最近の怜は、いつも通りな時もあると思えば、この間みたいに急に距離を詰めてくる時もあって、そのリズムに楓はついていけない。
しばらくは何となく、怜と同じ時間を過ごすことを避けていた楓だったが、一緒に住んでいる以上全てを避けることもできず、身構えても何も起きないこともあった。
それにいちいち反応してしまう自分も悔しく、何も起きない時に少しだけ構えた自分に拍子抜けしてしまうのも嫌で、あまり考えないようにしていた。
「楓」
風呂から上がったらしい怜が、リビングでテレビを見ていた楓の隣に座った。
頬は赤く、その頭にはバスタオルがかけられている。
「ん?」
「髪、乾かして」
「え?」
「俺の」
そう言って、怜が洗面所から持ってきたらしいドライヤーを、コンセントに繋いだ。
「ん」と渡された白いドライヤーをそのまま受け取ってしまい、楓は怪訝な顔をして怜を見た。
「なんで?」
「いいじゃん、俺今日は出社もしたし、疲れた」
「……だからって」
今までそんなことを頼まれたことはなく、このタイミングで渡されたドライヤーに、変に勘繰ってしまう。
楓の顔を見た怜が、ふっと笑って言った。
「おねがい」
「…向こう、むいてよ」
「ありがと」
お願い、なんて急に、何?
甘えてるの?怜ちゃんがこんなこと言うなんて、今までなかったじゃん。
白いTシャツを着た、自分よりも広い背中を、ソファの上から立ち膝になって見つめた。
ドライヤーのスイッチを入れると、手元の白い機械から轟音と風が吹き出す。
さらりと束になって水分で光っている髪の毛に手を入れると、少しだけひんやりしていた。
手の甲に当たる強風が、熱い。
なにこれ、なんか、変。
何かを言われたわけでも、されたわけでもないのに。
距離がいつもより近く感じてしまうのは、地肌に指先が触れているからだろうか。
それとも、髪の毛に含まれる水分が、指先から纏わりついてくるからだろうか。
指先が怜の地肌をなぞるたび、ドライヤーの温風が指の間をすり抜け、湿った髪の重みが手のひらに伝わる。
怜の短い髪は、楓が指を動かすたびにさらさらと乾いた音を立て始め、それまで肌にまとわりついていた湿気が、熱を帯びた風と共にリビングの空気の中へ消えていった。
「気持ちいい」
くるりと振り返った怜が、そう言って笑った。
最近よく見る意地悪な笑みでもなく、仕方なさそうに眉毛を少し下げる笑みでもなく、ただ純粋に、そう言っただけみたいな顔だった。
「こ、こっち見ないで!前向いてて!」
「はいはい」
怜は少しだけ肩を震わせて笑い、前に向き直った。
少しだけ猫背になっている背中を出来るだけ見ないようにして、手元の感覚だけを頼りにして、髪の毛を乾燥させることだけを考えた。
「終わったよ」
「はや」
「そりゃ、髪の毛短いんだし」
手早く指先を動かした甲斐もあって、自分の髪の毛の半分くらいの時間で乾き切った。そのままコンセントを抜いて、まだ熱を持っているドライヤーを怜の手元に押し付けた。
「ねぇ、またやってよ」
怜がそれを受け取りながら、ソファの上であぐらをかいて、楓を見上げた。
見下ろす姿勢になることなんてほとんどなかっただけに、見上げられた視線を避けるように、咄嗟に楓は「やらない!」と言った。
「えー」
「今日が最後!ほら、ドライヤー戻してきてっ」
「はーい」
やけに素直な返事をした後、怜はソファを降りてドライヤーを手に、リビングを出ていった。
楓はそれに少しだけ息を漏らして、テレビで観ている途中だった映画の画面に目を向けた。リモコンを操作し、場面を少し戻して、ソファに深く座り込んだ。
しばらくして怜がリビングに戻ってきた気配がした。
気にしないようにしていると、キッチンで何やら音がして、手にお茶の入ったコップを持った怜が、楓の隣に座った。
こないだよりも近くない距離に少しだけホッとして、楓は再び画面を見つめた。
