じりじりと、少しずつ、距離を詰められている気がする。
あれから、怜は驚くほどいつも通りで。
顔に出ないと本人も言っていたし、そういうタイプであることは楓も知っているが、あれだけのことを言ったとは思えない。
「映画でも観ようかな…」
休みの日、平日だったが予定がなかったので家で過ごしていた。
パンかお菓子でも作ろうと思ったが、なんとなく手が動かなくて、リビングのソファでテレビ番組をザッピングしていた。
リモコンを切り替えて、怜が入っているサブスクの中にあった、アニメ映画を選択する。この間、観ようと思っていたのに怜のせいで何も頭に入ってこなかったものだ。
怜は仕事で、会議が多い日なのか部屋からは何やら話し声が聞こえてくる。
ボタンを押して再生すると、オープニングが流れてきて、楓はソファに座り直す。
しばらく観て、ようやく物語が動き出そうとしたところで、リビングのドアが開く音がした。
「楓」
ああ、せっかく後ろを振り返らないようにしていたのに。
背後から聞こえた声が耳に届くと、それだけで動揺する。
「…仕事は…?」
「休憩。あー疲れた」
怜がそう言いながら、ソファに勢いよく座った。
隣に座った怜の重みで、ソファのクッションが緩やかに傾斜を作る。
楓の身体は抗いようもなく怜の方へとわずかに引き寄せられ、座面の皮が擦れる乾いた音が静かなリビングに響いた。
怜のグレーのパーカーの袖口が、楓の膝に触れそうな距離で止まっている。
「…近いよ」
「近い?そう?」
「…近いでしょ…」
怜が座った場所は、楓のすぐ隣で、肩が今にも触れそうだ。
いつも怜が羽織っている、グレーのパーカーからはふわりと柔軟剤が香る。
楓は思わず、床に下ろしていた足をソファに引き上げて、抱えるようにして座った。
膝の間に顔を埋めて、サイドに流れる髪の毛で視界を狭める。
「嫌なら離れてもいいよ?」
左側から怜の声が飛んでくる。
画面に集中しようと必死に目の前の液晶を見つめるのに、映画のセリフが頭に入ってこない。
「…いやとかじゃ、ないけど…」
絞り出すような自分の声が、画面の向こうのセリフに紛れて耳に届く。
怜の「ありがと」という声が隣から聞こえた。どんな顔をしているのかは分からない。
「これ、こないだテレビでやってたやつ?」
「…そうだよ…ちゃんと観れなかったし」
「…俺のせい?」
必死にストーリーに頭を戻そうとしているのに、急にそんなことを言うものだから、楓は思わず隣を見る。
想像通り、怜はなんてことない顔をして楓をじっと見つめていた。
「そうだよ…やっぱ私、部屋に」
戻ろうかな。その言葉を言い終わる前だった。
膝を抱えていた手を離し、片足を床へ下ろした。右足の裏がフローリングの冷たい感触を捉えた直後。
怜の手が楓の手の甲に重なった。
まるで楓がそうするのを、分かっていたかのようだった。
上に重ねられただけなのに、この間みたいに引っ張られたわけではないのに、身体がまた固まる。
「まだいいじゃん。一緒に観ようよ」
「……っ」
何も言えなくて楓がそろりと足をまた戻すと、怜は手を離した。
数秒、重なっていただけなのに。
楓はしばらく画面を必死に観ていた。
けれど左隣の、触れそうで触れない肩がなぜだか熱くて、二回目のはずなのに、何にも内容が頭に入ってこなかった。
怜が時計を見て「また会議だ」と立ち上がるまでその時間が続いた。
きっとそれは十五分程度の短い時間だったのにも関わらず、倍以上の時間が経過したかのようだった。
怜が家にいると、集中できない。
そう思った楓は、簡単に出かける準備をして家を出た。
昼食を一緒にとることはなんとなく避けたくて、楓は十五時過ぎに家に戻った。
避けていることが分かっているのか、怜はそれに何も言わない。
なんとなく甘いものが摂取したくなった楓が、フラペチーノをテイクアウトして帰ると、ちょうど怜がキッチンでコーヒーを淹れているところだった。
「おかえり」
「ただいま…」
「どこ行ってたの?」
「ちょっと、散歩とか…」
怜は「ふうん」と言いながら自分のマグカップにコーヒーを注いだ。
コーヒーメーカーで落とされたばかりのコーヒーがマグカップに注がれ、湯気と共に苦い香りがキッチンを満たしていく。
窓から差し込む昼下がりの光が、シンクに並んだ透明なタッパーの縁を白く光らせていた。
「怜ちゃん、今お昼食べたの…?」
「そー、時間とれなくて、今日」
「おつかれさま…」
怜は「ありがと」と言いながらシンクでタッパーを洗い流す。
その手元にモコモコとした白い泡が溢れていくのを何となくぼうっと見つめていると、食器とタッパーを洗い終えた怜が、楓を見てふっと笑った。
「なに突っ立ってんの?」
「何も…」
そんなに忙しいなら、作り置きを温めるんじゃなくて、ちゃんとしたご飯を作って持っていってあげればよかった。
自分の意地だけで動いてしまったことに少しだけ罪悪感を感じていると、怜が手を拭きながら、楓の手に持ったままのドリンクを見た。
「スタバ寄ってきたの?何買ったの?」
「限定の…ほうじ茶のフラペチーノ」
「ふうん」
怜が一歩前に進んで、緑色のストローを口に咥えた。
「なっ」
怜の指が、カップの底を支えるように添えられる。
ストローを吸い上げる小さな音が耳元で鳴り、プラスチックの容器の中で、薄いベージュの氷の粒がカラカラと崩れた。
楓の指先には、冷たい結露の湿り気と、怜の手の甲から伝わる確かな熱が同時に押し寄せている。
「うまい」
先ほどよりも水位が減ったカップから、結露した水がぽたりと床に垂れた。
ストローを共有しただけで動揺する、私がおかしいのだろうか。
「ありがと。ごちそうさま」
怜の顔を見上げると、ぺろりと唇を舐めて、口の端を上げた。
見下ろすように少し伏し目がちになった瞳からは、あの時みたいな意地悪な光が宿っている。
「…わざと?」
「なんのこと?」
ぽつりと漏れた楓の言葉に、楽しそうに怜は返事をした。
怜はそのまま機嫌が良さそうに楓の隣をすり抜けて、リビングを出て行った。
絶対にわざとじゃん。
そう思うも、こんな中学生みたいなことで動揺してしまう自分も悔しくて、かといってストローをわざわざ変えたり洗ったりするのも悔しかった。
それでもなんとなく口にできなくて、リビングのローテーブルの上にカップを少し雑に置いた。放置されたカップの表面には、室温との差で細かな水滴がびっしりと付き始めている。
中の細かい氷が溶けて、テーブルに結露の水たまりができるまで、それに口をつけることはできなかった。



