キャラメリゼ ワンルーム

 
 
 
 
 
 

「怜ちゃんは…ずるい」

そう言われた時は、その通りだと思った。

俺の根本にあるのは「楓を失いたくない」という感情だけで。

許されるまでそばにいたいと思ったり、いけるかもしれないと期待したり、じわじわと楓がこちらを意識するように仕向けたり、それは、俺の中では全部、同じ感情から来ている。

攻めるのは、楓が自分で気づいて選んでくれたら失わずに済むから。
期待するのは、失わずに済む可能性があるから。
でも、許されないとも思っているのは、失うことが前提だから。

「…ふ、そうかもね」

最初は兄として失いたくないという気持ちだけだったのに、今はほとんどが、好きな人として失いたくないという気持ちが占めている。

「…いいの?」

楓を見つめる自分の視線は、きっと、縋るようだった。
言っても、良いのだろうか。


「それ聞いたら、本当に戻れないよ?…覚悟、持ってね?」
「…っ、いじわる……」


そんな言い方しかできない自分は、やっぱりどこまでも異常で、ずるい。
脅しなんかじゃない、十年積み上げた関係が変わるのが怖いのは、俺だ。


隠したい。でも気づいてほしい。
兄としていたい。でも男として見てほしい。
楓に優しくしたい。でも独占したい。
触れたい。でも壊したくない。

「意地悪っていうか…俺からしたら、楓のためでもあったんだけどね」
「…私の、ため…?」



嘘だよ、全部自分のためだ。



「そう。でも、楓が良いっていうなら、遠慮なく」

楓がまっすぐ、こちらを見ていた。
ふわりと風に靡く髪の毛に、丸くくりっとした瞳。
笑うと楽しそうに大きく開く口が、今は薄く開かれている。




ああ、かわいい。



「…好きだよ」



手繰り寄せるように、縋るように、楓の身体を抱きしめていた。
遠くでは、花火の大きな打ち上げ音が聞こえてくる。
耳元では楓の吐息が聞こえる。


「妹じゃなくて…女の子として…楓が、好きだよ」


せっかく花火を見せようと思っていたのに、それを邪魔してごめん。
俺はこの後に及んで、抱きしめたことを拒否されない安堵と、自分の中に収まってしまう柔らかい身体に欲情している。



「……れいちゃん…」


俺は、自分のことを幸運だと思っている。
本来なら手に入らないもので、越えてはいけないもの。
でも楓が受け入れてくれたから、今だけ。

俺の中では、同居も「兄」という立ち位置も、全部仮初めだ。
兄に戻る覚悟なんか、いつでもしている。

いつか、三浦が、家に来た時にひっそりと言われた言葉を、思い出す。
——『いつかいなくなると思ってて、それでも好きって、お前エグいな』

だって、気持ちの消し方なんて、知らない。

楓が外に気持ち向けるならそれまでだと、思っていた。
だから、あの忘れ物を届けてくれた彼とデートに行くなら、付き合うなら、俺は兄に戻るまでだった。

そうして、いつか他の誰かと、幸せになってほしい。
それがずっと俺の真ん中にあった、思い。


その、はず、だった。


「…ごめん、花火、終わっちゃったかも」

そう言って身体をゆっくりと離した。
身体が離れると、間には十月の海風が吹き抜けた。
楓の体温で温まっていた自分の胸元が、一気に白く冷やされていく。

楓の温もりと香りが遠ざかって、ざわざわとした声が遠くから聞こえてくる。
ベンチの背後からは虫の声が涼やかに聞こえてきて、急に周囲の音声がクリアになる。

「ううん…」

楓がぼんやりと答えた。
目線は足元に向けられていた。
拒否はされていなくて、意識をしてくれているのは分かる。
けれど同じように背中に手が回ることはなくて、その顔には笑顔はない。

「…今すぐ答えが欲しいとかじゃないから、…焦らなくても大丈夫」
「え…」
「……こないだ、楓が、怜ちゃんとは変わんないよって言ってくれたじゃん」
「うん…」

いつの間にか隣のベンチは空になっていた。
そろそろ帰らなければ、楓は明日も仕事があるし、ここから家まで電車で一時間以上かかる。そう思ってゆっくりと前を向いた。

「…あれ、嬉しかった。まだそばにいても良いんだって」
「……当たり前じゃん…」

その「変わらない」の意味が、「関係が」なのか「自分の気持ちが」なのか。
でも、それがどんな意味でもいいと思った。

楓の望む形に落ち着けば、それで。

「…帰ろっか」

そう言って立ち上がると、服の裾をクイっと引っ張られた。
不安そうな表情をした楓が俺を見上げていて、はっとしたように掴んでいた服を離した。


「…手、繋いで帰る?」


いつものように、なに言ってんの、と怒ったように笑ってくれれば良かった。
ゆっくりと立ち上がった楓の視線が少しだけ泳いだあと、もう一度俺の服の裾を掴んで軽く頷いた。

「うん…」

まさかそう言われると思っていなくて、一瞬だけ動きが止まった。
服の裾を掴んだ楓が、俺を見上げる。

楓の細い指先が、俺のTシャツの裾の生地をぎゅっと握り締めている。
布地が下へ引っ張られ、斜めのシワがいくつも走っていた。


知らないだろ、そうやって何気なく、なんの意識もなく上目遣いをされた男が、どう思うかなんて。


そっと、裾を掴んでいた手を包み込むようにして自分の手のひらの中に収めた。
指先を絡める勇気は、まだなかった。


「…楓は、嫌じゃない?俺が、さっき言ったこと」


何度も好きという単語は出せなかった。
今までも、できるだけその言葉は自分の心の中ですら、避けていた。
でも言葉にしないからといって、感情が消えるわけじゃない。

むしろ、名付けられない感情は行き場を失って、澱のように体の奥深くに溜まっていって、その結果が、これだ。


「いやじゃない…」


その温かい手をとって歩き出したところで、半歩後ろから掠れたような小さな声が聞こえてきた。
思わず握った手のひらに力が入って、皮膚同士が熱く擦れた。

「…いいの?今まで通り、俺、意地悪も言うかもよ?」
「……うん」
「…次は勝手に、手繋ぐかもよ?」
「……うん」

行きも同じ道を通ったはずなのに、駅に向かう道がとても長く感じた。
半歩後ろを素直に歩く楓の表情が、見えないからだろうか。
潮風が、夜になって強く吹き付けているからだろうか。


「……また、俺と、出かけてくれる?」
「………うん…」


もし、楓が、俺と同じ熱量で、
俺と同じように、「兄」じゃなくて、「男」として自分を求めてくれているなら、


「楓」
「…なに…?」


もう自制する理由がない。
まだ、許されていて、いいのだろうか。


「…兄として、俺のこと好き?」


身体の中には、先ほどまでの花火の打ち上げ音が、どくんと残ったままかのように響いたままだ。
花火が終わって駅に向かう人々の中で、少しだけ冷たい風が頬を撫でていくのに、俺の身体は驚くほど熱い。


「……当たり前じゃん……」


その言葉が後ろから小さく聞こえてきて、唇から息が漏れた。
今更、最後の防衛線をわざわざ楓に確認してしまう。俺は、やっぱりまだ臆病で、狡い。

繋いだ手が、歩調に合わせて静かに揺れ続けた。
手のひらから伝わる楓の体温が、少しずつ指先に染み込んでいくようだった。


今は、それだけで良かった。