最近、私だけでなくて怜ちゃんも変だ。
「怜ちゃん、起きて」
「…おはよ」
ベッドですやすやと眠る怜に声をかけると、以前よりも早めに目が開く。そういえば、勝手に入るな、とも言われなくなった。
違和感はあるが、まぁ生活リズムが身についてきたということなのかもしれない。
「かえで、今日は帰りなんじ…」
「んー、今日は来月のレッスンの予習をしたいから、二十時くらいになるかも」
「…迎え、いこっか?」
「えっ、なんで、大丈夫だよ」
「そっかー」
洗面所で歯磨きをしていると、のそりと部屋からやってきた怜がそう言った。前までこんなこと言わなかったのに、どうしたんだろう。そう思いながら慌てて遠慮する。
まぁこれも、違和感はあるが、ついこの間スタジオで桃香さんとクリーム絞りの練習をしていたら遅くなってしまって、連絡もしなかったので心配させてしまったことがあるし、保護者としての責任なのかもしれない。
「楓、今日は夜ごはんなに?」
「今日は…大ぶりのサバを昨日買ったから、塩焼きか味噌煮にしようかなって思ってるけど…」
「ふうん、美味そう」
キッチンで洗い物をしていると、朝食を食べながら怜がこちらを見て言った。
今まであまりメニューを聞いてくることなどなかったし、作ったものを美味しいと言えど、あまりリクエストされることもなかった。
楓の負担のないように、作りたいものを作っていい。そう言っていたことを思い出すと違和感はあるが、食事に興味が出てきたということかもしれない。
牛丼のタイパとコスパを力説していた頃を思うと、健康的な食生活が身についてきたのだろう。
「じゃあ、私行くね」
「あれ、今日髪巻いてんの?」
「あ、うん、今日はレッスンがないから、桃香さんとパートさんと、オシャレランチの約束してるの」
「ふうん、かわいい」
「っ、行ってきます!!」
返事を待たずに玄関に向かった。靴を履く指先が、少しだけもたついた。
これ、これが一番おかしい。
前は可愛いなんて言ったことなかったのに、ここ最近、髪型や服装を見てさらりとその言葉を発してくる。
私が過剰に反応するからだろうか、そういうのにも慣れていけと兄として鍛えてくれているのだろうか、いや、そんなタイプではない。
甘い感じ、と三浦さんにも言われた通り、甘やかされているのは分かっているが、最近の怜ちゃんはそれに拍車がかかっている。
楓は熱くなりそうな頬を押さえながら、職場に向かった。
今日はレッスンがない。来月の予習と、搬入と、SNS用にアップする写真の撮影と、業務は盛りだくさんだ。
「なんか、ぼーっとしてるね?」
「えっ、全然、そんなことないですっ!」
桃香から声をかけられて、我に返った。
怒涛の一日が過ぎて、もう夕方だ。
パソコンに向き合っていても、手はキーボードの上から動いていなかった。
SNSに載せるレッスンの説明文を考えて健太郎に提出しなければいけないのに、その文章がなかなか思いつかない。
「さてはあの兄となんかあったな?」
「何もないですっ、今日のランチでもそう言ったじゃないですかっ」
「ふぅん?」
「ニヤニヤしないでください!私ちょっと、下に、足りない粉を取りに行ってきます!」
隣からわざとらしく視線を向けられ、それから逃げるように楓はスタジオを降りた。
エレベーターで降りた一階には併設されているショップがあり、粉やチョコレートなどの細々とした材料は適宜こちらから仕入れることになっている。
「あ、楓さん」
「皆川さん、お疲れ様です」
台車を持って店舗のバックヤードに行くと、パソコンを睨んでいる男性が楓を見て朗らかに声をかけた。
店長を務める、皆川《みながわ》 太一《たいち》は、怜と同い年の二十八歳だ。
在庫とロス管理が上手いらしく、この年で店長に抜擢されたのだからやり手なのだろう。
「来週分の強力粉、もらいにきましたー」
「用意してますよ!先週はパンが多かったんですか?発注が多かったなって」
皆川が椅子から立ち上がり、奥のケースに楓を案内した。
ショップの奥にあるバックヤードは、店内の空調よりも一段と冷えていて、かすかに粉っぽい、乾いた空気が漂っている。
以前、楓が発注ミスをしかけて、数字があっているかこっそり皆川が確認してくれたことがあり、そこからよく話すようになっていた。
「あー試作もありましたしね、秋冬は夏よりパンの需要増えますし」
「そうですね、暑さも和らいだらバターも形保てるし、折り込みとかしたくなりますよね」
「ね!クロワッサンとか丁寧に折りたくなりますよね」
作る側の人間が多い職場だが、皆川もそうらしく、パンやお菓子の話で盛り上がることが多い。
趣味レベルですよ、と本人は以前言っていたが、クロワッサンの折り込みができるということは相当やりこんでいるということだ。
「そういえば、知ってました?近くにまたパン屋さん出来るみたいで」
「え!知らない!」
「ほら、前クレープ屋だったところが今工事してるじゃないですか。あそこです」
「えー!気になる!!行ってみたいです!」
朗らかでニコニコしている皆川の雰囲気に癒され、楓もつられて笑顔になる。
「楓さんさえ良ければ、今度お昼にでもご一緒しましょう」
「わーぜひ!いつにしましょう!オープンいつだろう!」
二人で店のインスタを探し、女子のようなテンションでキャッキャと話していると、バックヤードに他の社員が入ってきて、皆川を呼んだ。どうやらレジのトラブルらしい。
「あっ、今行きます!じゃあ楓さん、今度連絡しますー!」
「はい!」
ニコニコと手を振りながら去っていく皆川を見送ってから、楓は持ってきた台車に粉を乗せた。パンに使う強力粉、準強力粉、お菓子に使う小麦粉にもたくさんの種類があり、それぞれで水分量や焼いた時の色や食感が変わる。
レシピを作るということは、それだけ粉の違いを考えて、ベストなものを選ばなければいけない。健太郎などは隅々まで熟知しているので、「今回はこれかな」などと感覚で選んでいるように見えて、先は長そうだと思わせられる。
「よいしょ」
ケースを台車に置いて、納品書を確認していると、ポケットに入れていたスマホが震えた。
積まれた強力粉の袋は、袋越しにもずっしりとした重みと冷たさが伝わってくる。
取り出して確認すると怜からのメッセージで、何気なくトーク画面をタップする。
【サバ、塩焼きがいい】
そんなこと、わざわざ言わなくてもいいのに。
スマホの時計は十六時を示していた。
【分かったよ、急にどうしたの?】
そう送ると、すぐに既読がついた。
楓がしばらく待っていると、怜からすぐに返事が届いた。
【腹減ったなって思ったら、楓のご飯が早く食べたくなった】
絵文字も何も付いていない、殺風景な文面だった。
バックヤードのコンクリートの地面が、足元から少しだけひんやりとした風を伝えてくる。
【待ってる】
返事を考えていると、追加でメッセージが届いた。
楓は思わず頬を抑えて、入口とは反対に顔を向けた。
冷えたバックヤードの空気が、頬に当たって少しだけ気持ちよかった。
バックヤードの隅に積まれた小麦粉の袋に、自分の影が長く伸びて落ちている。
やっぱり、最近、私だけでなくて怜ちゃんも変だ。



