「どこ行くの?帰るんじゃないの?」
「んー」
いつもより少し早めの夕食を、近くのイタリアンのレストランで済ませた。
土曜日だけあって、カップルや家族連れが多く、遊園地の方から漏れてくるカラフルな光が眩しかった。
なんだか落ち着かなくて、食べきれなかったピザは怜にあげた。
遅くなってもいいかという怜の言葉は、外食のことかと思っていた楓だったが、店を出た怜は反対方向に歩き出した。
すぐ近くにある海からは、潮の香りがしてきて、降ろしている自分の髪の毛が後ろに流れていく。
「怜ちゃん?」
「こっち」
公園のようなところを歩いて、海が開けたベンチに到着すると、怜は座るように促した。
前方には人がまばらに集まってきていて、こんな時間に何だろうと楓が辺りを見回していると、怜が言った。
「花火、始まるんだって。もうすぐ」
「え、花火!?秋なのに?」
「そう、十分くらいの短いプログラムらしいんだけど」
怜がそう言って、「よいしょ」と隣に座った。
木製のベンチの金具がぎしりと音を立てた。
「ここから見えるの?」
「まぁ前の方がよく見えるっぽいけど。まだ時間あるし、立ち見になるし、混んでるかなって。一日歩いて疲れたでしょ」
「…うん……」
ふと音がしてその方向を見ると、少し距離が空いた隣のベンチにもカップルがやってきていた。きっと座ってじっくり見たい人には穴場なのだろう。
また、あのパンビストロの時のように、調べてくれたのだろうか。
「花火は…一回、見に行ったよね、みんなで…」
「あー、立川のね。夏で暑かったなーあれは」
一緒に暮らし出して、三ヶ月ほど経った後だった。
予定を空けておいてくれと母に言われて、夕方から四人で出かけた。
母と怜の父を二人きりにしてあげた方がいいんじゃないかと、楓がこっそり怜に聞くと、ふっと笑って「今日はいいんじゃない、きっと親父も楓がいた方が嬉しいよ」と言ってくれたことを覚えている。
家族の思い出には、ほとんど怜がいる。
小学六年生の頃から知っているんだ、もう十年になる。
「花火があるから…今日はここに来たの?」
「んー、水族館を調べてたら、花火があるって書いてあったから、ここにした」
「…調べたの?」
「そりゃ調べるでしょ」
怜はそう言って、くしゃりと笑った。
その顔を見ると何だかたまらなくなって、足元に視線を落とした。
「寒くない?」と聞いた怜に、「大丈夫」と言った自分の声は細かった。
日が落ちた海辺は昼間よりも空気が冷えていて、潮風が髪の毛をさらさらと揺らしていく。
前方の海の近くには人が集まり始めていて、みんな海の方を向きながら、まだ始まらない夜空を見上げている。
公園の常夜灯がさらに光量を落とし、二人の影が周囲の暗闇へと溶けていく。
ざざん、と規則正しく岸壁を打つ波の音が、潮風に乗って遠くから這い上がってきた。
「…なんで、わざわざ調べたの?」
「なんでって…楓が喜ぶかなって思って」
「…だって、怜ちゃん、そういうの調べるのとか、好きじゃないじゃん」
「まぁ、好きではないなー」
怜がそう言うと、何かを思い出すかのようにふっと笑った。
なんで笑ったの?なんで、調べてくれたの?
なんで、喜ぶ私が、見たいとか、言うの?
「さっき言ってた、矛盾って、なに?」
「…んーごめん、楓のことを言ったんじゃないよ」
「行動に、出てるって、なに?」
楓の言葉に、怜はこちらをゆっくりと向いた。
遠くからアナウンスの声が聞こえて、遅れてスピーカーから反響した音声が公園側にも届いた。
奥の照明が少し落ちて、遠くに見えるのが海なのか暗闇なのか、分からなくなりそうだった。
「…どうしたの。今日もやけに、なに?って聞くね」
怜が柔らかい声でそう言った。
その一瞬、海風が強く吹き抜けて、楓が思わず肩をすくめる。
それを見た怜が、羽織っていた白いシャツを脱いで、楓の膝にかけた。
「…なんで、こういうこと、するの」
「……風邪、ひいたら困るでしょ」
ヒュルルル、と甲高い音が空に向かって登っていった。
思わずそちらに視線を送ると、怜も同じように見ていた。
最初の一発が夜空に打ち上がった瞬間、前方からはどよめきが聞こえた。
海上から打ち上がる花火は視界を遮るものがなく、暗い海と空の境目にそのまま光が咲いているようだ。
「怜ちゃんは…ずるい」
「…ふ、そうかもね」
怜が眉を少し下げて、笑った。
遠くの花火で少しだけ赤く照らされた怜の横顔を見ていたら、ずっと心の中にあったものを、今なら言葉にできる気がした。
微かに流れてくる音楽と花火の音が、この場所からは少しだけずれて届いてくる。
一気に花火が連続すると、海辺全体が白く照らされた。
「…意地悪ばっかりして、肝心なことは言ってくれない。全部私にどう?って言わせて、私ばっかり、何でって考えてる」
「…」
「それなのに急に、何とも思ってないみたいな顔して、いつかいなくなるみたいなこと、言って…」
そんなの、ずるい。
楓の言葉と同時に、空で花火が爆ぜた。
それから少し遅れて、腹の奥に響くような低い振動が届いた。
「…いいの?」
怜がぽつりと言った。
まっすぐにこちらを射抜くような目線が、じっと楓を見つめていた。
「え…」
「楓が、戸惑うんじゃないかと思ってさ。言っていいなら、いつでも言うけど、いいの?」
「いいのって、なに…」
じり、と怜が少しだけ距離を詰めた。
ベンチに置いていた手のひらに、怜の指先が微かに当たった。
「それ聞いたら、本当に戻れないよ?…覚悟、持ってね?」
「…っ」
心臓が、どくんと大きく跳ねた。
戻れないというのは、つまり、そういうことだ。
でも私、もう、求めている。
確実な言葉が欲しいって、思い始めている。
「…いじわる……」
最後まで、私に、許可をとるのは、ずるいじゃん。
楓の言葉に、怜はふっと笑った。
「意地悪っていうか…俺からしたら、楓のためでもあったんだけどね」
「…私の、ため…?」
赤や金の花火が弾けては、怜の横顔にも色が映り込んでいく。
さっきまでは真っ暗だったはずの水面にも花火の色が反射して、波が揺れるたびに光が細かく崩れていく。
「そう。でも、楓が良いっていうなら、遠慮なく」
怜がそう言った。
身体を急に引き寄せられて、上半身が怜に包まれる。
少しだけ触れていた小指が離れていって、背中に熱い手のひらを感じる。
怜の大きな手のひらが背中に回って、二人の胸元が隙間なく密着していく。
Tシャツの襟が、楓の頬に柔らかく擦れた。
「…好きだよ」
耳元で発されたその言葉は、遠くの花火の大きな打ち上げる音よりも鮮明だった。
ひゅう、と吸い込んだ息と共に、怜の服からはいつもの柔軟剤の香りがした。
「妹じゃなくて…女の子として…楓が、好きだよ」
花火の音に半分飲まれるように発された言葉が、はっきりと脳内を駆け巡っていった。
怜の手のひらが背中を優しく包んでいる。
引き寄せられたままの体勢で、少し反った自分の身体から、浅い息が漏れていく。
「……れいちゃん…」
どくんと音を立てるのは、花火の反響音か、私の心臓か。



