ここ数日、藤子と話したことが頭によぎって、上手く怜と接することができていない気がする。
幸いにも仕事は忙しく、九月に入ってその復習、十月のレッスンも決まったためその予習とすることも無心になれることも沢山あったので、早めに仕事に行くこともあった。
自分の支度を終えたら、怜の朝食だけ用意して、いつもより少し遅く起こして、自分は先に家を出る。
元々怜はフレックスで時間は何時でもいいはずだし、と言い訳しながら、自分は先に家を出た。怜は何も言ってこなかった。
朝に作っておいたおかずと、夜は手早く調理も済ませて、楓は「試作とかレッスンの予習でお腹がいっぱいだから」と言って一緒の食卓につくことを避けた。
あまりいい状態とは自分でも思っていなかった。
怜は何も言ってこなかったが、明らかに不思議そうな顔はしていたし、長く続けられるとも思っていない。
早めに風呂に入って逃げてきた自室で、楓はベッドの上に転がりながらクッションを抱きしめる。
「一緒に住まない方が良かったな…」
怜の家に強引に転がり込んで、二ヶ月が経っていた。
今まで十年間、兄として問題なく接することができていたのに、一緒に住んでたった二ヶ月で自分の気持ちが変わるとは思っていなかった。
過去に一緒に住んだことがあるからと言って、その時と同じではないんだと思い知らされた。
電気が消えた部屋では、時計の音だけが響いている。
自分と一緒に動く布団だけが時たま、ガサリと擦れた音を立てる。
明日も仕事なのに、なんだか寝付けない。
スマホの画面を見ると、暗い部屋に煌々と画面を照らした。
時刻は二十四時になっていて、楓は少しだけため息を漏らして、ベッドから起き上がった。
お茶を飲もうと廊下に出ると、怜の部屋から電気が漏れていた。
楓はそれに安心して、リビングに向かった。
「れっ」
「まだ寝てなかったの?」
リビングに行くと、キッチンの小さいライトだけが点けられていて、怜がお茶を飲んでいた。
思わず声を上げてしまった楓を見て、怜が静かに言った。
「お茶、を飲もうと思って…」
「ふうん、入れたげるよ」
「いや、やっぱ、戻ろうかな」
怜が楓の言葉に、ちらりと視線を向けた。
手に持っていたグラスをコトン、と置いて、楓の方にゆっくりと近づいた。
「なんで戻んの。ちゃんと水分は取りな」
怜は楓の手首をそっと掴んで、キッチンに足を進めた。
引っ張られるような形になり、手首を先頭に足も一緒に動いていく。
数歩で辿り着いたキッチンは小さな棚下灯がシンク周りを照らしていた。
リビング側は暗く、その光の届く範囲だけが明るかった。
「俺が使ったコップでいい?」
「…うん」
今まで、多分こんなことを気にしたことはなかった。
怜が飲んだ飲み物を、ストローだろうがペットボトルだろうが気にせずに飲んでいたし、昔だって、リビングで二人で夜喋ったり、大学生の怜が父の車を借りて、一緒にラーメンを食べに行ったこともあった。
夜に、二人っきりなんか、今更だ。
それが少し暗いリビングだからって、何も気にしたことなんかなかったのに。
「氷は?」
「大丈夫…」
怜は「ふうん」と言って、楓にコップを手渡した。
お茶が注がれたコップは、薄暗いリビングではいつもより液体の色が濃く見える。
髪の毛をくしゃりとかき上げて欠伸をする怜は、別にいつも通りなのに。
ふわりと香るシャンプーも、服から微かに漂う柔軟剤も、全部自分と一緒なのに。
その目元が軽く細められるだけで、直視できないような気持ちになるのはどうしてだろう。
男の人として意識するだけで、こうも怜の見え方が違うのか。
「…仕事、してたの?」
「うん。休憩にお茶飲みに来た」
「そっか…」
コップに口をつけて傾けると、冷蔵庫で冷やされた麦茶が口内に冷たく広がっては喉に流れていく。
怜は冷蔵庫にもたれていて、楓がお茶をちびちびと飲むのをじっと見ていた。
「…なんで見るの」
「別に。なんとなく」
「…見ないでよ」
「なんで」
少し上から降りてくる視線に気まずさを感じて楓がそう言うと、怜は不満げだった。いつもなら少し笑って流してくれそうなのに、楓のすることをあまり気にしていなさそうなのに、今日はキッチンにわざわざ手を引いて連れてきたりと、少しだけ違和感がある。
「じっと見られたら恥ずかしいじゃん」
「…へえ、恥ずかしいの?」
怜が少し笑ったのが、視界の隅に映った。
「っ、髪の毛ボサボサだから!」
楓が咄嗟にそう言うと、「今更すぎない?」と怜は言った。
風呂上がりに髪の毛を乾かされていることを思い出し、それはその通りだ、と楓も心の中で思う。
「ふっ、直したげようか」
怜の手のひらが、楓の頭頂部に優しく降りて、そのまま指先が頭皮に固く触れた。
髪の根元から耳元にかけてゆっくりと撫で下ろした。
するりと耳たぶの際までなぞる指が、頭皮を滑るたびに、さらりとした髪の摩擦音が耳たぶを掠め、微かに鳴る。
なんだ、これ、
頭を撫でられるなんて、初めてじゃないのに。
今まで何回も、そうやって撫でてもらってきたはずで。
自分の手にはガラスのコップが握られていて、まだ液体はたぷりとその中で揺れている。
「直ったよ」
「ありがと…」
怜の手が離れて、楓が頬の熱さを誤魔化すかのように、残っていたお茶をごくごくと飲み干した。
その様子を見ていた怜が、楓の手からコップを取って、シンクで洗った。
手のひらがコップの形で残ったまま、楓はしばらく動けなかった。
「おやすみ。最近仕事忙しいみたいだけど、ちゃんと寝ろよ」
「…うん…」
怜は優しく微笑みかけて、頭に手を乗せると、リビングから出ていった。
ふわりと微かに洗剤の香りがして、楓はしばらくその場から動けなかった。
これ以上は、だめだ。
もう、一緒に住んではいけないのかもしれない。
このままじゃ、妹じゃいられない。
廊下を歩くスリッパの足音が聞こえ、奥にある怜の部屋のドアが閉まる音がした。
キッチンには換気扇の回転音だけが残っている。
膝から、力が抜けていく気がした。楓はその場にしゃがみ込んだ。
頭皮と耳に残る怜の指の感触が思い出せなくなるまで、そこから動けなかった。



