桃香にしつこく促されて、気持ちの整理ができないまま皆川に返信をした。スムーズに日にちが決まってしまい、楓はカレンダーアプリを呆然と見ながら帰宅した。
そんな雰囲気じゃなかった気もするけれど、あれがデートの誘いなのだろうか。
そうだとしたら、手練れすぎないか?
あんなにスマートに誘われたら、そりゃ気づかないのでは?
そういえば怜も、最近は毎日のように楓を翻弄してくるが、年上の男性ともなれば、あれが普通なのだろうか。
怜にあれだけ毎回動揺してしまうのは、そういう攻められ方に慣れていないからだろうか。
もし皆川が、そのつもりなのだとしたら、私は同じような反応になるのだろうか。
「どうしよ…」
髪の毛にドライヤーを当てながら、楓は思わず呟いた。
鏡の表面はドライヤーの熱気でわずかに曇り、自分の輪郭を白くぼかしている。
洗面所の鏡に写る自分は情けなく眉毛がハの字に垂れている。
きっと今までなら、怜に相談していた。
『これってデートかな!?』などと聞いていた。
でも今は、なんとなくそれはできない。
「…いつまでそこに立ってんの?」
「ギィヤッ!!」
髪の毛を乾かし終わった後、スマホのスケジュールアプリを開いたままキッチンでぼうっとしていると急に背後から話しかけられて、楓は思わず大きな声が出る。
「どんな声出してんだ」
怜が笑いながら楓の後ろに立って、後ろの冷蔵庫の扉を開けた。
キッチンに立ち尽くす楓の前には、空になったガラスのコップが置かれたままだ。
なんとなくそのコップを見つめながら、ぼうっとしていたから、怜がこちらに来るのに気づかなかった。
「見て、アイス買った。食べる?」
怜が楓の方を振り返って、足で冷凍庫の扉を閉めた。
その手元には、少し高いアイスのカップが握られていた。
「え!食べる!」
「ふ、おいで」
怜がふっと笑って、ソファの方に足を向けた。
睨めっこをしていたスマホをパジャマのポケットに仕舞って、楓もその後をついていった。
「なんか今日、変じゃない?」
「え」
「ご飯の時も茶碗見つめてたでしょ」
怜がソファに座るなり楓にそう言って、油断していた楓は間抜けな声が出てしまう。
何気ない調子だが見られていたことになんとなく気まずい気持ちになってしまい、楓は目を逸らした。
「なんでもないよ」
「仕事でなんかあった?失敗した?」
「ううん」
「タルト、ダメ出しでもされた?」
「ふ、されてないよ。美味しいって食べてくれた」
怜が「そう?なら良かった」と言ってアイスの蓋をぺりぺりとめくった。
そういう時だけお兄ちゃんみたいになって、ずるい。
楓はそう思いながら、怜の動きを目で追った。
怜がめくった蓋を、わざわざキッチンの方まで捨てにいった。
「最近、仕事はどうなの?」
キッチンの方から聞こえてくるその言葉に、楓は考えながら返事をする。
「ぼちぼち。ちょっとずつショップで買い物してもらえるようになったよ」
「お、なんて言ってんの?」
「うーん…このお塩、パンに入れると美味しいんだけど普通にお肉につけても美味しいんですよって言ったら買ってくれたり」
「うんうん」
「秋だから、栗とかかぼちゃスイーツ食べたいですよねって話から、かぼちゃ餡が発売されてて、今日のパンのジャムを餡に変えても美味しいかもねって話をしたら買ってもらえたり…?」
楓が思い出しながらそう言うと、怜は嬉しそうに「マーケティングできてるじゃん」と言った。
そんなつもりがなかった楓からすると、怜の言葉がピンとこなくて真顔で怜を見つめ返す。
「だから、パンだけじゃなく肉につけてもいいって用途拡張してるんでしょ、購入ハードルが下がるし、そういうのがクロスユース提案っていうんだよ」
「ふーん?」
「かぼちゃ餡の件も、試食なしで購買させる導線としてかなり強いよ。楓って購買導線作るのうまいよね」
キッチンから戻ってきた怜が、楓の隣に少しだけ距離を空けて座った。
どういうこと?と聞き返そうとすると、怜の持つスプーンがカップの底を削り、シャリリという微かな音を立てる。
