キャラメリゼ ワンルーム

 
 
 
 
 
昨日は咄嗟に逃げてしまった。
朝はできるだけ怜の方を見ないようにして起こして、朝食も先に済ませ、怜が食べている間に家を出てきた。

全部、私がしてきたことって、何。

モヤモヤした気持ちを抱えながら職場までの道を歩いて、昨日の怜の言葉を思い出す。
言葉通りに受け取れば、それは単純な事実だ。

確かに怜に髪の毛を乾かしてもらったり、頭を肩に置いたりしたこともあった。
距離が近かったかはあまり気にしたことがなかったが、思い返すとそんな気もするし、ストローの共有なども気にしたことはなかった。

でも怜に同じことをされた時は、恥ずかしくてたまらなくて。

それは、過去の自分の行動が怜にとってもそうだった可能性があるということで。
何も考えずにしてきたことが、違う意味を持って戻ってきたみたいで、その事実を受け止めきれない。

「楓さん」

後ろから声をかけられて振り返ると、皆川が手を振っていた。
少しだけホッとして、笑顔を向ける。

「おはようございます」
「おはようございます、一緒の電車だったかもしれないですね」
「ふふ、そうかもですね。気づかなかった」

楓が立ち止まると隣にやってきた皆川と、並んでスタジオまで歩く。

「そういえば、前言ってたパン屋、オープンしてますよ」
「えっ、ほんとですか!早い!」
「こないだプレオープンしてたの見かけました」
「えー!行きたい!なんか二号店らしいですね!」

皆川と約束した後、調べて出てきた情報を伝えると、隣を歩く皆川も嬉しそうに頷いた。

「そうなんです、鎌倉の方で大人気だったみたいですね」
「めちゃくちゃ気になりますー」
「今日、行きます?」

皆川がニコリとしながら言った。
今日はちょうど、朝寝坊して弁当を持ってきていなかった。レッスンの空き時間に必ずしないければいけない仕事もないし、それに気になっていたお店なので、ぜひ行きたい。

「行きたいです!でも朝のレッスン終わるの十二時だから、行けるの十二時半とかになっちゃうかも」
「今日は僕、バックヤードなんで何時でもいけますよ」
「本当ですか、ありがとうございます!じゃあ終わったら降りて行きますね!」
「はい、待ってますー」

そんな話をしているうちにスタジオに着いて、一階の皆川と手を振って別れ、楓はエレベーターに乗り込んだ。












「ブーランジュリー・ミカゲ…」
「オーナーが御影《みかげ》 朋子《ともこ》さんって方らしいですよ」

看板を読み上げる楓に、皆川が補足した。

通りに面したそのパン屋は、気づかないと通り過ぎてしまいそうなほど静かに佇んでいた。

白く塗られた外壁に大きなガラス張りの扉。
店内がよく見えて、入りやすい雰囲気を醸し出している。
黒いフレームで区切られた窓の向こうでは、低い木のテーブルに腰掛けた客が、静かにパンを口に運んでいた。

ガラス扉を開けると、空調で管理された涼しい空気と共に、香ばしく焼けた小麦の匂いが一気に押し寄せてくる。
店内の高い天井からは暖色系のスポットライトが落とされ、陳列されたパンの表面に塗られた卵液やバターが、艶やかな光を反射していた。

「たくさんある…!」
「品数すごいですね」

皆川は店内を見渡しながら、楓に声をかけた。

「席空いてますし、せっかくだからここで食べて行きますか?」
「そうですね、飲み物も一緒に食べたいですし」

楓の言葉を聞いて、皆川が席にハンカチを置きにいった。
さらりとパンツの裾から綺麗に畳まれたハンカチが出てきて、楓は思わずそれを凝視してしまう。怜はハンカチを普段持ち歩いているのだろうか。

皆川がこちらに戻ってきて、無意識に考えていた思考を頭から追い出す。
どれにしようか迷いながらパンを選んで、お会計の時には皆川が楓のドリンク代も一緒に払ってくれた。

「すみません、ありがとうございます」
「カフェラテくらい、全然いいですよ」

ドリンクのトレーを持っている皆川が、「奥へどうぞ」と楓を促す。
椅子を引く動作や、トレーを受け取る際の手の動きは無駄がなく、指先まで清潔感が行き届いていた。
それを眺めていると不意に、昨夜の、怜の少し乱れた髪の質感や、重たい体温の記憶が蘇ってしまいそうで、無理やり頭から追い出した。

頭を下げながら席に着くと、皿の上では、リベイクされたバゲットの切り口から白い湯気が立ち昇り、溶け出したカマンベールチーズがパンの気泡にじわりと染み込んでいた。

生ハムの脂が熱で透明に透け、表面に浮き出た細かな塩の粒が光っている。

「つい沢山買ってしまいました…」
「あはは、せっかくですもんね。テイクアウトもたくさん買ったんですね」
「はい、明日の朝と、いくつか冷凍しておこうかと」
「冷凍いいですね、何買ったんですか?」

いただきます、と手を合わせてパンに手を伸ばす。
生ハムとカマンベールサンドにかぶりつきながら、楓は隣に置いたテイクアウトの袋をちらりと見た。

「ドライトマトとクリームチーズ、パン・ド・ミ、パン・コンプレ、ノア・レザンと発酵バターのスコーン、あと…明太フランスを二本かな」
「わぁ沢山。明太フランス二本も買ったんですか、好きなんです?」

この店の情報をSNSで調べていたときに、本店で一番人気だと書かれていた。
だからずっと行きたいと思っていたのだ。
冷凍しておけば、いつでも怜が食べられると思って。

そう思ってから、少しだけ間があった。

「…兄、が…好きで」
「お兄さん?」
「…一緒に住んでて、今」

皆川が「仲良いんですね」と笑いかけるのに、曖昧に楓も笑い返す。
いつもなら、血は繋がっていないと話していた、なんでもないことのように、桃香に初めに話した時のように。


だって、今まで、血が繋がっているかどうかなんて、なんでもないことだったから。


でも今は、それを堂々とは言えなかった。
怜は、今でも「兄」のくくりの中にはいる。でも、そもそも、法律上ではとっくに兄ではない。それは他人から見たら、ただの男女が一緒に住んでいるということで。

——『え…それって、異性じゃん』
ああ、桃香が言っていたのは、そういうことだったんだなと今更気づく。


「美味しいですね」
「ですね。皆川さんは何買ったんですか?それはベーグルサンド?」

皆川が笑顔で、買ったパンを説明してくれているのに、情報がうまく脳に入ってこない。
口の中に残る生ハムとバターの塩気が、うまく飲み込めない。

パンはもちもちとしていて、具材のバランスも完璧で、とても美味しいはずなのに。
ぼうっと皆川の手にあるサンドイッチの、はみ出ている具材を見つめながら曖昧に相槌を打つ。


「お兄さん、喜んでくれるといいですね」
「あ…はい」

何か大事な気持ちの、輪郭が不意に見えそうだった。
でもそこに目を向けたら何かが崩れてしまう気がして、必死に目の前のバケットに集中した。

皆川の話し声が、どこかの音の向こう側へと遠ざかっていく。

店内に漂う小麦の香りが、丁寧に淹れられたコーヒーの色が、手に持っているバケットの手触りが、急にどこか遠くにあるように感じられた。