キャラメリゼ ワンルーム

 
 
 
 
 
 
 
 
 
「楓、前言ってた映画、始まるよ」
「あぇっ、う、うん」

金曜日、風呂から上がった怜がテレビを指差して言った。
咄嗟に変な声が漏れた。そうだった、と楓は思い出す。
そうだった、先日夕飯時に、好きなアニメの映画がテレビでやるんだと、観たいんだと話してしまっていた。

「怜ちゃんも観るの?」
「うん、観る。お茶飲む?」
「だいじょう、ぶ」

怜は「オッケー」と軽い調子で返しながら、グラスにお茶を注いだ。
楓がソファの端にちょこんと腰掛けると、怜はグラスを片手にやってきて、楓に視線を向けて笑った。

「なんでそんな端っこいんの?」
「あ、足伸ばすからっ、こっちに」
「ふーん?」

昨日のことがあってから、怜にどう接していいかよく分からない。

「兄」ではなく「男のひと」と見てしまうということを自覚してしまった。
今まで、男だとか自分が女だとか、そういう意識は全くなくて、怜は「兄」というよりも「怜」という存在だった。


だからこそ、過剰に反応してしまう。
変化についていけない。
「妹」でいられないかもしれない、と思うと怖くて、動揺してしまう。


楓はソファの端から中央に向けて足を伸ばし、首を反るようにしてテレビを見つめた。腰に違和感を覚える姿勢になってしまったが、言い出した手前、今更姿勢を変えられない。

テレビではロードショーのオープニングが流れている。
せっかく、怜と長時間一緒にいないように気をつけていたのに。
でも映画が流れるなら、話さなくても良いわけだし、それはそれで都合がいいかもしれない。

そう思いながら、楓は腰を捻りながらテレビの画面を見つめた。
提供の画面になり、CMが流れ始めると、怜は楓を見て言った。

「…体勢、変じゃね?」
「大丈夫っ」
「腰、つらくない?」
「つらくないっ」
「なんでそんなにCMをガン見してんの?」
「好きな女優さんだからっ」

消費者金融のCMをじっと見ていたら、そりゃ不信感も持たれるだろう。
ああ、咄嗟に変なことばかり口走ってしまう。
それも全部、こないだ藤子さんと話して、怜ちゃんが男の人に見えるって認めてしまってからだ。

「…楓さぁ」
「な、なにっ」
「…最近、俺のこと避けてない?」
「っっ」

怜の言葉に、思わずテレビ画面から目を離して視線を向けてしまう。
真っ直ぐに自分を射抜くような視線に、再び目を逸らす。

「ほら、なんで目逸らすの。なんか怒ってる?」
「怒ってない…っ」
「じゃあこっち見て。ちゃんと目見て話せって、いつも千夏さんも言ってただろ」
「そっ」

今そんな、お母さんの名前を出すなんてずるいじゃん。
保護者モードの口調で言われると、それに抗ってはいけないような気がして、楓は渋々怜を見た。

「なんかした?俺」
「…なんにも」

怜がなんかしたと言えば、楓の中では「した」になる。
けれどきっと怜は何も意識していないことで、自分が勝手に怜に「男のひと」を感じてしまっているだけなので、それを言うことはできない。

「嘘。楓がそうやって目を合わせず避ける時は、絶対なんか気持ち隠してんだよ」
「なにそれ…」
「再婚したての時も、学校に馴染めなかった時も、進路に悩んでた時も、離婚するかもってなった時もそうだった」
「…っ」


もう、十年も一緒にいるんだ。
そんな昔から知ってるって、当然って顔で、私のこと見ないで。


「なに?心当たりないんだけど」
「ちょっ、」

ソファがぎしりと音を立てて、怜が一歩近づいた。
ソファの布地は怜が座るたびに硬い擦れる音を立て、二人の間には座布団一枚分の空きがある。

「楓」
「待って、来ないでっ」
「なに?近づかれるのも嫌なの?」
「違うけど、」

誰も注目していないテレビでは、アニメのオープニングが流れている。
冒頭のお決まりのセリフが耳に届いては会話が繰り広げられていく。
興行収入が歴代三位とかで、楽しみにしていたのに到底そちらに視線を向けることはできない。

「怒ってんなら仲直りしたいから」
「本当に、怒ってないの、なんでもないのっ」
「なんでもなくないだろ」

ああもう、こんなの、私たちは、兄妹なのに。
私は、怜ちゃんの前では妹でないといけないのに。


男のひとに見えてしまうなんて言ったら、きっともう、妹として接してもらえない。


その思いが脳内を占めて、怜からとにかく逃げたくて、楓は咄嗟に、頭の片隅にあった考えをそのまま口に出す。


「じ、実家っ、戻ろうかなって迷ってて!」
「…なんで?」

怜は静かに首を傾げ、楓を見据えた。
やばい、こんなこと、まだちょっと頭に浮かんだだけで、何も具体的なことは考えてなかったのに。

楓は無意識に喉を上下させ、唾を飲み込む。膝の上の部屋着を何度もぎゅっと握り直す自分の指先が、視界の端に入る。


「ほら、ちょっと、仕事忙しいし、最近」
「忙しいならここ住んでたほうが近くていいじゃん」

それはそうだ。
咄嗟に思い浮かんだ言い訳をあっさり論破されてしまい、楓の目線は泳ぐ。

「ほら、やっぱり怜ちゃんに頼りっきりだとさ、自立した方がいいかなって」
「そんなに言うならお金入れてもいいけど。でも実家に戻るなら自立ではなくない?」

それもそうだ。
ああ、なんで咄嗟に実家とか言ってしまったんだ、せめて一人暮らしとか言えば良かったのに。

「いや、えっと、こないだおばあちゃん達に会って恋しくなったっていうかっ」
「…それが何で頻繁に帰省じゃなくて家を出る話になる?」

それはその通りだ。
どうしよう、コンサルの怜ちゃんに私が咄嗟に考えた理由なんて太刀打ちできるはずないのに。


「ほら、あの、えっと」
「楓」


ふう、とため息をついた怜が、ぎしりとソファを移動した。
ソファのクッションが怜の体重で深く沈み込む。

楓は背もたれの角に肩を押し付け、これ以上後ろには下がれない。
いつもより低い声で名前を呼ばれて、楓の身体は固まる。

テレビではアニメの本編がすっかり始まっている。
賑やかなキャラクターの声が、日常をほっこりとした会話を繰り広げている。


「こっち見て」


その声に逆らえなくて、ゆっくりと怜を見た。
息を、吸うのを忘れていた。

下から少し見上げるような角度で、怜の視線がまっすぐに楓を捉えていた。

いつの間にか距離がすっかりなくなっていた。
膝を抱えていた自分の足は知らない間に解けていて、二人の膝と膝が、ハーフパンツ越しにわずかに触れている。

手を伸ばしたら、顔に触れられそうな近さだった。


どうしよう、もう、逃げられないかも。