次の日の昼過ぎ。
午前中に仕込んでおいたタルトの仕上げをしようと、冷蔵庫から取り出した。
焼き上がって冷えたタルト台はこんがりと色づき、タルトの縁をなぞる楓の指先には、十分に焼き切った生地特有の硬い手応えがあった。
「なにしてんの?」
「…練習を…」
昨日、顔の熱が引くまで怜は楽しそうに楓を見ていた。
せっかく頼んだ美味しい料理を、楓は少しだけ急いで口に詰め込んだ。
あれ以上、あの場にいたら、自分がどうにかなってしまう気がしたから。
「なに作ってんの?なんの練習?」
怜はあまり表情に出ないし、焦ったり顔が赤くなったりはしない。
いつも余裕そうで、楓はそれが悔しい。
昨日のことなんて何にも覚えていなさそうな顔で、怜が楓のいるキッチンに近づいてくる。
「メレンゲの絞り…来月のレッスンで、メレンゲタルトあるから…」
「へぇ、この粒々はなに?」
「紅茶だよ。紅茶とイチジクの、メレンゲタルトにしようかなって」
「すっご、美味そう」
いつも作る大きなタルト台ではなく、小ぶりのタルトを複数焼いたのでそれだけ絞りの練習もできるだろう。
楓が持っている大きなボウルを見て、「まだかかるの?」と怜が聞いた。
先ほど、昼食を一緒に取ったばかりなのにもう食べたいのだろうか。
「うん、この後メレンゲを立てて絞って、バーナーで炙るから」
「炙る?」
「そうだよ。職場に持っていって、絞りもちょっと見てもらおうかなって思ってて」
「職場?」
怜がそう言って、冷蔵庫からお茶を出そうとしていた手を止めた。
楓の方を振り返って、「職場?」と再度言った。
「うん…なんで?」
「俺のは?」
「え?」
「俺のはないの?俺は食べられないの?」
真顔でそう言う怜に、楓は思わず吹き出した。
ケーキ屋では何でも良いとか言うくせに、さっきも昼食を食べたばかりなのに、そんなに食べたかったのか。
「ふふっ、あげるよ!怜ちゃんとも食べようと思ってて、その残りを職場に持ってくの」
「…ふうん」
何がふうん、だ。と思いながら、楓は笑いを堪える。
ボウルに割って冷やしておいたメレンゲにハンドミキサーを差し込み、しっかりと泡立てていく。
ウィーン、という機械音がキッチンに広がり、怜はその手元を興味深そうに覗いていた。
「どうしたの?」
「見てる、気になるから」
途中でグラニュー糖で作ったシロップを何度かに分けて加えながら、高速でハンドミキサーを動かしていくと、段々と半透明だった卵白が細かい泡になっていく。
ボウルを傾けて重点的にハンドミキサーを当てていると、視界の端でそれをじっと見つめる怜が見えて、楓は笑みをこぼした。
「まだ泡立てんの?」
「うん、しっかりツノが立つまで」
怜が楓の背後から顔を近づけて、「そうなんだ」と言った。
ふわっと怜の吐息が、耳の上を抜けていった。
「っ」
ハンドミキサーの金属の先端がボウルの内側に当たり、硬い音を立てて火花のようにメレンゲを周囲に飛ばした。
「ち、近くない?」
「そう?いつもこんなんだよ」
そんなわけはない。
楓はそう思いながらも、これ以上動揺したくなくて返事をしなかった。
ボウルの中の冷やされた卵白は、蛍光灯の光を浴びて半透明に澄んでいた。
ハンドミキサーを止めて、用意しておいた絞り袋に完成したメレンゲを詰めた。
「れ、怜ちゃんって、そんなにイチジク好きだったっけ?」
「ん?」
気にしない、これ以上乱されてたまるもんか。
いつもいつも余裕そうな顔をして、私の心だけ乱しては平気そうに笑って、そんなの私だけずるいじゃん。いつも通り、いつも通りしていれば大丈夫。
「今まであんまり買ってなかったけど、これからはイチジク、出そうか?」
「…普通にイチジクも好きだけど」
メレンゲをタルトの上に絞る前に、動かし方を確認したくて、ボウルの上で絞り袋を軽く動かす。
「よし、」
そう軽く呟いて、絞り袋をタルトの上に移動させようと思ったところだった。
怜が楓の耳元に顔を近づけて、ふうっと吐息をこぼした。
触れるか触れないかの距離で動くたび、その熱を孕んだ空気が楓の首筋へと流れ落ちた。
「…楓の作るものは、全部食べたいだけ」
「っ」
一瞬、息が止まった。
ぞわり、と全身に一気に血液が回り出したみたいな感触で。
右手に力が入って、絞り袋の中から白く泡立ったメレンゲが、銀色に光る口金からボウルにポトリと落ちる。
「れ、い、ちゃん」
「…なに?」
視界の端では怜のシャツの白い生地が楓の視界を大きく塞いでいる。
視線だけで怜を見ると、怜も楓を見ていた。
見下ろすように、目線だけで。息がひゅうと喉の奥に吸い込まれた。
「なにって、みみ、」
「…耳が、なに?」
怜が楓の耳たぶをさらりと撫でた。
指先が耳の輪郭をなぞるたび、皮膚が擦れる微かな音が、頭の中に直接響いてくるようだった。
「っ」
楓の腕がびくりと動き、絞り袋から垂れたメレンゲが、ボウルの淵にぽとりと落ちた。
怜がそれを人差し指で掬って、ぺろりと口に運んだ。
「あま」
「…そ、そりゃ、メレンゲだから…」
「メレンゲだとなんで甘いのか、俺には分かんないけど」
そう言って怜が、反対の手で耳たぶを撫でた。
今度は身体が微かに揺れた。
楓の肩が怜の胸元に擦れていて、背中に怜の服がひらりと当たっているのを感じる。
「怜ちゃ、ん…」
「ん?撫でてるだけだよ」
「そんな、の、いつもと、ちがうじゃん…」
怜が背後でふっと笑った気がした。
「いつもと、どこが違う?」
「ねえ、待って…っ」
手の中にある絞り袋からは、メレンゲに含まれた空気が逃げるような微かな音が聞こえ、袋のビニール越しにメレンゲのしっとりとした重みが伝わってくる。
メレンゲがポタリポタリと落ちていった。
絞り袋の先から落ちた白い塊は、ボウルの中で静かにその輪郭を失い、細かい気泡が弾ける、シュワッという音を立てて平らになっていく。
「違うのは、俺?楓?」
「そ、んなの、知らな」
「考えて」
顔が熱い。指先が熱い。耳たぶが熱い。
でも、触れている怜の指先も少しだけ熱いのは、気のせいだろうか。
「も、むり…」
楓がそう言ったのを聞いて、怜はふっと笑った。
そうして頭に手を乗せた。
「完成、楽しみにしてる」
そう言ってリビングから出ていった。
去っていく怜からはいつもの柔軟剤の香りがして、それが目の前の小麦粉と砂糖よりも魅惑的に感じてしまう。
姿が見えなくなってから、こらえていた息が微かに漏れた。
手先が少しだけ震えている気がして、手に持ったままだった絞り袋を一旦皿の上に置いた。
白い陶器の皿に置かれた絞り袋の先からは、行き場を失ったメレンゲがゆっくりと溢れ出し、皿の縁に白い跡を作った。しばらく、そのまま動けなかった。
この快感と熱に、私はもう抗えない。