そしてその掬われたアイスを、楓に差し出した。
「はい」
最初の一口目なのにいいの、とか、なんの味なの、とか、さっきのはどういう意味なの、とか聞きたいことはたくさんあった。
怜はスプーンを差し出していただけで、そのスプーンと口までの距離はそれなりにあったから、スプーンを受け取る選択肢もきっとあったはずだった。
スプーンが一本なのは、途中から分かっていた。
キッチンから戻ってきた怜の手にそれがなかった時点で、少しだけそうかなとは思っていた。
けれど、少しだけ甘えてもいいかなと思って。
今までなら、慌てていたかもしれなかった。
「…ん」
楓は少しだけ止まってから、口を少しだけ開けた。
怜が、くすりと笑って口角を上げた。
そして持っていたスプーンを、楓の口内へ滑り込ませるようにして運んだ。
「…おいし」
「ほんと?俺も食べる」
一番上に乗っていたらしいアイスの具材をもぐもぐと咀嚼していると、怜が同じスプーンでアイスを掬って、自分の口に入れた。
溶け始めたアイスの縁は透明な蜜と混ざり合い、スプーンの銀色の表面にねっとりと絡みついていた。
「うま」
その口元とスプーンを見ないようにして、楓は言った。
無意識に隣にあったクッションを抱きしめる。
「ね。これなんの味?」
「黒蜜ときな粉、上に乗ってんのは餅だって」
「怜ちゃんにしては珍しいチョイスじゃん」
「楓がこういうの好きかなと思って」
怜が二口目を自分の口に入れながら言った。
その言葉が、少しだけ胸に落ちた。
「ふうん」と言った自分の口元からは、少しだけ甘い香りがした。
「…さっきの、購買導線ってなに?」
楓がそう言うと、怜が楓の元にアイスを運びながら「そうそう」と言った。
二口目も餅が乗っていて、今度は動揺しなかった。
きな粉の香ばしさと黒蜜の濃厚な甘みが口内に広がる。
「楓ってさ、普段から美味しそうに話すし生活に落とし込む提案が上手いんだよな。人って、商品単体では欲しくならないけど、自分がそれを楽しんでる未来を想像すると急に欲しくなるからさ」
「うん?」
「要するに、商品説明じゃなくて、生活提案してるんだよね。だから売ろうとしてないのに売れる」
「そうなんだ…?」
分かったようで分からない。
楓の顔を見た怜が少しだけ眉を下げて笑って、「餅はこれで最後」と言いながらスプーンを楓に向けた。
楓が口を開けると、怜は迷いのない動作でスプーンを奥まで差し込み、一口分のアイスを残さず楓の口へと預けた。
スプーンを引いた拍子に、怜の指先が楓の顎のラインをかすめ、一瞬だけ硬い骨の感触を伝えていった。
「接客とかマーケとか向いてるよ」
「…ありがと?」
楓がそう言うと、怜が独り言のように「理論じゃなくて感覚で人を動かしてんだよな…人柄から出るっていうか、そういうのって再現性がなくて強いっていうか」とボソボソと呟いた。
「どういうこと?」と楓がそう言うと、怜は大きく掬ったアイスを楓の口元に運んだ。カップの中はすでに残り少しになっていて、ほとんど楓の口に運ばれていった気がする。
カップの中のアイスは、温度に当てられてゆっくりと形を崩し、底の方に溜まった蜜が照明を反射して艶やかに光っている。
「楓はそのままでいいよってこと」
「またそうやって、私が分かんないと思って…」
楓が眉を顰めてそういうと、怜はくしゃりと笑った。
そうしてアイスを一口食べて、最後の一口を楓に与えた。
「美味かったな」
「うん、ありがと」
怜が「どういたしまして」と言いながらキッチンに足を向けた。
シンクでスプーンを洗い流しているであろう音を聞きながら、楓はその怜の横顔を見つめた。
皆川さんのこと、考えるのは一旦やめよう。
もしかしたらデートのつもりじゃないかもしれないし、パン屋さんは楽しみだし、そこで怜の好きな明太フランスでも買ってこよう。
口の中に残る黒蜜のねっとりとした甘さが気になって、「怜ちゃんお茶ー!」とキッチンに向かって言った。
怜は「はいはい」と仕方なさそうに笑って、冷蔵庫を開ける姿を、なんとなく見つめていた。



