キャラメリゼ ワンルーム

 
 
 
 
「あれ?楓、今日休み?」
「うん、そうだよー」

いつものように怜を起こしてリビングに行くと、しばらくしてから欠伸をしながら怜がやってきた。

「なんでそんな可愛い格好してんの?」
「かわ…今日は美容院なの」

じっと視線を向けられて、少しだけ狼狽える。
朝食を済ませていた楓は、以前、怜と買い物で選んだ白のワンピースに着替えていた。
 
「美容院ってそんなオシャレしてくの?」
「今日はそのあとランチもするの」
「ふーん、どこで?」

やけに聞いてくるな、と思いながら楓は「表参道だよ。フレンチトーストが美味しいところ」と答えた。
化粧も終えたので、あとはリップを塗ったら支度は完了だ。
楽しみの予定があると早起きしてしまうのは昔からで、今日も早く目覚めてしまった。

「フレンチトースト、いいなー」
「…怜ちゃんも今度行ったら?」
「絶対に男一人で行くとこじゃないだろ。楓、今度作ってよ」
「いいけど…お店みたいにあんなに綺麗に作るのは難しいんだよ、お店の方が美味しいよ」

歯ブラシをシャカシャカと動かしている怜を見ながら楓が言った。
せっかく表参道に行くのだから、フレンチトースト用にちょっといい食パンを買ってきてもいいかもしれない。厚めに切ってもらって、明日の朝食用に、今日から卵液に浸けておこうか。

「楓が作ったのが、食べたい」
「…わかったよ」

変なの、なんでそんな改まって言うんだろう。
怜ちゃんが何かを食べたいとリクエストするのは珍しいからだろうか?

「…その服、似合うよ」
「え…あ、ありがと…」

じっとこちらを見て、怜のその視線が上から下に降りる。
改めて見られていると思うと恥ずかしくて、先ほどいなしたはずの話題が再び出てきたことに、少しだけまた戸惑う。


「かわいい」
「っ」


そう言って、怜はにこりと笑ってリビングを出て行った。
その表情はどこか機嫌がいいように見える。

廊下にシャカシャカという軽快な音が響いた後、奥の洗面所から水を流す音が聞こえた。耳が熱い、早く、元に戻さなければ。リップを塗ろうとして、指先が少しだけ震えていることに気づいた。

なに、朝から。昨日は三浦さんの案件が詰まってる、昨日は三浦さんの案件が詰まってるって、。ブツブツ言いながら部屋に消えていったじゃない。
きっと遅くまで仕事してたんでしょ。眠いんじゃないの?

なんでそんなふうに、笑うの。














玄関の扉がガチャリと開く音がして、楓が廊下に顔を出した。

今日は怜は出社していて、ついでだし金曜だから三浦さんと飲みに行ってくると言っていた。
昨日家に来たばかりなのに、仲良しだなぁと思いながら、楓は見送った。
時計をちらりと見るともう二十二時になっていた。

「おかえり、怜ちゃん」
「ただいま」
「酔ってる?」
「全然。少ししか飲んでないから」

リビングとは反対方向の、自分の部屋に着替えに行ったらしい怜はいつも通りで、朝の動揺は、もう引いていそうだ。

明日は怜は休みだが、楓は仕事だ。
弁当に入れるおかずを作っておこうと、キッチンで卵焼きを焼いていると、部屋着に着替えた怜がやってきた。

「なに作ってんの?」
「明日のお弁当の卵焼き。怜ちゃん明日は家?」
「うん、仕事しながらダラダラする」
「じゃあ余分に作っておくよ」

火加減を確認しようと屈んでいたから気づかなかった。
いつの間にか怜がすぐ後ろに来ていて、四角いフライパンを覗き込んでいた。
狭いキッチンに、怜の体温が背後からじんわりと広がってくる気がする。
Tシャツ越しに、コンロから立ち上る卵の香ばしい匂いとは別の種類の香りがする。

「な、に」
「…ふっ、美容院のシャンプーの匂いがする」
「そ、りゃっ、今日行ってきたから」
「風呂まだなの?髪もクルってしたままじゃん」

後ろを振り向けなくて、俯くと美容院で整えてもらったばかりの毛先が、くるりと外側に跳ねて鎖骨のくぼみを微かにくすぐる。
俯くと重力に従ってさらりと下がる毛先が、自分の視界の端に映る。

「か、カラーしたから、今日はシャンプーしないの。色落ち、しちゃうから」
「ふうん?いいにおいする」

目の前のフライパンの中で、卵液の縁が黒いフライパンの淵に沿ってくるりと反り返っている。左手でフライパンを傾けて、まだ火の通っていない卵液をそこに流すと、ジュウと音がした。

「髪、クルクルってしてんのはなんで?」
「巻いてもらったから…」
「明日もそのまま?」
「…寝たら、取れるんじゃない…」

菜箸で卵焼きを巻こうと突くと、まだ火が通りきっていなくて、端の部分が破けた。
そこから少しだけ液が漏れて、じゅわりと鉄鍋に余計な染みを広げていく。
失敗した、と思うより先に、背後の気配が気になって仕方なかった。

視線を感じるたび、髪の隙間から冷たい風が通り抜けるような、ひやりとした緊張が背筋を伝っていく。

「ふうん、巻いてるのも似合うね」
「ありがと…」

背後の怜がそう言って、ふ、と静かに笑った吐息の音がした。
くるりと後ろを振り返った気配がして、冷蔵庫が開く音がした。

隣に移動した怜が、コップにお茶を注いでいて、少しだけ息が漏れる。
なんだ、お茶が欲しくてキッチンに来ただけか。

破れた部分を強引に押し込んで、まだ残っていた卵液を、ボウルから一気に流し込んだ。ジュウ、と再び音がして、気泡がぷつぷつと破裂し、端から黄色い層がみるみるうちに固まっていく。

「かわいいじゃん」
「…ありがと…」

なんなの、今日の怜ちゃんはなんか変。
可愛いなんて、今までちゃんと言われたことはなかったのに。
今日は店員さんもいないよ?彼氏だって勘違いされてないよ?

誰かに促されたわけじゃないのに、急にそんなこと言わないで。

でも、それにいちいち過剰に反応してしまう私も変だ。

「…明日の朝は、フレンチトーストにするよ…」
「おっ、やった」

居た堪れなくなって、冷蔵庫のジップロックに漬け込んでおいたそれに話題を変えた。パン屋さんで厚めに切ってもらった一斤のパンは、フレンチトーストにしても余がある。

冷凍して、また作れば怜は喜んでくれるだろうか。
そんなことを思いながら、卵焼きをくるりとひっくり返した。

髪の毛、結んでいなくてよかった。
視界のサイドにふわりとカールを描く毛束があって、助かった。

出汁の香りが充満するキッチンは、明日の朝になれば、冷蔵庫で浸み込んだ卵とバターと、甘いメープルの香りがここに満ちる。
楓は明日の朝に必死に思いを馳せながら、左側に見える足元を、見ないようにした。