「こないだの続き?」
「…違う、その次の映画」
「ハマってんの?最近このシリーズに」
「…うん、見始めたら次のが観たくなっちゃって」
怜は「ふうん」と言って、ソファの背もたれに深くもたれた。
革張りのソファが少しだけ軋んで、楓の身体も微かに揺れた。
何かまた話してくるかと思っていたが、隣で怜も集中して観ているのか、しばらく無言だった。
テレビからはアニメのキャラクターが謎を解くために奔走していて、観たはずなのに覚えていない展開に再び夢中になっていた、頃。
「……」
無言で楓の左肩に、トン、と重みが降りてきた。
ソファが軋むこともなく、静かに、ゆっくりと、肩に怜の頭が降りてきた。
怜の頭の重みが、楓の左肩にある骨をじわりと圧迫する。 乾いたばかりの怜の髪が楓の首筋に触れている。
「な、に…」
「……」
思わず怜の方を見るも、怜はテレビの画面を見つめたまま何も言わない。
楓が動くたびに、肩の重みも微かに動く。
背もたれに体重をかけたまま、先ほど乾かしたばかりの怜の髪の毛から、ふんわりと自分と同じシャンプーの香りがする。それに何だか耐えられなくて、楓もテレビ画面に視線を向けた。
「…寝てるの?」
「寝てない」
「…眠いなら、部屋に戻って寝たら…」
「別に、眠くない」
どく、と心臓の音がする。
「なんで、そんな、」
「んー…甘えてる、楓に」
怜はまっすぐ液晶を見つめながら、「だめ?」と言った。
ああダメなのに、サブスクだから、CMも流れないから、ずっと画面を見てないと、展開が分からなくなってしまうのに。
「ダメっていうか、今まで、そんなこと、しなかったじゃん…」
「してたよ」
怜が短くそう言った。
「え?」
「楓がずっと、俺にしてた」
ずっとテレビ画面を見つめていた怜が、楓の肩に頭を乗せたまま、見上げるように視線を向けた。
テレビの中ではアニメのキャラクターが激しく動いているが、ソファの上の二人の間だけは、時間が止まったように静止している。
「ドライヤーも、こうやって頭預けんのも、飲み物勝手に飲むのも、距離が近いのも」
「な、」
「全部、楓が今まで俺に、してきたことだけど、覚えてない?」
息が、短く溢れていった。
怜は笑っていなかった。
からかわれているわけではないのだと、真面目に言っているのだと分かって、楓は怜から目が逸らせない。
「…今までとは、違う?どう?されて」
怜が、楓を見上げて言った。
テレビの光を反射した怜の濡れた瞳が、瞬きもせずに自分を見上げていた。
そんなこと、だって、今までは、何も意識してなかったから。
そんな言葉が頭によぎって、短い息が漏れた。
意識してる、から?
今は、私、怜ちゃんを、意識してるってこと?
言葉の意味が、じわりと胸に落ちてきて、視線が泳ぐ。
心臓が、先ほどよりもどくどくと早く血液を押し出している。
「楓」
怜に名前を呼ばれて、我に返る。
これ以上、怜のそばにいたらよくない気がする。
そんな気持ちが湧き上がってきて、楓は勢いよくソファから立ち上がった。
「うおっ」
「寝る!」
楓が急に立ち上がったことで、バランスを崩したらしい怜が背後でソファにぶつかる音がした。けれどそんなこと、気にしている場合ではない。
「楓」
「なっ、名前、呼ばないでー!!」
再度呼ばれた自分の名前が、いつもとは違って聞こえるのはなんでだろう。
これ以上何も考えたくはない。そんな考えが頭を支配して、訳もわからず口から言葉が出ていた。
そのまま小走りでリビングを出て、自分の部屋に戻った。
バタン、と木製のドアが閉まる音がして、そのままずるずるとその場にしゃがみ込む。
暗い自室には、外の街灯の光がカーテンの隙間から細く差し込み、フローリングの床を冷たく照らしている。
静かな部屋に、自分の吐息だけがこぼれていた。



