店内はコンパクトで、奥に二人掛けのテーブルがいくつか並んでいた。
壁は淡いグレーで統一されていて、余計な装飾がない分、皿の上のケーキがやけに映えて見えた。
土曜の午後だけあって、席はほとんど埋まっていた。
「人気だね」
怜が背後からそう言って、楓は意識しないように「そうだね」と頷き、ショーケースを覗いた。
ショーケースを照らす明るいLEDの光が、ガラス越しに楓の瞳に反射している。
中には、季節のフルーツを使ったケーキと、クラシックなものがバランスよく並んでいた。
ああ、このキラキラした宝石みたいなケーキってなんてワクワクするんだろう。頭の中が一気に幸せな気持ちで満ち足りる。
「迷ってるんでしょ」
「分かる?」
「ふっ、そりゃね。どれで迷ってんの」
どれを頼もうか目を凝らしていると、後ろから怜が声をかけた。
店員が「ごゆっくりお選びください」と言って、場所を離れた。
楓は気になるケーキをいくつか指す。
「えっと…うーん、ショートケーキとかガトーショコラとか王道も食べたいんだけど…せっかくならこの変わったやつ…ポティロン・フロマージュ・ノワってやつと…んんー…ポワール・マスカルポーネ・ピスターシュかなぁ」
「ふうん、すいませーん」
怜が店員に向かって手を上げて、まだ何にするか決めていなかった楓は慌ててショーケースに目を向けた。
「えっと…何だっけ。迷ってるやつ」
「…ポティロン・フロマージュ・ノワと、ポワール・マスカルポーネ・ピスターシュ」
「それを二つイートインで、テイクアウトでショートケーキとガトーショコラ?ありますか?」
ショーケースを覗き込んだまま、怜が店員と言葉を交わすのを聞いていた。
怜は楓を見下ろし、「紅茶?コーヒー?何飲む?」と声をかけた。
「紅茶…冷たいの」
「アイスティーとアイスコーヒー、ブラックでお願いします」
そう言いながら怜はレジに向かって歩き出した。財布を出そうとするので、楓は慌てて立ち上がって怜の腕を取った。そんなにたくさん買ってもらって、奢ってもらうのは申し訳ない。
「待って、払うから」
「楓、席取ってて。あそこ、埋まらないうちに」
「だって、」
「いいから、早く行って。俺受け取るから」
手で追い払われるような仕草をして、「カードで」と財布からクレジットを取り出した怜を見ながら、楓は渋々と座席に行った。
椅子に座ると少しだけフカっと沈んで、支払いを終えた怜を待った。
「ケーキ、ドリンクと一緒に席まで持ってきてくれるって。テイクアウトは冷蔵庫で預かっててくれるらしい」
「…私が行きたいって言ったとこなのに。これくらい払えるのに」
「俺が誘ったし。ていうかそういうの今更だから、今後も財布は家に置いてきて」
「…なにそれ…やだよ…」
今まで確かに、どこかに行っても怜が基本的に払ってくれていた。それに「ありがとー」と甘えていたし、財布も出さない時すらあった。
怜が「今更」というのも分かる。
けれど今は、なんか違うじゃん。
「楓は、甘えてればいいの」
それは、今まで通り、「妹」としてでいいの?
脳裏に浮かんだその問いは、何となく口にできなかった。
「…ケーキ、怜ちゃん食べたかったのあったんじゃないの?」
「いや、別に?」
「だって、ここのお店に決めたの怜ちゃんじゃん。何か気になるのがあったのかなって思ったのに」
楓がそういうと、怜はテーブルに肘をつきながら、楓の目をじっと見て言った。
「ああ、そういうこと。ここを選んだ理由はね、家から一番遠かったから」
「…?」
怜の言葉の意味がわからずに、楓は眉間に皺を寄せた。
家から遠かったから?そりゃ確かに、電車で三十分か、とは思ったけれど、それがなんで?
