キャラメリゼ ワンルーム

 
 
 
 
「おはよー楓ちゃん!皆川さんとお兄さんとはどう?」
「…おはようございます」
「あー、もうめんどくさそうにしないで!」

出勤途中で肩を叩かれて振り向くと、桃香がニコニコしながら楓にそう言った。
桃香には、自分の気づいていない気持ちを一気に暴かれてしまうようで、少しだけ怖い。

「皆川さんとは、普通に、パン屋さん行って、ランチして、お茶して、散歩して解散しましたよ」
「それはめちゃくちゃデートって言うんだけど知ってる?」
「デート…だったかもしれないですけど」
「お、皆川さん口説いてきた!?」
「口説かれ…てはないですかね」

桃香が楽しそうに目を輝かせながら楓に問いかける。
スタジオに向かう道は、通り過ぎる人々も朝の時間帯は慌ただしそうだ。

「何か言われたりは?」
「…またパン屋に誘いますねって」
「カーッ!たまらん!そして絶妙!楓ちゃんはどう思ってんの!?」
「いや…普通に、良い人ですよね…」

桃香の言葉を受けて、頭に浮かんだそのままの言葉を伝えた。
あの日は、楓をとにかく尊重してくれて、優しくて、きっとものすごくスマートで、楽しいデートにしてくれていたんだろうと思う。

「良い人ね…ぜんっぜん気持ち動いてないね…」
「いや…別に、一回ご飯行っただけですし…」

楓が考えながらそう言うと、桃香は分かりやすく顰めっ面をした。
スタジオがある大通りが近づくと、人通りも増えてざわめきが大きくなる。

「あのね、社会人の恋愛ってスピーディだから覚えておきなね」
「え?」
「社会人同士って、学生の時みたいに、まったりなんとなーく良い感じになっていくの、わざわざ待ってたりしないよ」

自分が思い描いていた恋愛のイメージをしっかりと言い当てられてしまい、楓は分かりやすく言葉が詰まる。
今まで、そうやって恋愛をして、付き合ってきた。

大人というのは、年上の男のひと、というのは、そういうものなのだろうか。

「あ、楓さん桃香さんおはようございます」
「皆川さん!おはようございます!」
「おはようございます…」

スタジオが入っている建物が近づくと、一階のショップの植え込みに水をやっている皆川が声をかけてきた。
そういえばここの花壇に花がたまに植えられていて、誰がやっているのだろうと気になっていた。

「え!これ皆川さんがお世話してんの!?」
「いや、お客様から種とか球根とか頂いて、せっかくなら育ったところも見てもらおうってところから始めたら、なんか根づいちゃって…」
「すっご!若くして店長まで登り詰めただけあって、さすがですねー」

皆川が「いやいや、そんなことないですよ」と恥ずかしそうに微笑んだ。
桃香の隣で同じようなことを思っていた楓だったが、その目線が自分に注がれている気がして、曖昧に微笑み返した。

ホースの先から弧を描いて散る水滴が、朝の斜光を浴びてキラキラと白く光った。
濡れた土と青々とした葉の匂いが、涼しい秋の空気に混ざって鼻腔をくすぐる。

「じゃ、今日またいくつか後で納品のやつ取りに行かせますね、楓ちゃんに!」
「えっ」
「はは、嬉しいなーお待ちしてます」

楓とは対照的に、皆川はなんの動揺も見せずに爽やかに手を振って、再び植え込みに視線を送って水やりを続けた。
エレベーターに乗り込むと、楓は桃香に「余計なこと言わないでくださいよ」と抗議する。

「いやー、いい人。きっと皆川さんは本社に行くね、店長で終わんないよあれは。将来有望じゃん?」
「…そうなんですか?」
「対応も大人だしね、まぁ流されて付き合っちゃうのもアリー」
「なっ、…にも、まだ言われてないですよ…」

眉を顰めながら言う楓を見て、桃香は「お子ちゃまだねー」と笑いながらエレベーターを出て行き、楓はすっきりしない気持ちのまま後に続いた。








「怜ちゃん」
「おつかれ」

仕事終わり、少し遅くなった楓を、怜が迎えにきてくれた。
今日はちょうど出社していて、近くまで来ていたらしい。
十月の夜は涼しくて、「どうせだから歩いて帰るか」という怜に、楓は頷いた。

「夜ご飯どうしよっか?」
「今から作るの大変じゃね?食べに行く?」
「んー、スーパー寄らなきゃだし、お惣菜でもいい?」
「全然いいよ」

家には作り置きの副菜もあるし、食事担当としても、いつも怜にお金を出してもらっている身としても、安く済ませたいと思って提案する。
怜は本当になんでも良さそうで、きっと金額なども気にしていない。

