよたと店を出ていった。
楓はカゴに入れてあった自分と桃香の荷物を持つと、その後を急いで追いかけた。

「お、ちょうどだねー」
「桃ちゃん!」
「竜くん〜」

店員の「ありがとうございましたー」という声を背に、店の外に出ると、そこには慎重の高い、ヒョロリと細い男性が立っていた。
健太郎は顔見知りらしく、「わざわざありがとうね」と声をかけた。

「いえいえ、すいませんご迷惑をまたおかけして」
「竜くん、これ楓ちゃん、可愛いでしょ〜」
「こんばんは、いつもお話聞いてるよ。ごめんね迷惑かけて」
「いえいえ!私もいつもお話伺ってます!」

くるくると長い前髪で隠れた目が、柔らかく細められた。
「ごめんね桃ちゃんの荷物持たせて」と謝られ、楓は手に持っていたトートバッグを手渡した。

「はい、お水買ってきたから飲んで。寒いから僕の上着も着て。桃ちゃんが食べたいって言ってたアイス、家に買ってあるからね」
「わぁい、ありがと〜」

「相変わらずラブラブでいいねえ、じゃあ気をつけて帰ってね」
「すみません、ご迷惑をおかけしました」
「いえいえ、またね」
「おやすみなさい」


そうして桃香たちと別れ、健太郎と駅まで一緒に歩いて、帰宅した。




「おかえり、遅かったね」
「あ…桃香さんが酔っちゃって、付き添ってた」
「一人で?大丈夫だったの?」

リビングに入ると怜がいて、事情を説明すると「ならよかった」と安心したように笑った。
そのまま楓が怜のいるソファに座ると、お茶を飲んでいたグラスをテーブルに置いて、怜がこちらを見た。

「楓もだいぶ酒飲んだ?水持ってこようか?」
「あ、ううん、私は、全然…」
「そう?外寒くなかった?冷えてない?」
「大丈、夫…」

怜がふっと笑って、「そう」と言った。

桃香さんの彼氏と、同じことを聞くんだな。


「…怜ちゃんは…」
「ん?」


怜がテレビのリモコンを手に取って、番組を変えた。
カラフルなバラエティの光が一瞬で消え、液晶から放たれる影だけが、並んで座る二人の顔を薄暗く浮かび上がらせた。
床に伸びていた怜の長い影が、ドラマの夜のシーンと連動して深く沈み込んでいく。


「…なんでそんなに、いつも通り、ずっと、私に優しいの」
「……」
「妹だから…じゃ、ないってこと…?」
「…」


頭を撫でたり、隣に座ったり、寝落ちをした私にブランケットをかけてくれたり、食べられないものを食べてくれたり、全部、今まで優しくしてくれたのも、


「いつ、から…?」


まるで、自分の人生の記憶そのものの、意味が変わっていくような。

受験の日に駅まで一緒に行ってくれた時も、体調が悪かった時に一番に気づいてくれた時も、夜にコンビニまで散歩した時も、そうだったの?

記憶が、思い出が、考えれば考えるほど侵食されていく。


「兄」だと思ってたものの中に、最初から「男のひと」の怜ちゃんが、いたかもしれないってこと?

じゃあ、今までの、優しさと思い出は、なんだったの?
あの時の視線も、触れ方も、優先順位も、距離も?


今まで安心して触れていたものが、急に熱を持ち始めたような、感覚。



「…さぁ、いつからだろうな」


怜がリモコンを持った手をゆっくりと下ろして、言った。
静かな、掠れるような声が、ドラマのセリフと混ざって聞こえてきた。
楓が息を呑む微かな音が、劇中のBGMの隙間に吸い込まれるようにして消えていく。


「今までの、ぜんぶ…?」


ぽつりと漏らした楓に、怜は言った。
怜の身体がソファのクッションを軋ませて楓の方へと傾く。


「…もし、そうだって言ったら、楓はどうする?」








目の前の楓は、呆然としたような顔をしていた。
怖いだろう、兄として慕っていたのに、それが下心から、男としての顔を向けられていたのかもしれないと知ったら、嫌に決まっている。


ごめんな、妹にこんな目を向けて。


おかしいのは俺だけだから、楓は何も気づかないまま、見ないまま、ありのままで過ごしてほしい。


全部演技だった、なら簡単だった。


楓の問いに、うまく答えれない。
兄としての感情ももちろんあった、でもきっと、恋愛感情もずっと混ざっていた。兄としての愛も、男としての欲望も、混在した状態で、楓にずっと接していた。

楓の細い首筋が何気なく目に入り、ブラウスの襟元から覗く鎖骨の白いラインへと視線が滑っていく。

俺が、「兄妹」という綺麗で安全な関係を壊して、泥を塗った。
だから、楓が変だと戸惑うのは当然だ。俺も昔、同じことを思った。
罪悪感を抱いていた時期は、とうに過ぎた。

でも楓には同じ道を辿ってほしくなくて、ネガティブな感情だけでも引き受けたかった。全て俺が、招いたことだから、楓は、何も気にしなくていいんだ。

俺が、勝手に好きになっただけだから。


「…なにも、変わらないよ……」
「そっか」


その言葉に、心底安心する。
楓は眉を下げて、視線をあちこちに移動させている。
好きだと言う前から、楓の気持ちがどうなっても全て受け入れると決めていた。
何か言おうとする楓を遮りたくなくて、ずっとその戸惑った顔を見ていた。


「怜ちゃんも…意識、してるの?…私の、こと」


思いがけない言葉が楓の口から漏れて、その意味をしばらくうまく理解できなくて、すぐに返事ができなかった。
ドラマの場面が切り替わり、液晶からの白い光が楓の潤んだ瞳に微かに映った。
いつもより少しだけ火照ったような頬が、下ろされた髪の毛の間から見えて、その柔らかそうな頬を撫でたい衝動に駆られる。


怜ちゃん《《も》》、ってことは、楓も意識してるって、
少しは俺のことを男として見てるって、期待していいのかな。

そんな言葉尻を捕まえては、俺はまた余裕なふりをして、この渇望を悟られないように振る舞う。その一言だけで、何年も押し殺してた期待が、簡単に浮き上がるなんて、知られたくない。

楓が自分を選ぶ未来があるなら、どうにかしてそこに、辿り着きたい。

昨日の体温が、不意に脳裏に過ぎる。

肩に乗った頭の重みと、柔らかい髪の毛の感触は、まだ残っている。
柔軟剤の匂いはいつもの香りなのに、なぜか離れなくて、自分の手の中で指先が擦れていった感触は、今日何度も思い出した。


「…いつもしてるよ」


ああ、かわいい、
もう、早く、閉じ込めてしまいたい。