「どこ行くの?」
土曜日、仕事が休みだった楓が買い物に出かけようと、着替えてリビングに行った。
テレビを見ていた怜から声をかけられて、「買い物だよ、野菜もうなかったし」と答えた。
「俺も行く」
「え?でも今日はお米とか重いもの買わないよ」
「着いてく」
「……いいけど…」
戸惑いながら楓がそう言うと、怜はソファから起き上がり「着替えてくる」と自室に向かった。荷物持ちをしてくれるということだろうか。まぁ暇そうだったし、いいか、と思いながら楓はキッチンの棚からエコバッグを取り出した。
「準備できた」
「はやっ」
「着替えただけだから」
そう言うも、先ほどまで後頭部で跳ねていた寝癖が直っているあたり、軽く身だしなみも整えたらしい。
楓の手の中にあったエコバッグを怜がヒョイと取って、パンツのポケットに入れた。
家から徒歩五分くらいの、駅の近くにあるスーパーは少し地元のスーパーに比べると割高だが、品揃えが多くて便利だ。
「怜ちゃん、食べたいものある?」
「んー…冷やし中華」
「暑いもんね、じゃあきゅうり要るね…えーっと…二本買っておくか」
「あとカレー、前作ってくれたキーマカレー」
「分かった、…まだある?」
「チャーシューもまた食べたい。あ、アジの南蛮漬けも美味かった」
「分かった…」
なんでもいいよ、楓の作りたいもん作りな。そう言っていた怜はどこに行ったのだろう。リクエストがある分には献立を考えなくて済むのでいいのだが、問題はその表情と口調にあると思っている。
カートを押しながら楓の顔を覗き込んで、反応を確かめているようだ。
傾げられた首に、少し笑みを漏らしている怜はどこか楽しそう。
普段は愛想がいいとは言えないだけに、最近ニコリとされるだけで面食らってしまう。
「最近、なんでそんなリクエストしてくるの…?」
「だめ?」
「だめじゃないけど、前は好きにやれって感じだったでしょ」
店内はクーラーが効いていて、食品棚から漏れる冷気が腕を冷やす。
腕をさすりながらそう聞くと、その様子を見ていた怜が楓の腕を引っ張って自分と場所を入れ替えた。
「楓のご飯が美味すぎて」
「それは良かったけど…」
美味しい美味しいといつもストレートに褒めてくれる怜だが、なぜだかそれを素直に受け取れないのは、私が最近変だからだろうか。
「…甘えたらだめなの?」
楓が変な顔をしていたからか、怜がそう言った。
カートに肘を付いて、ゆるりとした格好で、楓の目をじっと見つめている。
「……だめじゃないです…」と、自分の声が、思ったより小さく出た。
「ふっ、なんで敬語」
楓の顔を見て、にこりとすると麺類が置いてあるコーナーを指差した。
その口角はキュッと引き上がっていて、楓は思わず唇を軽く噛む。
「なんなの…」
「なにが?冷やし中華?俺ハム多めがいい」
「…はぁい」
怜の方向を見ないようにして、楓は棚から商品を取った。
冷やし中華麺、と描かれたパッケージは冷やされて指先にパリ、と冷たかった。
甘えて、いたのか。
甘えられていたのか、私は。
そんなの、今まであったかな。
なんだか落ち着かなくて、身体の中から冷やしたい気持ちになって、楓は冷凍庫の棚からアイスを取った。
「溶けない?」
「いいの、帰りに食べるの」
そうしてお会計を終わらせた荷物は、全部怜が持ってくれた。
エコバッグ二つになったそれは、重いから一個持つよと言ったが、怜が持ってくれた。
「あっつ」
「わー、陽が出てきたね」
楓にエコバッグの中からアイスを渡して、怜は目を細めた。
日傘を差して、その中に怜も入れてやると、怜の肩が楓の肩に触れた。
「日傘ってすごいな、全然違うじゃん」
「…でしょ」
日傘を差したら近くなる、なんて当たり前のこと、どうして気づかなかったんだろう。
日傘の内側は、日傘の内側は黒くて、周囲の光を弾いている。
その影の中はひんやりとしていて、怜と自分の間の空気をいつもよりも感じた。
怜の歩調に合わせようとすると、自然と肩と肩が触れ合う。
「食べなよ、溶けるよすぐ」
「うん…」
楓がペリリと袋を開けて、ヨーグルトの酸味がふわりと香る棒アイスを手に取った。
木の持ち手を持つと、まだ冷たかった。
口に入れると酸味がふわりと広がって、熱い身体を冷やしていくようだった。
「なに?ヨーグルト?」
「そう、さっぱりしたのが美味しいの」
「ふうん」
怜の身長に合わせて、日傘を少しだけ上の方で持っている楓の肘の位置は、いつもより少し高めだ。
エコバッグを一つ肩にかけて、もう一つは手に持っている怜の視線を感じて、楓は言った。
「なに?」
「ちょうだい、俺にも」
アイスに向いていたはずの視線が、いつの間にか楓を捉えていた。
口をあーんと開けて待機している怜は、ここにアイスを入れろということなのだろう。
「じっ、自分で食べてよ、ほら」
「今、手塞がってるもん」
怜がそう言って、口を少し開けたまま顔を楓の方に近づけた。
肩が触れる距離になって、足の歩みが遅くなる。
「私がエコバッグ持ってあげるからっ」
「今口に突っ込んでくれた方が早いでしょ」
効率と合理性を重視する男だから、こんなことを言うのだろうか。
怜ちゃんにとって、この状況も、アイスを一緒に食べることも、別に普通なのだろうか。
日傘を持つ手が、じんわりと汗で滲んで熱い。
「だって、別に自分でっ」
「ねえ、溶けてるって、早く。俺ずっと口開けてるんだけど」
「やだって、」
強い陽射しがアスファルトに反射して、足元をじりじりと焼いている。
立っているだけで吹き出してくる汗が、首筋をたらりと流れていくのを感じた。
「もらうよ」
怜の顔が近づいてきて、その大きな手が、楓の指先を覆うようにしてアイスを掴んだ。
その手は、楓よりもずっと硬くて、筋張った骨の感触がダイレクトに伝わった。
ぐいと引き寄せられた反動で、怜のシャツの襟元がすぐ目の前に迫った。
鼻を突くのは、清潔な洗剤の香りと、アスファルトから立ち昇る熱気、そして自分自身の微かな汗の匂い。
混乱している間に、怜は迷いなく、ぱくりとアイスを口へ運んだ。
手、使えてるじゃん、
だって、片方のエコバッグは肩にかけてるんだから、そりゃ、そうで、
ああ、なんで今こんなことをぐるぐる考えているんだろう。
数秒だけ重なった手は熱くて、少しだけゴツゴツとしていた。
足が、一瞬だけ止まった。
「うま。これ美味いな」
何事もなかったかのようにそう言って離れていった怜の口の端には、少しだけ白い液体が付いていた。
「…ついてる」
「え?取れた?」
怜がぺろりとそれを舌で舐め取って、楓に顔を向けた。
いつの間にか止まっていた足を再度前に進めて、楓はむくれる。
「…取れた…」
「ありがと」
アイスの表面は、強い陽射しを浴びてみるみるうちに艶を帯びていく。
溶け出した白い液体が木の棒を伝い、指先を滑って、今にもこぼれ落ちそうだった。
そうして、とろりと指に伝った液体に、気づかないふりをした。
暑い、熱い、これも全部夏のせい。