若くして出世っていうなら、怜ちゃんもだよなぁ。
楓は隣で歩く怜を見上げながら、今日の桃香との会話を思い出す。

有名な大学に入って、有名な会社に入社して、経験を積んで転職して。
年収は聞いたこともないが、今は副業もしながら稼いでいるという怜は、どうなんだろう。

「ん?なに?」
「…怜ちゃんって…将来有望なの?」

楓の視線に気づいた怜が、楓に優しく問いかけた。
ぼうっと頭の中で考えていた言葉が、そのままつらつらと口から出て、怜は怪訝な顔をした。

「なに急に、どうしたの。誰かになんか言われた?」
「いや…なんか…気になって」
「将来ね…別に俺は特に目標があってやってるわけじゃないしなー…それで言うなら三浦の方が有望なんじゃない?」
「三浦さん?」
「前の会社の方が一般的なネームバリューもあるし。あいつ今マネージャーで数千億の案件回してるよ」

楓が「すご…」と言ったのを見て、怜がふっと笑った。
スニーカーがアスファルトに擦れて、ざざっという鈍い音がする。

すれ違う車もまばらな大通り沿いで、街灯の等間隔な光が、二人の影をアスファルトの上に長く伸ばしている。

「…いつかも、こうやって散歩して歩いたな」
「前みたいで、ちょっと落ち着く」
「…そうだな…」



あれは、楓が高校生になって、すぐだった。
千葉から町田に引っ越して、家からそう遠くない高校だったが、当然のように友達は一人もいなかった。
気軽に会える距離でもなくて、SNSで流れてくる友達の近況が羨ましくて、寂しくて、なんとなく部屋にこもっていたら、怜が夜の散歩に連れ出してくれた。

コンビニで悪いけどとケーキとアイスを沢山買って、「二人で太ろっか」とニヤリと笑った怜に、楓もつられて笑った。
アイスを食べて、怜の就活での難しい話を聞きながらまったり帰って、楓の部屋で深夜にコンビニのケーキを食べた。

山盛りのスイーツに囲まれて、全部を少しずつ食べたいという楓に、怜は仕方なさそうに笑って、楓が少し食べた後のケーキを一緒に食べてくれた。

そのあと、楓の顎にだけ赤いニキビができたことも含めて、思い出だった。




二人ともしばらく黙って、きっと怜も思い出しているのだと思った。
風が吹き抜けていく距離だけ、怜との間が空いていた。

「…さっきの。誰かと比べてんの?」
「えっ」

怜がそう言って、歩きながら楓の顔を覗き込んだ。
急に戻った話に、楓は思わず声が出る。

「まぁいいよ、それでも。楓はこれからどんどん世界が広がってくんだから」
「……なにそれ」

まるで自分が、いつかいなくなるかのような。

「…ほんとだよ。社会人になったら、いろいろ変わってくよ」
「……怜ちゃんとは、変わんないよ…」

楓がそう言うと、怜は一瞬だけ足を止めた。
怜の方向は見れない。
歩きやすいスニーカーのつま先が、交互に足元に映っては消えていく。
コロコロとアスファルトから溢れていったコンクリートの欠片が、道の脇に転がっていった。


「そっか」

怜はそう言って、楓の手を取った。
かさりとした肌が指先に擦れて、すりっと撫でられた第二関節が、熱くなった。

「っ」

指先から、心臓まで、一瞬で熱が届いた気がした。

「将来有望の方がいい?」
「…そんなの、考えたことないもん」
「ふっ、そうだろな」

楓の言葉に、怜は笑った。
先ほどと会話の調子も熱量も変わらないのに、肩が擦れそうな距離と、左手を包む熱に、神経が注がれているようだ。


「…昔みたい?」
「……昔は、手なんか繋がなかったじゃん」
「落ち着く?」


怜がふっと笑って問いかけた。
心臓がどくんと波打っている。
繋がれた左手に、身体中の熱が集まっている。

かつて、あの夜道を歩いた時と同じ、少し湿った夜の匂いが二人の間を満たしている。
並んで歩く互いの肩の位置は、あの頃よりも確実に高くなっていた。

「…落ち着かないよ」

楓がぼそりとそう言った。
生ぬるいような、少しだけ涼しいような風が、頬と指先を撫でては抜けていった。
周囲のノイズが一瞬だけ遠のいた気がした。

怜は楓の返事を聞いて、目元をすっと細めた。
繋がれた指先に、少しだけ力が入った。
怜の大きな手のひらが、楓の指先から手の甲までを隙間なく包み込んでいる。

それは、どんな表情なの。


「…俺も」


怜がそう言って、眉毛を少し下げて、笑った。
それは、いつもの仕方なさそうな笑い方に似ていて、でも全然違った。


もしかして、怜ちゃんもどきどきしてる?

そう思ったけれど、聞けなかった。
しばらくお互い前を向いて歩いた。たまに足音が重なって、それが分かると、少しだけ嬉しかった。