「ねぇねぇ楓ちゃん」
「はい?」
キッチンで油の処理をしていると、三浦がソファから声をかけてくる。
楓はそれに答えながら、ちらりと顔を見て返事をした。
「蓮見って、いつからあんな感じなの?」
「あんな感じってなんですか?」
「んー、なんか優しくて、過保護で、甘い感じ」
甘い感じ。やっぱり外から見ても、甘やかされているように見えるのかと思う。
楓は鍋の油をオイルポットに注ぎながら答える。
換気扇が回る低い駆動音が、リビングの笑い声を少しだけ遠ざけてくれる。
「割と、最初からですかね?初めて会った時は私がまだ小学六年生で、怜ちゃんは高校三年生で。宿題見てもらったり、ゲームしたり。高校受験の時なんかも、勉強教えてもらったりして」
「ふーん?再婚される前も、結構会ってたの?」
「そうですね、中学の時はもう、月に二、三回とかは。受験の時期は怜ちゃんが千葉まで来てくれて、週一くらいで教えてくれてました」
三浦が先ほどよりも大きな声で「えっ、でも町田でしょ?遠くない?」と言った。怜の実家は東京の町田市にあって、方向は反対だ。
怜が生まれた時に家を買って、今は誰も住んでいないので借家として賃貸に出しているらしい。
「はい、でももう再婚は決まってたので、怜ちゃんのお父さんが車で送ってくれて、一時間半かけて来てくれてたみたいです。勉強している間は母と怜ちゃんのお父さんも会っていたようですし」
「蓮見はその時は、えーっと、二十一?大学三年とかか」
「そうですね、インターンの合間に来てくれてたみたいですけど、もう一月とかには内定出てたみたいで、余裕って言ってました」
「すげーな…」
三浦の言葉に、楓はやはりそうなのか、と思う。
あの頃の自分は怜の忙しさなどに全く気づけていなかったし、余裕だと言う本人の言葉を信じていたが、自分が大学三年の頃になって初めて、大分無理をしていたのだろうなと思った。
「その頃から、蓮見はあんな感じなの?」
その頃は、自分の受験勉強で頭がいっぱいだった。
環境が変わること、再婚の不安、友達が受験しない東京の学校を受けること、縁もゆかりも無い地域に住むこと。
それ以外にも考えることはたくさんあって、そんな細々とした気持ちを、怜に聞いてもらっていた。
「そうですね、ずっと優しくて、今みたいに気にかけてくれてて」
あの時、なんとなく母には不安は話せなかった。
前向きな結婚であると分かっていたから祝福してあげたかったし、怜の父もいい人で好きだった。だからマイナスなことを誰にも言えなかった。怜以外には。
「…同居してた時も?三年間だっけ?」
「そうですね、大学四年の頃は、もう暇だって言って、結構気にかけてくれて、遊びに連れてってくれたりして…」
「社会人になってからは、あいつ激務だったでしょ?通勤遠いって言ってたもん」
そうか、やっぱり大変だったのか。
楓はオイルポットを仕舞って、コーヒーメーカーのスイッチを入れた。
家から持ってきたと怜には嘘をついたが、ここに来る時に買ったものだ。怜に、コーヒーを淹れてあげたいと思って。
「帰りは遅かったですけど…愚痴も聞いたことなかったですし…高校三年の時には、また受験勉強を見てくれて…やっぱり無理してたんですよね」
「高三ってことは、蓮見が二年目?…あいつ、その時も勉強見てくれてたの?」
三浦が信じられないと言うように、目を見開いてそう言った。
やっぱり、無理をさせていたんだろう。
高校三年生になってから、母と怜の父が話し合いをしているのをよく見かけた。
仲は悪くないと思っていたが、母から気まずそうに、「大学は、もしかしたら千葉から通うことになるかもしれないから、それを踏まえて学校を選んでほしい」と聞かされた。
