「楓、今日は予定ないって言ってたよね?」
「うん、ないよ」
久しぶりの土曜日の休みの日で、朝食の食器を洗っていた楓の元に、怜が歯磨きをしながらやってきた。
シャカシャカ、という軽い音を立てながら、怜は楓をちらりと見た。
「出かけない?」
「いいよ?どこに?」
楓が手を拭きながら返すと、怜は歯ブラシを口に咥えたまま、口角を上げて言った。
「デート」
「…どこに?」
もう、その言葉の響きに動揺したりはしない。
皆川といるのを見られた日から、怜の顔色を少しだけ伺ってしまう自分がいて、妙な不安感と、焦燥感があった。
でも、どうしてそうなるのか分からないまま、数日が経っていた。
「水族館。昼すぎには出るから」
「分かった…」
怜は楓の返事を聞くと、機嫌が良さそうに口角を上げた。
そしてシャカシャカと音を立てたままリビングから出て行った。
「…」
楓はレバーを上げて水を止めて、タオルで手を拭いた。
最近、怜ちゃんが考えていることが分からない。
そう思いながら、楓はため息をついた。
可愛いとかデートとか、男のひとみたいになって、どきどきさせられたかと思えば、皆川とのデートには、良かったねと何の反応も示さない。
この間も、兄ですと平然と言っていた。
そうしてお邪魔しましたとあっさりとその場から去ろうとする。
でも、怜からは拒否されることもない。
兄のように接してきたかと思えば、またデートをしようと言う。
それでも、水族館に行くと言われて、デートだと言われて、少しだけ浮き足立つ自分がいた。
必死にクローゼットの中身を思い浮かべている自分がいて、それが悔しい。
「…なに着よう」
そんな独り言が自分から溢れたのにも気づかないまま、楓は自分の部屋へと戻った。
駅を降りた瞬間、潮っぽい湿った風が頬に触れて、遠くからジェットコースターのレール音と子どもの笑い声が混ざって聞こえてきた。
電車で一時間半ほど揺られ、神奈川にある、遊園地と水族館の複合型施設に来ていた。
「わ…初めて来た」
「俺も」
水族館の館内に入った瞬間、空気が少しひんやりとした。
潮っぽい匂いと水槽の濾過装置の低い機械音が混ざっていて、隣に立つ怜がぽつりと言った。
入口付近は天井が高く、青い照明が床にゆらゆら反射して、水の中にいるみたいな感覚に陥る。
「なんで水族館にしたの?」
「…楓とは来たことないから」
楓は、怜の言葉を聞いて、「ふうん」と言った。
それがどういう意味なのか、聞きたいけど聞けなかった。
「とりあえず、流れに沿うか」
「うん」
大水槽の前は人だかりができていて、暗い空間の中で水槽だけが巨大なスクリーンみたいに発光していた。人混みの中で前の人の頭の先を見つめていると、怜が腕を引っ張って、見やすいところに誘導してくれた。
「ありがと…」
「どういたしまして」
腕を掴んでいた手は、すぐに離れた。
ちらりと見上げる怜は、ゆるい白いシャツに、グレーのさらりとしたパンツからは白いスニーカーが見えている。
そういえば、秋服を買いに行こうと誘われていたのに、結局行けないまま、もう十月になってしまった。
「どうした?」
「…何も」
自分の気持ちも分からないし、怜の気持ちも分からない。
エイが頭上をゆっくり泳いでいくたび、水面の揺れた光が二人の顔に落ちる。
「あ、すごい、イワシ!」
「…ほんとだ」
楓が声を顰めてそう言うと、怜も視線を向けた。
つい袖を引っ張ってしまったことに気づいて、そっと指先を離した。
ちらりと怜に視線を向けると、口角を上げた怜と目が合った。
自分を見ていたのだと分かって、楓はパッと視線を水槽に戻す。
ほら、なんか、その視線は、もうさ。
「行こ」
「うん」
