「お、明太フランスじゃん」
「昨日、パン屋さん行ったから」
昨日買ったパンを、トースターで少しだけリベイクして、出した。
顔を洗ってダイニングテーブルに着いた怜が、皿の上を見て嬉しそうな声を上げた。
「へぇ、どこの?」
「スタジオの近くに新しくできたところだよ。まだオープンしたてみたい」
楓がキッチンからコーヒーメーカーのスイッチを入れて言った。
皿の上には他にもドライトマトとクリームチーズのパン、ノア・レザンをスライスしたものなど、昨日買ったパンを並べてある。
昨日は自分の好みを優先してハード系を多めに買ってしまったが、惣菜パンや菓子パンも豊富だったので、また今度買いに行こう。そう思っていると、明太フランスを口に入れた怜が「うま!」と声を上げた。
「美味しいよね」
「うま、何これ、うま」
「もう一本買って冷凍してあるから、仕事の日のお昼にでも食べて」
「え、ありがと。俺のため?」
コポコポとコーヒーがガラスポットに落ちていく。
底で跳ねるコーヒーの雫が、朝の光を反射して琥珀色に透けている。
楓はその雫を凝視しながら「私も食べるし」と言った。
「楓のと同じくらい美味い」
「それは流石に無いよ」
「え?ほんとだよ」
振り返って怜の顔を見ると、真面目な顔をしていた。
「ありがとう」と小さく返した。
「楓、今日休みって言ってたけど、なんか予定あんの?」
「なにも」
「出かけようよ」
「どこに?」
「楓の行きたいところでいいよ」
てっきりスーパーに買い物かと思っていたらそんなことを言われ、楓は言葉に詰まる。怜は明太フランスにかぶりつきながら言った。
「カフェでも、ケーキ屋でも、パン屋でも、ショッピングでも」
「…何で」
「社会人になったら百名店のケーキ屋とか、沢山回るんだーって言ってなかった?」
「…言ってたけど」
「でしょ?」
それは大学生の頃、社会人になったらもっとお金が使えると思って言っていた話で。
怜ちゃんと出かけたら、全部強引に払ってくれるから、あんまり意味ないんだけれど。
「このトマトのパンも美味いな」
「…」
前も出かけたけれど、それは何も思っていなかったし。
今二人で一緒にどこかに行くっていうのは、なんだか違う意味に思えてしまうんだけど、気にしすぎなのかな。
「前一緒に出かけたときに買った、あのワンピ着てよ」
「…なんでよ」
「え?可愛かったじゃん、似合ってたし。見たい」
「…前、見たじゃん…」
気に入って、もったいなくて、特別なときに着たくて、数回しか着ていなかった。
でも着た姿は、怜は見たことあるはずで。
「俺と出かけるときには、着てないじゃん」
「……何それ…」
コーヒーメーカーの前で、手が止まった。
掠れるような自分の声が微かに漏れた。
きっと背後で落ちる、コーヒーの音よりも小さかった。
リビングでは怜がパンを齧る音が一番大きく響いていて、楓の言葉は聞こえていないらしかった。
「で、どこがいい?秋服でもそろそろ買いに行く?」
あの時は、真夏だった。
いつの間にか九月になっていて、まだまだ気温は高いけれどショップに行ったらきっと秋服が沢山並んでいるはずで、行きたいなと思っていた。
「…ケーキ屋さんにする…」
けれど、あの時と同じように振る舞える気がしない。
だって、今は朝だよ。今から出かけて、一日中怜ちゃんと外で、一緒に過ごすって、どうしていいか分からないもん。
あの時みたいに、また可愛いとか、言われたら。
「オッケー。じゃあ昼過ぎに行くか」
「…うん」
コーヒーメーカーが音を立てた。
楓は慌てて後ろを振り向いて、怜のマグカップを手に取った。
クローゼットにかけたままのワンピースがシワになってないかが、やけに頭の隅に引っ掛かっていた。
「へぇ、初めてこの駅で降りたかも」
「私も」
楓がいくつか気になる店を見せた中で、怜が選んだ場所だった。
電車で三十分ほどかかる場所だった。近くにも候補の店はあったのだが、グルメサイトをしっかり吟味して選んでいたので、怜の中で、何か気になるポイントでもあったのだろう。
改札を出ると、見慣れない街の空気が肌に触れた。
中目黒のざわついた空気とは違って、どこか静かで、少しだけ温度が低いような気がする。
「楓、俺も日傘入れてー」
「い…いけど」
「まだ暑いなー」
怜が自然に楓の日傘を持って、その体温が右肩のすぐ隣に固定された。
楓が差していた時よりも位置が高くなった傘の下では、内側の黒い布地が熱を吸い込んで、二人だけの影を作っていた。
ノースリーブのワンピースは肩が剥き出しで、怜のTシャツに自分の肌が擦れそうだ。
「秋服、買いに行く予定あんの?」
「…ないけど」
「欲しくないの?」
「欲しいよ…」
「じゃあ、今度行く?」
楓の手には、スマホのマップが開かれている。
駅から徒歩十分は歩く必要があるケーキ屋までは、残り八分と表示されていた。
「こないだ、嫌そうだったくせに?」
「え?嫌そうだった?」
「人が多いとか、試着の時に外にいたいとか言ってたでしょ」
「あー、まぁ、それは否定しない」
怜はそう言いながら、楓を見た。
足元のサンダルには、直射日光がじりじりと照り付けている。
歩くたびに、ボリューミーなギャザーフリルがふくらはぎに擦れた。
「でも、楓と出かけたい気持ちの方が勝つ」
「…っ」
スマホを持つ手に、少しだけ力が入った。
九月なのにまだまだ暑くて、今日は朝からニュースで三十五度だと言っていた。
首筋から鎖骨に、汗がたらりと垂れていく。
だから、熱いのは、気温のせい。
「楓の可愛い服、見つけたいし」
「〜っ、休み、合うか分かんないし…っ」
本当は、シフト制って言っても、希望はいくらでも出せる。
他の人と被らなければ、基本的に叶えてもらえる。だから、土日に休むこともできる。でもそれを、今、怜に言いたくはない。
「うん、楓の予定がなかったらでいいよ」
「…わ、かった、よ…」
あ、今、肩が擦れた。
日焼けをしてでも、この狭い日傘から出てしまいたい。
先ほどから目を離せない手元のスマホには、あと五分と表示されていた。
ああ、なんでこんなに駅から距離があるんだ。
「今日のワンピも、かわいい」
人の気も、知らないで。
頬が熱い、身体が熱い、足元が熱い。
どれが太陽によるもので、どれが怜によるものか、頭の中がぐちゃぐちゃで分からない。
「あ、りがと…」
怜は隣で、少しだけ満足そうに笑った。
先ほどよりもスマホの画面を顔から近くして、ただただ真っ直ぐ歩けばいい道を、必死にナビから目を離さないようにして歩いた。
しばらく歩いて、住宅街の中にひっそりと溶け込むように、その店はあった。
「着いた?」
「うん」
楓がスマホのマップで確認して、扉を開けると、小さくベルが鳴る。
自動ドアが閉まると同時に、騒がしいセミの声とアスファルトの熱が遮断され、店内の静謐な空気が肌を包んだ。
外の空気よりも少しひんやりとした店内に、バターと砂糖の甘い香りがふわりと広がった。
早く、私を魅了する、いつもの世界に、引っ張ってほしい。
この熱から、逃れなければ。