「せっかく出かけたのに、すぐ終わったらつまんないじゃん」
「……えっ」
その言葉を理解するのに少しだけ時間がかかった。
それは、つまり、
「いいデートだったね」
「でっ」
思わず漏れた言葉は、店員の「お待たせいたしました」という言葉にかき消された。四角いテーブルの上に、ケーキとドリンクが優しく置かれる。
目の前のケーキを見ていても、さっきの言葉が耳から離れなかった。
目の前には金の縁取りが入った皿と、店の照明を受けてキラリとグラサージュが光る宝石のようなケーキ。先ほどまでショーケースでは魅力的に輝いていたのに、視線がついグラグラと揺れる。
「楓のケーキ、その難しい名前のやつは何?」
「……かぼちゃと、チーズと、胡桃のケーキ…」
「俺のは?」
「……洋梨と、マスカルポーネと、ピスタチオ……」
「美味そ。いただきまーす」
なんで、そんな普通に振る舞えるの。
なんで、私だけが動揺してるの。
なんで、こんなに恥ずかしくて、顔が熱いの。
目の前の皿に置かれたケーキは、半球型のフォルムに、やわらかなクリーム色のグラサージュがかかっている。
表面には軽くローストされたくるみが散らされ、中心には小さな金箔が一片だけ乗っていた。
構成をしっかり見たくて、どんな味か知りたくて、これを頼んだのに。
絶対今食べても、味を覚えてられない気がする。
「うま。はい、楓も」
目の前のケーキを見つめることしかできない楓に、怜が自分のケーキをフォークに乗せて差し出した。
フォークの上には、白のムースに、淡いグリーンのピスタチオが散らされている。
薄くスライスされた洋梨が乗っていて、キラリと光るのは洋梨のジュレだろうか。
唇の目の前までフォークが突き出されて、怜の意図が伝わる。
今更抗うこともできなくて、楓がおずおずと口を開けると、怜の持つフォークが、楓の唇をわずかに押し上げるようにして口内へ運ばれた。
口の中には洋梨のすっきりとした甘さのあとに、ピスタチオの濃さがじわりと残った。
「美味しい…」
「ね。もっと食べたいでしょ?」
「うん…」
気持ちも頭もぐちゃぐちゃなのに、ケーキだけはとても美味しくて、この状況でもしっかり味わってしまう自分が何だか恥ずかしい。
怜はそれすらも分かっているような顔で、眉を下げた情けない楓の顔を見て、仕方なさそうに笑った。
いつもの、お兄ちゃんの時の顔じゃん。
「はい、真ん中の美味しいとこ」
「……」
楓は無言で口を開けた。先ほどよりも大きく切り分けられたケーキはジュレの割合が多くて、また違った味わいに思えてくる。
さっきまでデートとか言って翻弄させてきてたくせに、急にいつものお兄ちゃんみたいな怜ちゃんになって、ずるい。
「美味い?」
「…美味しい」
何だか餌付けされてるみたい。
そう思ったらこの状況がおかしくなって、思わず笑みがこぼれた。
「…楓の、甘いもの食べて喜んでる顔、見たかった」
「…」
「かわいい」
「っ」
そんなこと、お兄ちゃんの顔のままで言わないで。
そう思って楓がケーキに目を落とすと、怜がコーヒーを飲みながら言った。
「外だと、逃げらんないね?部屋に」
「えっ」
思わず顔を上げると、怜が楽しそうな顔をしていた。
その口元は弧を描いていて、少しだけ首を傾げながら楓を見つめている。
それを、分かってて、誘ったの?
そう思っても、口にできなかった。
今なにかを喋っても、返り討ちに合う気がして、楓は眉を下げながら自分のケーキにフォークを刺した。
外側のフロマージュムースが静かに沈み、中から濃いオレンジ色のかぼちゃクリームと、くるみを練り込んだビスキュイの層が現れる。
このまま、ケーキを食べて、また駅まで歩いて、三十分電車に揺られないといけないの?
どこまでも上手な怜が恨めしくて、ケーキを口に入れながら怜を睨んだ。
口の中でチーズの軽やかな酸味が広がり、かぼちゃのほくっとした甘さと、くるみの香ばしさが重なった。
優しい味で、怜はいつものように優しいのに、それに含まれる意図だけが全然優しくない。
添えられたアイスティーのグラスは、表面に細かな水滴が付き始めており、中の氷がカランと音を立てて小さく揺れた。
「美味い?」
怜が満足げに楓に問いかけた。
楓は何だか悔しくて、顔を歪めながら「美味しい」と言って、怜がまた楽しそうに笑った。



