キャラメリゼ ワンルーム

 
 
 
 
 
「…怜ちゃん」
「お疲れ」
「…わざわざ、ありがと」
「どういたしまして」

駅の柱にもたれていた怜が、楓の声で手に持っていたスマホを仕舞った。
楓が近寄ると、楓の肩にかかっていたトートバッグを手に取って、するりと自分の肩にかけた。

「重っ、なに入ってんの」
「強力粉だよ、家でパン焼く時の。あの、重いよ」

そのまま歩き出す怜を追いかけると、怜はスマホを取り出して辺りを見渡した。
家とは反対の方向に歩く怜を、楓は慌てて追いかける。
怜の肩にかけられたキャンバス地のトートバッグは、強力粉の重みでぴんと紐が張り、歩調に合わせて硬く揺れている。

「どこ行くの?」
「ご飯食べに行こ。楓明日休みでしょ」
「え、でも怜ちゃんは仕事じゃん」
「俺は別に在宅だし、ゆるくやるし」

駅前の大通りには車のライトが絶えず流れ、白い光がアスファルトに長く伸びていた。
夜風に混ざって、どこかの飲食店から焼いた肉やガーリックの匂いが漂ってくる。

「待って、あの、カバン重くない?」
「ごめん、早かった?」

怜が少し振り返って、足を止めた。
楓が追いつくと再び、先ほどよりも遅いペースで歩き出す。

「なんで、カバン」
「重いよ、だから俺が持つんじゃん」

怜がスマホを見ながらそう言った。
通り沿いには観葉植物を並べたセレクトショップや、無機質な外観の美容室が並んでいる。
タクシーがゆっくりと客待ちをしながら流れ、ヘッドライトが横断歩道を白く照らした。

「あ、ここだ」

怜はそう言って店のドアを開けると、「予約した蓮見です」と入り口で言った。
予約?今日急に誘ったのに?なんかこんな、おしゃれなバルみたいなところで?

ガラス張りの店内には入り口の柔らかいライトが差し込み、長い木製カウンターの上にオレンジ色の照明が落ちていた。
店の入り口付近には焼き上がったばかりのパンが並び、湯気と一緒に小麦と発酵バターの香りが漂っている。

「パン屋さんが、夜にはバルになってるんだって」

席に通されると、怜が座りながら言った。
まさかこんなところだとは思わず、楓は店員のメニューの説明が頭に入ってこなかった。

「どれ食べたい?…赤ワイン煮込み牛すじとマッシュポテトのオーブン焼きってやつ、美味そう」
「え…あ…じゃあ…発酵バターのホイップを添えた焼きたてカンパーニュってやつ…」
「あとは?」
「じゃあ…ブッラータチーズと季節野菜のグリルプレートってやつ…」
「うん、あ、このトリュフ香る半熟オムレツとサワードウっての食べたい、サワードウってなに?」

写真が載っていないメニューを指さしながら怜が言った。
楓はまだ、この状況に頭が追いついていない。

「天然酵母の一つで、サワー種っていうのを使ったパンだよ…」
「へえ、じゃあちょうどいいじゃん」

なにがちょうどいいのか分からなかったが、楓はとりあえず頷いた。
お酒を飲むか聞かれ、首を振ると怜は店員を呼んで、いくつか注文した。

「何で急に、ご飯食べよって言ったの?」
「帰りが遅いって言ってたから?」

店員が去ってしばらくして、楓が聞いた。
すぐにテーブルには違う店員によって、自家製レモネードが二つ置かれた。
以前、楓が自宅で作ってから、怜はレモネードを気に入っていた。

「でも、そんな時間なこと今までもあったし」
「んー、別に。俺がご飯に連れて行きたかっただけ」

グラスには輪切りのレモンが沈んでいて、半透明な液体の中でゆらめいていた。

外出るの、基本面倒くさがるくせに。
夜もなんだかんだ、いつも副業のお仕事の準備とか言って、忙しそうにしてるのに。
私が明日休みだからって、わざわざ?

「…ここ、前にSNSで人気だったところでしょ?なんで怜ちゃん知ってるの?」

そういえばと店内を見渡して、見覚えのある内観とメニューは、インフルエンサーが紹介していたところだと思い出したのだ。
怜があまりそういうものを見ているイメージはなく、楓は不思議に思っていた。

「普通に調べたけど」
「なんで?気になってたの?」
「なんでって…楓、こういうとこ好きでしょ」

怜が何てことないように言った。
その言葉に楓は、ただ黙って頷いた。

その時に、テーブルにカンパーニュが置かれた。
リベイクされたばかりのカンパーニュに触れると温かくて、外側がぱきりと軽い音を立て、中から湯気がふわっと溢れ出す。

「お、ホイップバターじゃん」

怜がそう言って、皿の端に置かれたホイップバターをスプーンに取って、カンパーニュにたっぷりとつけた。

ホイップは空気を含んで軽く、淡いクリーム色をしていて、パンの熱でゆっくり溶けていった。
楓も同じようにして口に運ぶと、小麦の香ばしさと、少し酸味のある生地の香りが鼻に残る。

「…今日はやけに、なんでって聞くね?」
「え…っ」

怜がパンを食べながら、楓を見据えた。
やめて、だから、真っ直ぐに見ないで欲しいのに。


「…楓こそ、なんで?」
「だって、」


だって、牛丼がコスパもタイパも良いって言ってたじゃん。
普段SNSとか流行りとかに疎いくせに、おしゃれなお店を調べて予約して、私が次の日休みだからって、わざわざ連れてきてくれたの?

荷物も、当たり前のように持ってくれたり、歩幅を合わせてくれたり、


「今まで、そんな…っ」


そんなこと、してくれたこと、「お兄ちゃん」の時ですら、なかったじゃん。

いつも私がどこかに出かけようって誘って、怜ちゃんは少しめんどくさそうにしていて、それでも仕方ないって顔で笑っていて。


「…楓?」
「待っ、ちょっと、こっち見ないで」


私、今すごく、顔が熱い。
鏡を見なくても分かるくらい、きっと顔も赤い。
お酒、飲んでないのに。

「…なんで」
「知らな、ちょっ、待って」

変なの、直接的に何かされたわけじゃないのに。
この間の唇に触れられた時だって、こんなふうにならなかったのに。
きっと、桃香さんと藤子さんに、今日変なことを言われたせいだ。


「見せて」


顔を覆っていた手を、怜が取って優しく外した。


「やだ、待って」
「見たい。俺のせいで、顔、赤くしてる楓」


『意地悪されるのが悔しくて、動じたくなくて、なんか、怖くて。』
今日、桃香と藤子にそう言った。

氷がカランと鳴って、蜂蜜の甘さとレモンの爽やかな香りが、ふわりと鼻腔を掠めた。


早く、終わって欲しくて、やめて欲しい。
ドキドキするから。

けれど、その手を、まだ離さないで、欲しい。
ドキドキ、するから。



「見ないで…」


オープンキッチンからはオリーブオイルが弾ける音と、鉄板で焼かれるベーコンの香ばしい匂いが流れてくる。
厨房から漏れるオレンジ色の灯りが、店内の壁にぼんやりと滲んでいた。


怜に掴まれたままの、手も、熱い。


ああ、これが、快感と、熱?