キャラメリゼ ワンルーム

 
 
 
 
 
 
「…はよ…」
「おはよ」

楓が洗面所で歯磨きをしていると、先ほど起こしたばかりの怜が目をこすりながらやってきた。
顔を洗うのだろう、と場所を変わろうとすると、「先いいよ」と怜があくびをしながら促した。

怜は腕を組み、背中をタイルの壁に預けて、楓の手元をぼうっと眺めている。
しゃかしゃか、というブラシが擦れる音が朝の洗面所に響いている。

「なに…」
「いや?なんも」
「視線、感じるんですけど…」

居心地の悪さを感じて、楓が歯磨きを終わらせようと口を濯いでいると、怜が背後でふっと笑った気がした。
それを聞こえないふりをしながら、ついでに跳ねていた前髪を水で濡らす。

「まぁ、気にしてていいよ」

どういう意味。
その言葉は口から出てこなかった。楓は口元を拭いながら洗面所を後にした。











「か、え、で、ちゃーん!その後おにーさんとはどうよ!?」
「……」
「おっ、なんかあった!?」

朝の挨拶の代わりに肩を叩かれ、桃香が元気にそう言った。
定期的に桃香に聞かれるこの言葉にも、最近はうまくかわせなくなってきた。
どうよと言われて、こんなことがありましたとサラッと話すこともできないのに。

「…ちょっともう、よく分かんなくて…」
「えっ、ガチじゃん。ちょっと今日藤子さんとランチ行くから一緒に行こっか」
「藤子さん?今日桃香さんのレッスンいるんですか?」
「いや、いないけど、普通にただのランチ。うちらカフェ友だから」
「カフェ友…」

ウインクをしながらそう言った桃香に、楓はしばらく黙ってから頷いた。
話を聞いてもらうことで、スッキリするかもしれない。
桃香は「まかせて!」と言ってスマホを操作して、藤子に連絡をしていた。








午前のレッスンが終わると、桃香とカフェに向かうと、藤子が先に入って座っていた。
古いビルをリノベーションしたような店内は、木の質感が強く残っていて落ち着いた空気が漂っていた。
炊き立てのご飯と焼き魚の香ばしい匂いがふわりと流れてくる。

「え…?それで何を悩む必要が…?」
「だって…怖くて…」

これまでの話をすると、桃香が目を丸くして言った。
それを見た藤子が、シッと口元で人差し指を押さえて、楓に語りかけた。

「ふふ、最初は楓ちゃんも、驚いていただけだったのよね。それが何度も繰り返されて、だんだん脳が驚きに慣れてきた」
「そう…かもです」

桃香は何かを言いたそうに藤子の顔をチラチラと見ている。
楓が机に突っ伏していると、頼んでいた定食が運ばれてきた。

立地には珍しく、和定食を扱っているカフェだった。
店内には低めのジャズが静かに流れていて、食器の触れ合う音や小さな話し声が心地よく混ざっていた。

「慣れてきて、どう?」
「どうって…意地悪されるのが悔しくて、動じたくなくて、なんか…怖くて」

元の俺の方がいい?と怜が聞いて、無理だと返した。
『無理なの?』とあの時、怜は言った。
それに答えられなかった。答えられなかった自分も怖い。
答えたら、何かが決定的に変わる気がして、でも否定もできなかった。

「ふふ、自分の身体はいつだって正直よ。でもね、」

藤子がそこで言葉を切って、楓を見た。
目の前の皿では焼き鮭の皮がぱりっと音を立てそうなくらい香ばしく焼かれていて、湯気の立つ味噌汁から出汁の香りが漂っていた。

桃香が「いただきまーす」と手を合わせるのを、ぼんやりと目で追っていた。

「驚きに慣れた頃、きっと「快感」と「熱」に変わるのよ」
「わ、何ですかそれ官能的!」

桃香が味噌汁の茶碗から顔を上げて言った。
楓は箸を持ったまま、藤子の言葉に聞き入る。

「触れられたり、じっと見られたりした時に、どう思ったの?」
「…早く、終わって欲しくて…やめて欲しかった…」
「どうして?」
「だって…」


心臓がうるさくて、身体が熱くて。
考えたくないのに、脳内が占拠されてしまうから。


「…どきどき、するから…」


大きな窓から午後の柔らかい光が差し込み、木のテーブルに淡い影を落としている。
壁際には古道具っぽい棚が置かれ、陶器のマグや作家ものらしい器が並んでいた。


「兄」ではなく「男のひと」と見えると言った時、人生最大の、秘密の告白のような気持ちだった。
できれば自分の中で隠し通したかった。一番認めたくなかった。

禁忌だと思って、怖かったのに。それを、震える手で差し出した。
なのに、怜はそれを「ああ、そんなことも分かってなかったんだ、可愛いね」と、撫でるように受け取って笑った。


「お兄さんと思っていた時は、怜さんのこと、好きだったでしょう?」
「それは…もちろん」
「じゃあ今は!?」

桃香が食いつくように、楓に言った。
それが、分からないから、怖いのに。そんな簡単に、聞かないでほしい。
怜ちゃんも、全てを私に言わそうとしないで。分からないのに。

「お兄ちゃんの怜ちゃん」のことは、ずっと好きだった。


「だって、男の人として意識してるんでしょ?お兄ちゃんのこと」

桃香が焼き魚を口に入れながら言った。

「…その二つが、楓ちゃんの中では別の引き出しにあるのね」
「え…」
「だから、混戦してるのよ、頭が」

藤子がそう言って、微笑んだ。
味噌汁の茶碗を持って、両手でこくりと口に運ぶ、その所作までも美しい。
桃香がうんうん、と隣で頷いている。

「今まで信じてきた「兄」っていう記号は、急には捨てられないわよね。だから脳が、止まっちゃってるんじゃないかしら?」
「うんうん、ドキドキって具体的にどんな感じなのか、分析してみなよ」
「分析?」

桃香は楽しそうに、「そうだなー」と考えている。
隣では藤子が上品に白米を口に運んでいた。

「例えば、触れられた時に、離されたくないとか?もっと近くてもいいのにとか?ドキドキじゃなくて、きゃーもうこの人って〜ってキュンってしたり?」
「そんなの…」
「それが、何だっけ?快感と、熱?なんじゃない?」

厨房の奥では出汁を温める匂いが漂っていて、ほんのり鰹節の香りが鼻に残る。
定食に添えられた卵焼きは少し甘めらしく、断面がつやつやと光っていた。

美味しそうな食事なのに、口に運ぶ気分になれない。
頭の中がぐるぐるしていて、急に言われた言葉たちを噛み砕くのに精一杯だ。

ポケットに入れていたスマホが振動して、怜からのメッセージを告げた。
今日は平日で、怜は仕事のはずだ。

【何時に帰るの?】と絵文字もなにも付いていないメッセージが届いて、楓は【絞りの練習をしたいから、二十時くらい】と返した。

すぐに既読が付いて、【駅まで迎えに行くから、着いたら教えて】と返ってきた。
急に、何だろう。

そう思った楓が【いいのに】と返すと【連絡がなかったら二十時ごろに駅に行くから】と返ってきた。

スマホをポケットにしまうと、藤子と桃香がこちらを見て笑っていた。
怜とやりとりしていることがバレたのだろうと気まずい気持ちになった楓が二人を見ると、藤子がにこりと笑って言った。


「自分の身体はいつだって正直よ?」


先ほどと同じ言葉を繰り返し言われ、楓はどう返して良いか分からない。
そんなの、どうしろって言うの。