「お、アジの南蛮漬けじゃん」
レッスンが休みの月曜日、定時で帰宅した楓がキッチンにて夕飯を作っていると、ふらりとリビングに現れた怜がキッチンに入ってきて、楓の手元を見て言った。
「そうだよ、昨日から漬けておいたの」
「天才」
怜はそういうと、冷蔵庫を開けてお茶のボトルを取り出した。
飲み物を飲みにきたのか、と思っていると、フライパンを覗き込んで言った。
「それは今なにを焼いてんの?」
「厚揚げ。大根おろしを乗せて、ポン酢かけようかなって。ごま油で焼いてるの」
「美味そう」
キッチンの台の上には、タッパーに漬けておいた南蛮漬けや、大根おろしが並んでいる。怜はコップにお茶を注いで飲みながら、楓の手元をじっと見ている。
「な、なに?じっと見て」
「別に。美味そうだなって」
「あとちょっとでご飯が炊けるから、そしたら呼ぶよ」
だから部屋にでもいたら、というつもりで言ったのが伝わったのか、怜が鼻で笑いながら南蛮漬けに手を伸ばした。
「いっこもらい」
「あっ、手で!」
ひょい、とアジの切り身をタッパーから持ち上げて、汁が垂れないように口に入れた。楓がそれを目で追うと、ぱくりと半分に齧ったアジが浸った南蛮ダレのせいで艶やかに光っていた。
怜はしばらく口を動かしてもぐもぐと咀嚼したあと、嬉しそうに言った。
「美味い。俺、南蛮漬けってあんまり食べたことなかった」
「確かに、飲食店とかでもあんまり見ないね」
せっかく数を数えて、怜の明日の昼ごはんにもできるようにと思って作ったのにな。そう思いながらフライパンに視線を戻した。
目の前のフライパンでは厚揚げと胡麻油がジクジクと音をたてている。
小麦粉と米粉を同量で合わせた粉で揚げるとサクリとなると祖父が言っていた。
実家では丸一匹、祖父が捌いたアジを使っていたが、楓は簡単に切り身で代用していた。
「うま、楓も食べていいよ」
怜がそう言うと、残っていた切り身を音もなく楓の口元に持ってきた。
「んむっ」
冷たい衣が唇に触れて、思わずそのまま口を開けると、怜がそれを奥まで優しく入れた。
怜の指先が唇をかすめた一瞬、アジの冷たさとは違う、怜の体温が伝わった。
唇に微かに触れた指は何事もなかったかのように戻っていった。
口内に広がった酸味と少しの甘味。
輪切りにした唐辛子を入れた南蛮酢はピリリと少しだけ刺激を残していった。
アジのふっくらと揚がった衣の中に染み込んだ酸味が、喉に流れていって少しだけそれが辛い。
「美味いでしょ」
「…さっき、味見、したもん……」
なんで怜ちゃんが得意げに言うの。
そう思っても口に出せなかった。
言いたいことはたくさんあるはずなのに、それが何なのかすらも分からなくて言葉にできないまま蓄積されていく。
怜は嬉しそうに笑って、指先をぺろりと舐めた。
その手でコップに残っていたお茶を飲み干し、シンクで水を流した。
自分の上で音を立てている換気扇がいつもよりうるさい。
楓はハッと気づいて、厚揚げをひっくり返した。
思っていたより焼き目が黒くついたそれにため息をついて、怜をじろりと睨む。
「ご飯、できたら呼んでー」
「…うん…」
楓の視線を受けても、何事もなかったかのようにそう言って、怜はさらっとリビングから去っていった。
手が疲れて途中だった大根おろしに再び手をかけて、無心でおろし金に擦り付けた。
今の行動を、深く考えようとする私の方が、もしかしたら変なのかもしれない。
だから、無心で、平常心で、そうしていれば、きっと。
「楓」
「…ふぁっ!?」
夕食、風呂の後にソファでテレビを見ていたら、またしてもウトウトしてしまったらしい。肩を軽く叩かれて、思わず出た自分の声に驚いて姿勢を正した。
