「楓ちゃん、今日もありがとう」
「こちらこそ、藤子さんお疲れ様でした」
紅茶とマスカルポーネクリームのシフォンロール、というのが今回のレッスンだった。テーブルの上には楓が作ったものが試食用として置かれていたが、好評だったため空になっていた。
藤子が紙袋に自分のロールケーキを入れながら、楓に微笑んだ。
講師も一緒になって作り、講師が作ったものを受講後に試食でき、自分が作ったものは持ち帰ることができる。
「シフォンロールは作ったことがなかったから、おうちでもやってみるわね」
「はい、ぜひ!泡を潰さないようにするのがポイントです」
「そうね、メモもしたからしっかり思い出して作ってみるわ」
通常のロールケーキ生地ではなく、シフォンケーキの生地でクリームを巻いてロールケーキに仕上げているので、通常よりもふんわりした食感が美味しいと人気の過去レッスンだった。
「そういえば、あれからお兄さんとはどうなの?」
「どっ、」
藤子が先ほどと同じ穏やかな笑みを浮かべながら、まるでレッスンの続きの話をするかのようにそう言ったので、楓は思わず狼狽える。
「あら、何かあったんでしょう」
「なにもっ…何かっていうか…何もないんですけど…」
桃香にもたまに聞かれるが、からかわれていると分かるので適当に返事をしている。藤子の瞳にはそのような意図が見えなくて、まるで全てを見透かされているようで、楓は思わず口を開いた。
「男女にね、決定的なことっていうのはね、少ないのよ」
「…?」
「決定的な出来事を作り上げるのは、積み重ねなの。日々のね」
「積み重ね…」
ふふ、と上品に笑いかけながら、顔の前で手を組んで楓を見た。
やっぱり、見透かされているみたいだ。
宝石商から一人で会社を立ち上げたという藤子は、きっと様々な修羅場も経験したのだろう。少し話を聞いてもらったら、楽になるだろうか。
「…聞いてくださいますか?藤子さん」
「あら、時間ならたっぷりあるわよ。お茶かランチでもしましょうか?それともここでお話しする?」
ちょうど今日は、午後に館の点検が入るとかで、レッスンは午前のみだった。
休憩時間は自由にパラパラと取るので、この後に抜けても問題はないだろう。
そういえば桃香も、仲の良いお客さんとランチに行ったりしていたはずだ。
「じゃあ、ランチご一緒しても良いですか?ちょっと軽く着替えてきます!」
「ええ、そしたら下の材料ショップで紅茶パウダーのお買い物してくるわ」
「ありがとうございます!急ぎます!」
藤子がヒラヒラと手を振って、椅子から立ち上がった。
楓は机の上を急いで拭いて、片付けを終えて着替えた。
「ここ、来てみたかったのよ。こういうところは若い子とじゃないとね」
店の扉を開けた瞬間、ひんやりとした空気が頬を撫でて、バターの甘い香りがふわりと漂った。
「わぁ…」
思わず声が漏れる。
白を基調とした店内に、柔らかい木のテーブルが並び、窓際には自然光がたっぷりと落ちていた。光を受けたグラスの縁がきらりと反射していた。
藤子が選んだ店は、二ヶ月ほど前にオープンしたというカフェだった。
楓もSNSで知って、気になってはいたものの来たのは初めてだった。
隣の席では、同じくらいの年の女の子たちがスマホを構えていて、運ばれてきたお皿をいろんな角度から撮っている。
笑顔でテーブルにやってきた店員に、藤子は発酵バターのクロックムッシュを、楓は無花果と生ハムサラダのデリプレートを頼んだ。
先に届いたホットコーヒーを飲みながら、藤子は楓を見てニコリとした。
何かを問われたわけでもなかった。もし話したいことがあるなら聞く、という藤子のスタンスが、楓に自然と口を開かせたのかもしれない。
「あの、兄が、最近、変な気がしてて…でも先に変になったのは、私かもしれなくて」
そんな妙な導入から始まった話を、藤子は笑みを絶やさずに聞いてくれた。
最近の出来事を話し終えると、藤子は言った。
「変なのは、悪いこと?」
「え?」
「相手の思考なんて、いくら考えたって分からないのよ。だからお兄さんの、「変」は一旦置いておいて、楓ちゃんの「変」だけを考えてみたらどう?」
「私の…」
ちょうど店員がクロックムッシュとデリプレートをテーブルに運んできて、会話が途切れた。
こんがりと焼き色のついたクロックムッシュの表面は、チーズがところどころこんがりと焦げていて、縁がぱりっと固まっている。
薄くスライスされた無花果と生ハムのサラダと、隣には小さなデリがいくつか添えられていて、キャロットラペの鮮やかなオレンジと、きのこのマリネの落ち着いた色味が、皿全体を引き締めていた。
「いただきましょう」
「はい、いただきます!」
楓はサラダにフォークを突き刺し、それを口に運びながら考える。
変、変、変って何が変なんだっけ?どうして私は、変だと思ったんだっけ?
「兄は…ずっと安心できる存在で、優しくて、なんでも言えたのに、それがなんだか最近は上手く接することができなくて…それが、すごく、変です…」
「安全な存在じゃなくなったの?」
「…今でも、安全…な存在ではあります。でも…なんだか、すごく…」
藤子は、ナイフとフォークで綺麗にクロックムッシュを切りながら微笑んだ。
ナイフを立てるたび、焼けたチーズがパリリと心地よい音を立てて割れていく。
「異性に見える?」
藤子の言葉に、楓の指に触れていたフォークがカタリと揺れた。
それは、ずっと、考えないようにしていた言葉なのに。
「はい…っ」
ああ、認めてしまった。
口からぽろりと漏れた肯定の返事は、最近ずっと、考えないようにしていたこと。
最近は少しだけ、怜ちゃんが男の人に見えること。
前よりもそのゴツゴツした指先が骨張っていることに気づいたこと。
首に入った筋が、横を向くとゴリっと出てくること。
気だるそうとしか思っていなかった伏し目がちなその瞳に、真っ直ぐに見つめられると怯んでしまうこと。
『楓、行ってらっしゃい』とリビングから聞こえてくるその声すらも、耳に残ってしまうこと。
「兄っていう記号から抜け出したのね」
「変ですよね、やっぱり、私…」
楓の言葉に、藤子が口元に笑みを浮かべながら言った。
ああ、こんなショートカットが似合う上品な女性に、私もなりたい。
「変な感情なんてこの世にないのよ。まだ楓ちゃんが、探り当てられていないだけ」
藤子はそう言って、クロックムッシュを口に運んだ。
美味しい、と目を瞑って存分に味わうその様子を見て、楓はアイスティーをこくりと飲んだ。
少しくせのある、爽やかな香りが、口の中の雑味を流してくれたみたいだった。
思わず「美味しい」と呟くと、藤子が顔を上げて微笑んだ。
楓もそれに微笑み返して、サラダにフォークを入れる。
柔らかい無花果の果肉がすっと刃先に沈んで、そのまま生ハムと一緒に口に入れると、甘さと塩気が重なって、じわりと舌に広がった。