クラゲのエリアは特に照明が暗く、丸い水槽の中を漂う白いクラゲだけがぼんやり浮かんで見えた。
少しだけざわめいている空間に、きれいと呟いた自分の声が、やけに近く聞こえた。
隣同士で水槽を見上げていると、肩同士が何度も軽く触れて、その度に怜の方から離れていったように感じた。
「…楓、明日は朝早い?」
「ううん、いつも通りだよ」
一通り回った後、お茶のペットボトルを買ってくれた怜が、それを楓に手渡しながら聞いた。
そばにあったベンチに自然と腰を下ろし、ペットボトルのキャップを開けると、かちりとプラスチックが擦れる音がした。
喉に流し込むと、冷たい麦茶がひんやりと通って降りていった。
こくりと飲み込むと、怜が手を差し出し、楓は蓋を開けたままのペットボトルを手渡した。
「じゃあ、帰り、ちょっと遅くなってもいい?」
「いいけど…移動するの?」
楓の返事を聞いた怜が、ふっと口の端を上げて、さっき渡したお茶を飲んだ。
こくりと流し込まれるたびに上下する喉仏を何となく見つめていて、それに気づいて目を背けた。
「今は…十七時過ぎか。腹減った?昼軽く食べただけだったでしょ」
「食べれなくないけど…まだそんなに?」
「そっか、じゃあ少しゆっくりするか」
じっくりと展示を見たので二時間半ほど経っていた。
まさか今から遊園地の方に行くつもりか、と思ったが、夕食の提案をするくらいなのでどうやら違うらしい。
きっとこの調子だと教えてもらえなさそうなので、楓は聞くのをやめた。
夕方に近づいていくに従って、家族連れの姿はなくなり、カップルや大人の姿の割合が高くなった。
二人の間には心地の良い沈黙が流れ、遠くに見える水槽をぼんやりと見つめた。
——『…誰かにもう、好きって言われてる?』あの日、そう皆川に聞かれた時、初めて「好き」という言葉を通して、怜のことを思い出した。
何も、そんなことは言われていない。
でも、行動も、言葉も、そう思われていると、そう思うのは、自惚れているのだろうか。
「怜ちゃんってさ…」
「ん?」
「なに考えてるのか、分かんない…」
楓の言葉に、怜がこちらをちらりと見たのが分かった。
手を繋いだり繋がなかったり、兄のように優しいかと思ったら、男のひとのように意地悪なこともする。
「…そう?俺は自分が分かりやすいって思うけどね」
怜がぽつりと言った。
目の前をカップルが通り過ぎていって、何となくそれを目で追った。
「前も顔に出ないタイプって、言ってたじゃん」
「…顔には出ないかもな」
「ほら」
「でも、行動には出てるだろ」
怜がそう言った。
二人の間には先ほどの飲みかけたペットボトルが垂直に置かれていて、プラスチックの表面から溢れ出した水滴が、ラベルの文字を濡らしながら、ゆっくりとベンチに水溜りを作っていく。
「…だから余計、分かんないよ」
楓がそう言うと、怜はしばらく黙った後、ぽつりと言った。
「矛盾してるよな」
「え?」
どういうこと?そう聞こうとする前に、怜は立ち上がった。
簡素な作りのベンチがカタリと揺れて、ペットボトルが倒れて座面を転がった。中の麦茶がチャプンと大きく波打つ。
思わずそちらに視線を送ると、怜がそれを取って、キャップを開けて飲んだ。
「行こっか」
「うん…」
怜がキャップを閉めて、ふっと笑った。
きっと、聞いても教えてもらえない。
楓が立ち上がると、怜はペットボトルを片手に、出口の方に向かって歩き出した。
出口近くの巨大水槽では、天井近くを魚の群れが横切るたび、暗い空間に銀色の反射が走っていた。
怜がそれを、ぼんやりと見上げてながら歩いて、楓はその横顔を、半歩後ろから見つめながら足を進めた。
足音は床に吸い込まれ、機械的な水の循環音だけが、耳の奥に低くこもり続けた。



