キャラメリゼ ワンルーム

 
 
 
最近の楓は、なんだか少し変だ。

「怜ちゃん起きて」
「んー…」
「ご飯、できてるからね!」
 
部屋に入るなと言っても、「だって怜ちゃんが起きないんだもん」と当然のように入ってくる朝に、いつの間にか慣れていた。

いつもなら剥がされそうになる布団を俺が守って、それに仕方がないように笑うのに、最近の楓は淡白だ。部屋を出ていく音が耳に入って遠ざかっていった。
いつまでも丁寧に起こしてもらえるとは元々思っていないので、せっかく作ってくれた朝食が冷めないうちに、気合を入れて起きる。

「今日は時間がなかったから、昨日の残り!ごめん!」
「全然いいよ、いただきます」

ダイニングテーブルに並べられたのは、卵焼きと、豚汁、ひじきの炊き込みご飯。
豚汁の入った椀からは、白くて細い湯気が緩やかに揺れていた。
味噌と豚肉の香りが、鼻をくすぐった。
箸先で卵焼きを崩すと、半熟の卵液がじわりと滲み出し、更に少しだけ垂れていった。

楓と住むようになってから健康的な食事になって、心なしか肌がつるりとしている気がする。

「美味い」
「…昨日の夜の残りだよ」
「昨日も美味かったし、今日も美味い」
「…ありがとう…」

元々、朝食は食べなくてもいいと思っていた。
仕事をする直前に起きて、何か適当につまんでいれば腹は満たされる。
楓に合わせて規則正しい生活をしていると、一緒に住んでいた時のことを思い出して、少しの懐かしさと眩しさを感じる。

「私、今日から仕事だけど、レッスン無いし多分早いから、夜はご飯作れるから」
「ありがと、でもまぁ無理しなくていいよ」

そう言いながら楓の方を見ると、一瞬目が合った後にふいと逸らされる。
最近こういうことが多い気もするが、まぁ人間の機嫌なんてそういう時もあるしなと思う。

「ごちそうさま、美味しかった」
「うん、置いておいてくれたら私洗っておくよ」
「いいよ時間ないんでしょ、俺がやっとくから準備しな」

楓は「ありがとう」と言って、自分の弁当に具材を詰めている。
別に急いでいるなら外でランチしてこればいいのにと思うが、口に出さない。
前は一緒に食事を取ることも多かったが、最近は自分がリビングに行くと楓は食べ終えている。

「怜ちゃんは、今日も仕事?」
「うん、平日だし」
「…お休み、二日も取って大変じゃなかった?」
「全然」
「…そう」

やはり、変だ。
シンクに立って皿を洗っていると、少しだけ楓が左にずれて距離を取った。
気のせいかと思っていたが、最近はこんなことが多い。

でもまぁ、六つも下の女子の考えていることなど、こちらがいくら推測したところで意味がないので、あまり考えない。

「私、準備してくる!」
「…?うん」

先日の雨で風邪でも引いたのかと一瞬思ったが、昨日も一日元気そうに掃除をしていたことを思い出す。せっかくの休みなのに掃除をする楓を尊敬しながら、俺はだらりと仕事をしたのだった。

そんなことを思い出しているうちに、慌ただしくリビングを出ていく楓を目で追うと、切り揃えられた髪の毛の後ろがぴよりと跳ねていた。
それに、ふ、と口元が緩んだ。





「あれ?反応しない」

夕食後、パソコンを膝に置いてソファで仕事をしていると、楓がキッチンからぼそりと言った。
視線だけを送るとリモコンをテレビに向けて伸ばしていて、ああテレビのチャンネルを変えたいのか、とパソコンをソファに置いて、楓の方を向いた。

「リモコン貸してみ」
「…はいっ」

楓の方に手を伸ばすと、楓は一瞬戸惑った反応の後、下からふわりとリモコンを投げた。
なんで投げるんだと思いながら受け取って、「何番にすんの?」と聞く。「一番」と返ってきたのでそれに従う。以前の楓なら直接持ってきてくれそうなものだが、これが慣れということなのかもしれない。

「ありがと」と背後から聞こえる声は、昔となんら変わっていない。
もっと、甘えてくれてもいいのにという気持ちと、今くらいの距離の方が、自分にとっては都合がいいという気持ちがせめぎ合う。

兄として接して、兄として自分を見てほしい。
そうしていれば、俺の決意も揺らがないから。

「終わったの?」
「うん…」

シンクの掃除をすると言っていた楓が、キッチンからこちらにやってきて、俺からクッション一つ分ほど離れたところに座った。
楓が座った場所が少しだけ沈んで、その距離が妙に広く感じられた。

テレビから流れる、バラエティ番組の人工的な笑い声が、他に音のないリビングに響いている。

「テレビ、これ見たかったの?」
「…うん」

ちらりと楓の顔を見るも、特に変化は感じない。
やはり体調が悪いわけではなさそうだ。すぐに画面に視線を戻す。

いつもの楓なら、なんの仕事してるのと画面を覗き込んだり、今日あった出来事などを話してそうなものなのに。

楓はしばらく落ち着かない様子でテレビを見て、「お風呂入ってくる」とすぐにリビングから出ていった。残り香が、甘く鼻先をくすぐった。

それに一々動揺していた昔の自分はもういない。
自制しすぎて、それが日常すぎて、もう慣れた。





仕事にキリがつき、風呂に入ろうと思ってリビングを出た。
洗面所のドアが開いていたので、入ってもいいのだろうと思って入ると、楓が歯を磨いていた。

「ごめん」
「ううん、怜ちゃんお風呂?入っていいよ」

楓がそう言いながら、場所を譲ろうと洗面台の前から下がった。
洗面所の鏡は、さっきまで楓が使っていた水蒸気で白く曇っている。
洗面台に置いてある歯ブラシを取ろうとすると、楓がさっと身体を引いた。

「いや、いいよ俺も先に歯磨く」
「えっ、大丈夫、どうぞ!私でるから!邪魔でしょ!」

邪魔などと思ったこともない言葉が飛んできて、思わず楓の方を見る。
口の周りに白い泡が少し付いていて、そこに視線を送る。

「?いいけど別に」
「いいから!怜ちゃん疲れてるでしょ!どうぞ!」

そう言って楓は強引に洗面所を出て行った。
家でだらりと仕事をしていた俺より、出勤してしっかり働いてきた楓の方が疲れているだろうに。
もしかしたら、思春期の娘を見送る父親の気持ちというものはこういう感じかもしれない、などと考えながら、洗面所のドアを閉めた。

まぁ俺は、それだけの気持ちではないけれど。


でもいつか楓も、いつかはこの家を出ていくだろう。
社会人になれば、世界は広がる。
使えるお金も増えて、人脈も広がって、きっと楓の世界はもっともっと開けていく。

俺は、いつか来るその時まで、ただただ守って、それを受け渡せばいいから。

服を脱ぎながら、鏡を見た。
手を伸ばすことすら、そんな感情を持つことすら、許されていないから。

知らない間にじわりと芽生えた気持ちは、自分の中で広がってしまう前に、とっくの昔に封印して、一度も認めたことはない。
言葉にしたことすら、認識すら許されない。

そうやって自分を律して、一定の距離を保って、理性が揺らがないように意識した。
兄として、妹は俺が守らないといけない。

そうして、いつか他の誰かと、幸せになってほしいから。