「髪、ちゃんと乾かしな」
「あ…うん…そうだね…」
楓は毛量が多いので乾かすのに時間がかかる。クーラーが効いていない洗面所での長時間の滞在が億劫で、つい後回しにしてしまう。
隣に座った怜を見ると、その手にはドライヤーが握られていた。
「わ、怜ちゃん乾かしてくれるの?」
「うん、このままだとまた寝るでしょ」
「そうかもー」
怜は軽く笑いながら、「分かってんなら先に乾かしなよ」と言いながら、ドライヤーのスイッチを入れた。
何回か乾かしてもらったことがある。もう慣れたはずだった。
固い指先が頭皮を擦っていく感覚が気持ちよくて、怜に背を向けて目を瞑った。
「髪の毛、サラサラじゃん」
「こないだ美容院でトリートメントしてもらったもんー」
ゴオオ、というドライヤーの音越しに、怜の声が届いてくる。
楓はそれに返事をしながら膝を抱える。
しばらく無言で怜が乾かし、楓もぼうっと膝を抱えたままテレビに視線を送っていた。
カチッというスイッチの音と共に轟音が止み、怜が髪の毛をほぐすように触った。
「ありがとー」
「どういたしまして、あ、待って跳ねてる」
そう言って怜が後ろ側の毛束を摘んだ気がした。
適当に思えてちゃんと乾かしてくれていたんだなぁと思って、自然と笑みが溢れた。その直後、怜の気配が近くなった。
不思議に思って少しだけ振り返った瞬間に怜の顔がそこにあった。
息を呑む暇もなく、怜の瞳の奥が楓を捉える。
鼻先を掠めるほどの近距離に、怜の顔が広がって、離れていった。
あまりの近さに、身体がすくめることしかできなかった。
「髪、いい匂いする」
振り返らなければ、良かった。
髪の毛の匂いを嗅がれたのだと気づいたのは、少しだけ遅かった。
ずっと知っていたはずなのに、見てきたはずなのに、視界の端に映って消えていった一瞬のことなのに。
ずるり、と抱えていた膝が、解けていくように腕から離れていった。
手から抜けていった力が、首元に一気に集中しているような気がした。
「な、髪、嗅い、っ」
「っふ、」
言葉にならない音が口から漏れて、それを見ていた怜が口元に手を当てて楽しそうに笑った。
ソファがぎしりと音を立てて、怜がドライヤーを持ったまま降りた。
コンセントを抜いて、コードを折りたたむ様子を、ぼうっと見つめるしかなかった。
「じゃ、俺も風呂入ってくる」
「う、ん…」
「ちゃんと部屋で寝ろよ」
「はい…」
怜はまた、何事もなかったかのようにリビングから出ていく。
怜が腰掛けていたソファのクッションには、体重をかけていた跡が、まだ沈み込んだままになっている。しばらく、そこだけを見つめていた。
なんで、最近そんなことするの。前は、しなかったよね?そんな言葉をかけたくても、口からは空気が漏れるだけだ。
ふぅ、と短い息が自分から漏れた。
手に力が入らない。
怜が変なのか、自分が変なのか、最近はもう分からない。
相変わらず優しくて、甘やかされていて、そういうところは以前となんら変わりない。
自分が、変になったから。
だから、怜の行動に、いちいち反応してしまうのだろうか。
なんで私は、こんなに動揺してしまうんだろう。
怜ちゃんの行動の、一つ一つに意味を見出そうとするなんて、
こんなの、まるで——
でも、妹じゃなくなったら、怜ちゃんの傍にはいられない。
守ってくれるという約束をしたから。
不変だと、ずっと変わらないと、
怜ちゃんは、そう言ったから。
——『大丈夫、楓はそのままで。俺がなんでも聞いてあげるから』
「私は、そのままで…」
変わっては、いけないから。