あの時も、自分の中で気持ちを堪えきれなくて、仕事終わりの怜を家の前で待ち伏せて、泣きついたことがある。帰ってきた怜は、少し驚いた後、楓の顔を見て何も言わずに、楓の頭に手を乗せた。
家族が終わるということは、怜と離れることだと、すぐに分かった。
それがとても、嫌だった。
複雑な家庭の状況を、友達に詳しく話しても分かってもらえない。
この気持ちを素直に相談できるのは、理解してくれるのは、怜だけだと思った。
「勉強も見てもらいましたし…たくさんわがままも言いましたし、話も聞いてくれて…」
「そうなんだ」
「だから、怜ちゃんは多分、私に特別甘くて…きっと、可哀想だと思われてるんです」
「可哀想?」
その時のことは、あまり思い出したくはない。
誰も悪くないと分かっていた。
それなのに、母も、祖父母も、怜の父も、私を被害者かのように扱って、謝る。
迷惑をかけてごめん、辛い思いをさせてごめん、自分のせいで、と。
誰かを責めたいとか、誰かのせいにしたいとか、そんな感情を持ったことはないのに。
怜だけが、謝らなかった。
——『大丈夫、楓はそのままで。俺がなんでも聞いてあげるから』
その言葉に、昔も、今も、甘え続けている。
「怜ちゃんは、優しいから…、ほんとに」
「兄」だから、そこに正当な理由があると、今でも思っている。
自分は「妹」だから、赦《ゆる》してもらえる。
「……ふうん?俺は、蓮見は冷たい人間だと思ってたよ」
「え?」
キッチンですることがなくなって、楓は手持ち無沙汰に布巾を濡らし、白いタイルをなぞると、キュキュッという乾いた音がキッチンに響く。
「見てよ、俺への態度?あんなんだよ」
「…それはお友達だから、仲が良いからだと…」
楓の言葉に、三浦は何かを思い出すかのように苦い顔をして、顔の前で手を振った。
手のひらの布巾が、しっとりと冷たく温度を伝えてくる。
「女の子にもだよ!俺、蓮見があんなふうに笑うの見たことないもん」
「そう、なんですか…でも前、キャバクラとか合コンに行くって…」
楓がそう言うと、三浦が「ああ、それは…」と口を開きかけたところで、リビングのドアが勢いよく開いた。思わずそちらに視線を送ると、怜が入ってきてこちらを見ていた。
「おっつー。すげー、一時間ピッタリじゃん」
「当たり前だろ。何も変なこと言われなかった?」
怜は楓にそう言いながら、キッチンに近寄ってきた。
三浦と話していたことが頭をよぎって、楓は思わず後退りをする。
「ひでー、俺、楓ちゃんに近づきもしなかったのに」
「だっ、大丈夫!コーヒー入れたから、三浦さんと飲んで。私お風呂に入ってくる!」
「え?ありがと」
そう言って、怜の隣を抜けてリビングを出て行こうとすると、三浦がソファから「楓ちゃん」と呼び止めた。
頬が熱い気がして、無意識に手を当てながら振り返ると、三浦はにっこりと笑って言った。
「特別だから、心配しないで」
「…っ」
「は?どういうこと?何言ってんの?」
三浦の言葉に、楓は微かに頷いた。怜が怪訝な顔で、自分と三浦の顔を見比べている。
手をひらひらと振る三浦にぺこりと軽く会釈をして、楓はリビングの扉を閉めた。
バタンと閉まった扉の奥で、怜が何か三浦に言っているのが聞こえた。
そのまま洗面所に入って、扉を閉めた。
静寂が急激に密度を増した。知らない間に止めていた息がふう、と漏れて、肩の力が抜けた。
特別なのは、知っている。
だって「妹」なのだから。だから安心して、気持ちを吐き出せてきたのだ。
服を脱ぐ指先が、わずかに震えている。一気に脱ぎ捨ててしまいたくて、楓は袖口を乱暴に引っ張った。脱いだ服が、床にくしゃりと落ちた。
鏡越しに映る自分の顔が、少しだけ赤いことは、見ないふりをした。



