キャラメリゼ ワンルーム

 
 
 
 
 
「楓」

怜がゆっくりと名前を呼んだ。
それだけで、背筋が少しだけ伸びて、手汗がじんわりと滲んだ。

「ご、ごめん、家を出ようかなって言うのは、咄嗟に、なんか、言っちゃって」
「なにそれ?要するに俺から離れたいってことでしょ」

そうです、そうなんですけど怜ちゃんが思ってる文脈とはちょっと違うっていうか。
身体の左側にあるソファの肘掛けに手をかけた。

怜が片膝をソファの座面に乗せると、クッションが深く沈み込み、ギシりとバネの軋む音が響く。四つん這いになった怜の広い肩幅が、テレビの明かりを遮り、楓の視界を暗く覆う。
どこを見ていいのか分からなくて、焦点が定まらない。
咄嗟に手に持ったクッションを身体の前で抱きしめた。

だって、言えないんだもん、どうしたって。

「…俺はこの二ヶ月、結構楽しかったけど」
「……それは…」
「昔みたいでさ。けどまぁ、楓がそれを不快だったり負担だったりしたなら…」
「それは…違うもん」

怜ちゃんと離れたいわけじゃない。
私だって、一緒に住んで楽しかった。

だけど、兄妹なのに。
法律上はもう兄妹じゃ無いのに、一人がそう思わなくなったら、どうしたらいいんだろう。

「違うの?」
「違うよ…私だって毎日楽しいよ」
「じゃあなんで」

怜の追求は止まない。いつもなら、楓が困っていたら途中でも許してくれることが多かった。仕方ないな、もういいよって、くしゃりと笑って終わらせてくれていたのに。

「だって…理由言ったら、怜ちゃん、私のこと嫌になるもん…」
「なんで?ならないだろ」

理由を聞く前から断言するような口ぶりに、楓は思わずクッションから顔をあげる。
怜は正座のような姿勢で、ソファの上で楓に身体を向けていた。

怜との距離は、手を伸ばせば互いの頬に触れられるほど近い。リビングにある壁掛け時計の秒針が刻む音が、静かになった部屋で規則的に響いている。


そうだよ、私だって、怜ちゃんはずっと私を妹として可愛がってくれていると信じて疑っていなくて、だから思い切りわがままも言えたし甘えることができたんだ。

でも、それは、

「妹、じゃ、なくなっちゃうもん…」
「どういうこと?」
「妹じゃなくなったら、もう怜ちゃんとは一緒にいられないじゃん…」

ぽつりと漏れた声が、クッションに少しだけこもって、テレビの音より小さく耳に届いた。

握りしめたクッションに力が入った。
視界の端で、自分の指先が白く潰れているのが見える。

「…楓。俺がお前に優しくするのは、妹だからだと思ってる?」
「え?」

しばらく黙っていた怜が、低い声で静かにそう言って、楓は目線を上げた。

「じゃあ聞くけど。初めて会った時は兄妹ですらなかったじゃん。そっから三年間、親が恋人同士だからって理由で定期的に会い続けてた時も、兄妹じゃなかった」
「…うん…」
「その時は、楓は嫌々会ってたの?俺と」
「そんなわけないじゃん…」

怜にそう言われて、楓は抱きしめているクッションに力を込めた。
難しい問題を噛み砕いて教えてくれている時のように、考えながら言葉を紡いでくれているのが伝わる。

「それから親が再婚して兄妹になって、離婚してまた兄妹じゃなくなった。楓の気持ちは、兄妹か兄妹じゃないかで、違うの?」
「違わないよ…会ってたのも楽しかったからだし、怜ちゃんが好きだからじゃん…」
「うん、でしょ?俺も同じ」

怜がゆっくり言って、楓のクッションを優しくどかした。
急に心許なくなって、温もりが消えて、視線が彷徨う。

「だから、嫌わないから。妹じゃなくなったって、一緒」
「…うん…」
「だから、ちゃんと言ってみな」

怜の声が、身体の血液に巡りわたるように溶けていく。
口の中の唾を飲み込むと、ごくりと頭に音が響いた。


「…れ、怜ちゃんが、最近、男のひとに見える」
「……」
「へ、変だから、距離、置いてた」


ああ、変な感情なんてないと藤子さんに言われたばかりなのに。
でもまだ、それを探り当てられるほど、自分の気持ちが明確になっていない。


「…意識してるってこと?俺のこと」


怜が少し首を傾げながらそう言って、その言葉が怜の口から発せられたことに動揺して、またしても脳みそを通らない言葉たちが口からついて出る。

「いっ、意識というか何というか、わかんないけど前みたいに気軽になんかくっついたり甘えたりできないっていうか、今まで男のひとって思ったことなかったのにっ、なんか最近やけに怜ちゃんが近いなって思うっていうか、」
「ふっ」
「な、なんで笑うのっ」

怜が鼻で笑ったような気がして、恥ずかしさも余って思わず大きな声が出る。
さっきまでずっと楓を見つめていた怜が、顔をソファの方に逸らして肩を震わせた。


「やけに近いっていうか、まぁ近くしてたし」
「……え?」
「楓が俺のこと、意識したらいいなと思って」
「…な、…え?」
「意識してるって言うかと思ったら、ようやく男の人に見えるって、可愛くて」


口元を緩めながら、笑いを堪えきれないみたいな顔をしながら、怜は楓にもう一歩近づいた。
これ以上後ろに下がろうとしても、背中にはソファの肘掛けが当たっており、楓の体はクッションの角に押し付けられている。

「ちょ、怜ちゃ、」

少しずつ距離を詰める怜に、身体が少し反る。
膝を抱えていた手をお尻の横につくと、怜がそのすぐ近くに自分の手を置いた。


「いいよ、いっぱい意識しな?ちゃんと俺のこと、男って思って」
「な、なにを」
「大丈夫、嫌いになんてならないから」


その口元は、優しく弧を描いている。
縮こまる楓を見下ろすようにしている伏し目が、少しだけ意地悪な光を宿している。
真ん中で分けている髪の毛が、重力に従って垂れている。


「そんでそれが、「変」じゃなくて何て言うのか、考えな」


怜ちゃんまで、藤子さんみたいなこと言うの。
ああもう、頭がパンクしそうで限界だ。
心臓がさっきから張り裂けそうなくらいバクバクうるさくて、浅く息が漏れている。
さっきまで夢中で気づかなかった自分の身体が、いつもと違って苦しい。


「怜ちゃ、ん」

怜は楓の顔を見て、ふっと息を漏らすように笑った。
いつもの仕方ないみたいな笑みじゃなくて、くつりと、まるで獲物を狙うような。


「ここからだよ、楓」
「な、にが…」

自分が発した声が、かすれていた。


「さぁ、それは楓が考えて」


こんな怜ちゃん、知らない。


耐えきれなくなって顔を思わず覆うと、やっと息が深く吸えた。
手のひらの隙間から溢れる二酸化炭素は、荒く途切れている。

怜が「おやすみ」と言った。
とても顔を上げられなくて、楓は顔を隠したまま、コクコクと頷いた。

それをまた見て、また笑って、怜は静かにリビングを出ていった。
しばらくしてやっとテレビの音が耳に届くようになっても、楓の息は荒いままだった。