キャラメリゼ ワンルーム

 
 
 
 
 
「怜ちゃん、楓ちゃん、また来てね」
「次は手ぶらでいいからね」

祖父母と母に手を振り、怜は「おせわになりました、ありがとうございました」とお辞儀をした。今日も泊まればいいと提案されたが、怜が「さすがにこれ以上は」と断った。

庭まで見送ってくれた三人に楓も「また来るねー」とラフに挨拶を返し、怜と並んで駅まで歩いた。

「すき焼きカレー、すっげー美味かった」
「美味しいよね、おじいちゃんのすき焼きカレー」

祖父が作る料理は美味しく、そのアレンジもいつも絶品だ。
すき焼きの食材から出た旨味をそのまま活かしたカレーは和風の風味が効いていて、和牛などの具材も入っている。

初体験だった怜は美味い美味いとおかわりもしていて、それを見つめる家族が嬉しそうだった。その光景が、なんとなく頭に残っている。

一階に目を擦りながら降りてきた怜はいつも通りで、あの近さに気づいていたのは自分だけだと分かってホッとした。
風呂上がりには着替えを持ってきていなかった怜が、楓の大きいTシャツと部活で使用していたジャージを着ていて、それがなんだか面白かった。

「雨降りそう」
「ほんとだね、早く帰ろ。遅くなっちゃった」

空を見上げると濃い灰色の雲が奥の方に見えて、楓はそう返す。
来るときは泊まると思っていなかったし晴れていたから、傘などは持ってきていない。足早に駅に向かい、帰路についた。








「あー…」
「すごい降ってる、どうしよ」

電車では眠ってしまっていたので全然気づかなかった。怜に起こされてホームに降りると、激しく風に煽られて斜めに降り注ぐ雨に気づく。

「傘買うか」
「勿体ないねー」
「うん、だから一本にしよ」

さらりと怜がそう言って、思わず「エッ」という声が漏れる。
改札の中にある小さなコンビニの店頭に、傘が並べられていた。
駅構内の床も濡れていて、その雨量を考えると怜の提案は決して間違っていなかった。

「嫌?でも一本七百円とかすんじゃん。家に傘あるし」
「嫌じゃない、ごめん、うん、高いからそうしよう」

エスカレーターを降りた怜が後ろを振り向きながらそう言って、楓は思わず漏れた言葉を必死に訂正する。自分でもなぜそんな反応をしたのか分からず、顔の前で手を振ると、怜は少しだけ不思議そうな顔をしながらコンビニに足を進めた。

「なんか飲み物とかいる?」
「ううん、大丈夫。ありがとう」

怜が頷いてから、傘を一本持ってレジに向かって行った。
ああ、傘くらい私が買えばよかった。今まで怜ちゃんに奢ってもらうことにあまり違和感を抱いてきていなかったけれど、それに申し訳なさを感じるようになったのは、社会人になったからだろうか。

「雨だから楓の好きなドーナツ、全然並んでないじゃん」
「わっ、びっくりした」
「そんなに?ごめん」

ぼうっと改札の外を見つめていると、背後から怜が声をかけてきて身体が少し飛び上がる。ちょうど目線の先には高架下に店を構えるドーナツ屋があったので、それを見ていると勘違いしたのだろう。

「今日は買わなくていいの?引っ越してきた時にあれ好きだって言ってたじゃん」
「よく覚えてるね…今日はいいよ」

怜が傘の留め具を開きながらそう言って、歩き出した。
楓は怜のその背中を追いながら、その日のことを思い出して小さな声が漏れる。

「はい、入って」
「うん」

改札を出ると怜が傘を開き、楓を促した。
一番大きい傘を買ったのか、普段使っているものより余裕がある。
怜がリュックを前に抱くようにして持ち替えて、楓との間に傘の柄を移動させた。
傘の内側に、するりと風が抜けて行った。

傘の布地を激しく叩く雨音は、予想していたよりもずっと大きく、周囲の雑音をかき消している。

「濡れるよ?」
「ぬ、濡れてない」

少しだけ距離を空けて歩くと、それに気づいた怜が傘をこちらに傾けてくる。
抱えているリュックにパソコンが入っていることを知っている楓は、傘の柄を掴んで、元の位置へと押し戻した。

「肩、濡れてんじゃん。風邪引くからちゃんと入れって」
「濡れたい気分の日もあるじゃん」
「なに言ってんの?」

怪訝な顔をしてこちらを見ている怜の視線には気づかないふりをして、前から流れてくる車のライトに視線を向ける。まだ十四時なのに、雨のせいで薄暗い。

遠くがあまりよく見えなくて、行き交う人々も足早に進んでいる。
楓の歩幅に合わせるように歩く怜が持つ、この傘だけが周りに比べて少しだけゆっくり時間が過ぎている。

「意味わかんないこと言ってないで」
「やっ、やめて!」

こんなに近い距離で隣を歩いたことがあったか。
怜のパソコンが濡れてはいけない。
そんなに私を優先しなくてもいいのに。

いろんな感情が混ざり合って、でも何一つ上手く言葉にできなくて、再びこちらに傾けられた傘の柄を、必死に中央に戻そうとつい大きな声が出た。
それにハッとして怜の方を見ると、いつも通りの顔をした怜が、しばらく黙ってからぽつりと言った。

「…ごめん。うざかったよな」
「ち、違う!ごめん!れ、怜ちゃんのパソコンが濡れちゃうと思って!」
「え?」

本当は、それだけではない。
でも咄嗟に発したその言葉に、怜はリュックに視線を戻して納得したようだった。

「ああ、ケースに入れてるし、リュックも一応撥水だから大丈夫だよ」
「…そっか」
「ありがと。早く帰ろ」
「うん…」

徒歩五分がこんなに長く感じたのは、初めてかもしれない。

ぱしゃりと、小さな水たまりに足先が触れて、少しの水を周りに散らした。

ああ、しまったと思ってももう遅い。
ぱしゃりと水面が割れる感触と同時に、冷たい雨水がパンプスの縫い目からじわじわと浸食していった。

いつもなら、水が染みたと怜に言っている。
でも今日は、そんなことを口にする気になれなかった。

帰ったら、どう乾かそう。
そんなことに意識を集中させていないと、触れそうな肩に気づいてしまいそうな気がして、もう水たまりに入らないように足元だけに意識を集中させて歩いた。

早く止んでくれないと、明日から困る。