キャラメリゼ ワンルーム

 
 
 
 
 
 
昨日は、何が起こったんだっけ。

むくりと身体を起こすと、まだ部屋は薄暗かった。
手元にあったスマホで時刻を確認すると、目覚ましを設定している時間より三十分も前だった。
すっかり目が冴えてしまったし、このまま起きてしまおうとベッドから立ち上がる。

部屋を出ると、廊下はシーンとしていて暗かった。
まだ、世界の誰も起きていないみたいだ。
怜の部屋の方すらなんとなく見られなくて、音を立てないように準備をした。
今日は土曜日なので、怜は仕事は休みだし、ゆっくり寝ててもらうことにしよう。

朝食を済ませ、怜の分も用意してラップをかけておく。
今日は卵焼きとウインナーと、トーストだ。
まだ薄暗いキッチンでは、冷蔵庫の低い駆動音だけが響いている。
ラップの表面には、小さな水滴が白く曇って付着していた。

自分の部屋に戻って着替え、部屋を出ようとした瞬間、奥の部屋のドアが開く音がした。

「…んー…かえで…なんで起こしてくんねーの…」
「れっ」

思わず口からこぼれたのはいつもより大きめの声だった。

「…もう出んの…?はやくね…?」

そう言いながら寝ぼけた様子で目をこすりながら部屋から出てきた怜が、楓の部屋の前で立ち止まった。
あれ、怜ちゃんって、こんなに背が高かったっけ。そんなことをふと思ってしまった。

「かえで?」

怜の言葉にハッとして、咄嗟に視線を落とす。

「はっ、早く行かなきゃなの、今日はっ!」

なんだか顔が見られない。
楓はするりと目の前に立つ怜の横をすり抜けて、玄関に向かった。
できるだけ足元だけを見て、勢いよく外に出た。
背後で、ガチャンと重い音がして、いつの間にか止めていた息をようやく吸えた。

え?私、昨日怜ちゃんに、なんかとんでもないこと言われたよね?
なんであんなにいつも通りなの?

そんな気持ちを抱えながら、なんとなく早足で駅に向かった。
幸いにも今日はやることが多い。怜のことは一旦考えずに、仕事に集中しよう。







そう、思ったのに。

玄関のドアを開け、小さな声で「ただいま」と呟いた。

もっと遅くまで残っていたかったのに、健太郎に帰りなと言われ、渋々スタジオを後にした。レッスンは問題なく終えられたが、進めようと思っていたデスクワークは散々だ。

少しでも座って頭を使おうとすると怜のことを思い返してしまい、仕事はあまり進まなかった。

先ほどスマホの時計を見ると、もう二十一時に差し掛かっていた。
流石に怜も、夕飯は済ませただろう。
そう思いながら着替えてリビングのドアをそろりと開けると、怜の姿はなかった。

「なんだ…」

廊下を通る時に見えた怜の部屋のドアは少し開いていて、電気はついていなかった。
つけっぱなしのテレビが美味しそうなグルメを映し出していて、そろりとソファの覗くと、穏やかに寝息を立てる怜が横になっていた。

「…こっちの気も知らないで…」

今日は土曜日で、休みの怜が寝ていたって何も問題はないのだが、自分の今日一日の身の入らなさをつい、怜のせいにしてしまう。

ハーフパンツを履いて寝ている怜の足元が少しだけ寒そうで、縮こまるようにして眠っている怜に、ブランケットをかけた。


昨日のは、どういう意味だったの。


楓はフローリングに両膝をつき、ソファの座面と同じ高さに顔を寄せた。
怜の寝息に合わせて、ブランケットの表面がわずかに上下している。
テレビの画面から放たれる青白い光が、規則的に怜の頬の輪郭をなぞり、楓の影がその胸元に長く落ちていた。

ここ最近、怜を避けていただけに顔をじっくりと見たのは久しぶりで、しばらく見つめていると、怜の目がうっすらと開いた。

「っ」

咄嗟に逃げようと身体が反応する前に、ソファに置いていた左手が握られた。

「おかえり…」
「お、きてたの」
「いや…かえでの気配がして」

何度か瞬きをした怜がちらりと楓の顔を見た。
じりじりと身体を後退させていた楓の手が、いきなり引かれた。
胸元がソファの硬い縁に当たって、クッションがぎゅっと音を立てた。

「ひゃっ」

怜の顔はすぐ目の前にあり、シャツから漂う柔軟剤の匂いと、寝起きの少し熱を持った体温が混ざり合っている。
息を、どこに吐けばいいか分からなかった。

「あ、ごめん強かった」

怜がそう言って、寝転んだ姿勢のまま、反対の手で楓の頭をふわりと撫でた。

「おかえり」
「な、んで…そんないつも通りなの?」
「え?」

怜の声も顔も、手の温度もいつもと同じで。
今日一日仕事が手につかなくて、目も合わせられない自分が馬鹿みたいじゃないか。

「からかってるの?なんで昨日、あんなこと…」

楓の言葉に、頭を撫でる動作が止んで、握られていた手に力がこもった。

「冗談で言うかよ。いつも通りなのは…俺にとっては今更っていうか…」
「え?」
「…まぁ、顔に出ないタイプってだけだよ」

怜の言葉に、楓は思わず声を荒げる。

「嘘、昨日なんかすごい楽しそうで意地悪だったじゃん!」
「ほんと?俺、楽しそうだった?」
「そうだよ!あの時、最初はなんで?って理由分からないみたいな聞き方してたくせに、後から本当は分かってたみたいなこと言って…」

なんで?なんで?と理由を執拗に聞いていたくせに、想像していた言葉と違った、と怜は笑った。分かっていたなら、なんで。

「楓の口から言わせたかったから。俺のこと、男に見えるんでしょ?」
「っ、もう!それはいい!」
「よくねーよ。ちゃんと男として見て、意識してって言ったじゃん」

怜の言葉に何も言い返せなくなって、楓は黙る。
テレビから聞こえる笑い声が、いつの間にか切り替わってドラマのセリフが流れていた。

「…意味わかんないよ…」

絞り出すように小さな声が漏れた。
楓の言葉に、怜は目を少しだけ細めた。

「いいよ、楓はそのままで。今は分かってなくてもいい」
「……」

昔も同じような言葉を、怜は言ってくれていた。
けれどその時とは違って、今はうまく受け止められない。

「何も変わんなくていいけど、俺が言ったことは覚えておいて」

怜がそう言って、楓の頭を大きく、少し強く撫でた。
髪の毛が沈んで、頭皮に温もりが伝わる。

怜が身体を起こして、握られていた手がゆっくりと離された。
握られていた手のひらだけが、空調の風にさらされて急激に冷えていく。

怜は乱れた前髪を無造作にかき上げ、視線を逸らさずに楓を見下ろした。

「楓」
「…なに?」

ふ、と怜が口元を緩めながら言った。


「かわいい」
「っは!?」


思わず大きな声が出た楓を見て、怜がクツクツと楽しそうに笑った。
昨日、ここからだよ、と怜が言った言葉が、脳裏によぎる。

ここから、何が始まるんだろう。
なんだかとても、大変な気がする。