キャラメリゼ ワンルーム

 
 
 
 
 
あれから、表面上は何事もなかったかのようだった。
怜も楓も、あの日のことには触れないし、言及もしない。
三日間、今まで通りの日常が淡々と過ぎていった。

楓が定時で仕事を終えて家に帰ると、ちょうど雨が降ってきていた。
怜の部屋はドアが少し空いたままで、家には誰もいなかった。
今日はどうやら出社らしい。玄関には怜がいつも使っている傘が立てかけられたままで、アプリで天気予報を見ても、明日まで雨は止まないようだった。

【今日出社?何時に帰ってくるの?】

楓がそうメッセージを送ったのは、十八時半過ぎ。
炊飯器のスイッチを入れて、夕食の準備を途中まで終えたところで、スマホがポケットの中で振動して、怜からの返事が来た。

【あとちょっとで駅。家着くのは十九時ちょい過ぎかな】

それを見て、咄嗟に楓はコンロの火を止めた。
別に、怜だっていい大人なのだから、傘なんて買えばいいかもしれない。
もしかしたら会社から持ってきているかもしれない。
誰かに借りたかもしれない。

けれど、なぜだか怜のところに行きたくて、楓は傘を二つ掴んで、マンションを出た。少し早足で駅に向かいながら、楓は怜にメッセージを送った。

【雨降ってるから、傘持って駅で待ってる】

先ほどよりも雨は強くなっていて、一歩足を踏み締めるたびに、パシャリと水たまりが跳ねて、履き心地のいい紺色のスニーカーに跳ねていった。






「楓」

駅について柱にもたれて改札を見ていると、それに気づいた怜が小走りで改札を抜けて楓の元にやってきた。
その手に傘はなくて、それだけを確認して楓はホッと息をつく。

「どうしたの?わざわざ」
「えと…傘、ないかなって思って」
「うん、なかった。助かった」

傘を手渡すと、怜は「ありがと」と言いながら受け取った。
楓が足を進めると、怜もその隣を歩く。
高架の屋根がなくなったところで、お互いが傘を開くと、少しだけ二人の距離が空いた。

「……」

通り道には、車のタイヤが水溜りを跳ねる音が聞こえてくる。
怜も楓も、何も言葉を発しない。
大きな雨粒が傘を叩く音だけが大きく聞こえた。

別に、何かを話そうと思ったんじゃないけれど、そんなつもりじゃないけれど。
いつもは、私から何か話題を振ることが多かった。
けれど、今は何も思いつかない。

どうしよう、なんだか気まずくて、こんなに気まずいのは、初めてかもしれない。


「入れて」
「ぅえっ」

怜が自分の傘を畳んで、楓の傘にずいっと入ってきた。
狭い傘の下で、怜の肩が楓の肩をぐっと押し込み、二人の二の腕がしっとりと濡れた生地越しに密着する。

楓の口からは変な声が漏れて、傘が少しだけ揺れた。
前方を走る車のテールランプが、濡れたアスファルトの上で赤くにじみ、二人の足元を不規則に照らし出していた。

「怜ちゃんの傘の方が、大きいじゃん…」
「嫌なら抜ける」
「いやじゃないけど…」

一般的な女物の傘で、大人二人はかなり窮屈だ。
白地にピンクのラインがあしらわれた傘で、怜の肩が縮こまっているのが分かる。
怜がしばらく黙った後に、ふう、とため息をついた。

「こないだ」
「え?」
「誰とデートしたの?」

怜はそう言いながら、楓の傘の柄を持った。
位置が一気に高くなり、少しだけ楓の方に傾けられる。

「皆川さん…」
「…ふっ、誰」

怜が少し息を漏らすように笑って、楓に言った。
いきなり始まった話に、楓は戸惑いながら返事をする。

「あの…職場の…一階にあるショップの、店長さん…」
「店長?その人何歳なの」
「怜ちゃんと同い年だけど…」
「…ふうん」

怜の肩に雫が落ちたのが見えて、楓は無意識に空けていた怜との距離を詰めた。
傘の柄の向きを少しだけ直し、まっすぐに向けると怜がちらりと楓を見た。

「どこ行ったの?」
「えっと…神楽坂にあるパン屋さん」
「ふっ」

楓が答えると、怜が少し吹き出すように笑い、予想外の反応に「なんで笑うの?」と問いかけた。

「いや、考えることはみんな一緒なんだなと思って」
「…どういうこと?」
「楓はさ、」

楓の質問には怜は答えなかった。
その代わり少しだけ食い気味に怜は言った。
足元でどちらかの靴が水たまりに入った、ぴしゃりという音がした。

そういえば、お盆に帰省した時も、雨が降って、一本の傘で帰った。
あの時と、何も変わっていないようで、何もかも違うような気がする。


「なに…?」
「こないだ、なんでわざわざ、俺に報告したの?」


怜はゆっくりと、そう言った。
奥から車がゆっくりと向かってきて、怜が楓を道の端に肩で押した。
少しだけ湿って生地がしんなりとしている、薄手のシャツがくしゃりと怜のスーツに擦れた。


「なんて言って欲しかったの?」


なんて言って欲しかった?
そんなの、考えて喋ってないよ。
なんで報告したの?
知らないよ、勝手に口から出てきたんだもん。

脳内でいくつもの言葉が通り過ぎては、口まで到達しなかった。
地面に次々と跡を残しては消えていく雨粒だけを、目で追っていた。

楓が黙っていると、怜がさらりと反対の手で楓の髪の毛を耳にかけた。
髪の毛で隠れていた視界が一気に広げられて、怜の顔が視界の端に映る。


「…分かんない」
「ふ、分かんないか」

ほんとはもう、ちょっとだけ分かっている。
心のどこかで、気づき始めている。


「…」
「いいよ、分かんないままで」
「え、」
「分からせてあげる、そのうち。楓が許してくれるなら」


怜がそう言って、耳元に再び触れた。
いつかの熱を思い出して身体をすくめた楓を見て、ふっと笑って、耳にかけていた髪の毛を戻した。


私が許してくれるなら、ってどういうこと?


そう聞こうと口を開きかけたところで、「着いたよ」と怜が言った。
アスファルトから顔をあげると、いつものマンションの前だった。

楓は曖昧に「うん」と頷いて、エントランスに向かう怜の隣を歩いた。
スニーカーにじわりと染みた水分が、靴下に少しずつ浸食していくのを感じながら、そのあとは何も話さずに家に戻った。

玄関を開けると米の炊ける匂いだけが部屋に充満していて、怜はいつの間にか濡れていた肩を手で隠すようにしながら、「着替えてくるね」と部屋に戻っていった。