キャラメリゼ ワンルーム

 
 
 
 
 
 
 
「久しぶりに入ったな…」

怜がふ、と息を小さく漏らしながらそう言った。
最後に怜がこの家に来たのは、いつだっただろうか。

商社マンである怜の父が海外駐在になって、現地の責任者に選ばれた。
きっと十年は帰って来れない。
それについて行くことが出来ないから離婚することになったと聞かされて、三年で終わった、四人での同居生活。

町田の家からここまでの引越しを怜が手伝ってくれて、それが最後に来た時だ。
その時は、気持ちが沈んでいる母に寄り添うことに必死だった記憶しかない。

あまり詳しくは聞かされなかったけれど、きっと祖父母の今後の介護のことや、母のキャリアなども関係あるのだろうと楓は思っている。
今でも怜の父とは連絡を取っているらしいが、その話を母から聞くことはない。

「す、座って。なんか飲み物でも持ってこようか?」
「お腹いっぱいだからいいよ、ありがと」

中央にある小さなローテーブルと座椅子に怜を促し、楓がベッドにごろりとそのまま寝転ぶと、なんだか最近気を張っていたことに気づいて、少しだけ息が抜けた。

楓がベッドにごろりとそのまま寝転ぶと、怜が「ここの漫画読んでいい?」と声をかけた。ちらりと見ると、本棚に並んでいる背表紙をじっと凝視していて、楓は「どうぞ」と返す。

久しぶりに寝転んだ自分のベッドは、太陽の匂いと柔軟剤の香りに満ちていた。
きっと帰省のために干しておいてくれたのだろう。
怜の家に引っ越すときにベッドだけは新調したので、寝転んでいる感触すらも懐かしい。

「みんな怜ちゃんって呼んでくれるよな」
「あー、私が呼ぶからね」

初めて会った時に怜ちゃんと呼んでいいと言われて、そこからずっと楓が呼んでいたら母もそう呼ぶようになって、祖父母もそう呼ぶようになった。

「ごめんね、騒がしくて」
「全然。楓ん家っていいよな」
「えーそう?」

怜が漫画を一冊、本棚から取り出して言った。
ベッドに寝転びながら、その様子をなんとなく見つめる。

「楓がなんでそんなふうに育ったのか、すごいわかる」
「え、うるさいってこと?」
「ふっ、違うよ。褒めてる」

怜が笑いながら漫画を開いた。
楓もベッドの横に置いてあった漫画を手に取って、うつ伏せになってめくった。
しばらく無言になった。庭の木から蝉の声が聞こえ、クーラーの稼働音に混じって、たまにページを捲る音が微かに響いた。








「かえで」

耳元で囁かれるように柔らかく名前を呼ばれて、意識が一気に引き戻されるように瞼が勢いよく開いた。

夢の続きがまだ頭の隅に残っているような、ぼんやりとした意識の中で、怜の顔が不意に視界を満たした。
窓から差し込む陽光に透けた怜の髪が、縁取りのように柔らかく光っている。

「わぁっ!!」
「え」

なんとなく夢に怜が出てきていたような気がしていたからか、クリアになった視界でいきなり怜の顔が飛び込んできて、飛び上がるように身体を起こした。
視界の端でタオルケットが滑り落ち、空気に触れた肌がひやりとした。
肘ががくんと力が抜ける。

「びっくり、した」
「ごめん驚かせて。千夏さんがお茶しよって。ケーキとお茶の準備ができたって呼んでた」
「あ、ああ…そっか、ケーキね、言ってたね…」

怜は小さく笑って、「先に下に行ってる」と楓の部屋を出て行った。
完全に閉められなかった部屋の扉が、ふわりとまた開いていく。

でも、あんなに顔が近かったのは初めてだった気がして、起きたばかりの心臓がばくばくと音を立てていた。

身体からずり落ちたタオルケットをしばらく握り締め、気持ちが落ち着いてから楓は一階に降りて行った。





「あれ、おじいちゃんとおばあちゃんは?」
「すき焼きに使う野菜、庭で抜いてるよ」
「ふうん」

リビングに降りて行くとテレビだけがついていて、ソファは空だった。
怜と母がダイニングテーブルでケーキを食べていて、楓は怜の隣に腰掛ける。

「わ、ブルーベリー?」
「そう、クランブルチーズケーキに、庭で採れたブルーベリー入れてみた」
「すっごい美味いです」
「ほんと?ありがとうねー」

皿に乗っているチーズケーキの断面には紫の果肉がプリっと丸く見えていて、クリーム色の生地とのコントラストが美しかった。上にたっぷり乗せられたクランブルの形はまばらで、皿にいくつか落ちている。

「いただきます」と手を合わせてから口に運ぶと、「寝てたの?」と母が言った。「うん、いつの間にか」と返した。

「怜ちゃん、楓の同居を許してくれてありがとうね」

母が紅茶を飲む怜に、目線を向けて言った。
怜はごくりと軽く喉を鳴らしてから、「いえ」と短く言った。

「楓は迷惑かけてない?」
「全然、料理とか家事とかしてもらってて助かってます」
「なんかあったらいつでも言ってね」
「ふ、ありがとうございます」

怜と母の会話を隣で聞きながら、ケーキを口に運ぶ。
自分の話が隣でされているのは居心地はよくはない。

「楓も怜ちゃんも、いつでも帰ってきていいからね」

怜は穏やかに「はい」と返した。隣に座る怜の気配を感じながら、楓は黙々とケーキを食べ進めた。
断面に現れたブルーベリーの果肉は少しだけとろりとしていて、噛むたびに甘酸っぱい果汁がチーズと混ざり合う。
たまにプチリと弾けるブルーベリーの酸味が美味しくて、じっくり焼かれた優しい味のベイクドチーズケーキが舌にさらりと溶けていった。







夕食を終え、楓が風呂から上がって部屋に行くと、床に広げたラグの上に、怜は無造作に身体を預けていた。
読みかけの漫画はページが開いたまま伏せられ、怜の指先がクッションの端に少しだけ掛かっている。
そばにはクッションと漫画が数冊転がっていて、なんだかんだ続きが気になっていたらしい。机の上にはパソコンが開かれたまま、スリープ画面になっている。

「怜ちゃーん」

声をかけるも怜の反応はない。
一回寝入るとなかなか起きないことや、寝起きがあまりよくないことは一緒に住んでから毎日のように実感している。

仕事は、大丈夫なのだろうか。無理していないのだろうか。
ゆるく働いていると怜は言うが、副業もいくつかやっているというのだから大変に違いない。それなのに一緒に来てくれて、泊まってくれた。

怜のことを自分と同じように扱う祖父母と母の態度が嬉しく、誇らしくもなる。

「お風呂、どうぞー」

怜の唇は少しだけ開いていて、そこからすうすうと寝息が溢れている。
穏やかに上下する胸板に、重力に従って流れている黒髪。
LEDライトの白い光が、怜の鼻筋に淡い影を落とし、閉じられた瞼の睫毛が、規則的な寝息に合わせて小さく震える。

「れい、ちゃん」

身体を揺さぶろうとして、やめた。
今日起こされた時と、逆だ。

耳元で囁かれるように呼ばれた気がしたが、それは気のせいだったのだろうか。
それともあれは、夢の中の話だったのだろうか。

楓は床に膝をつけて、寝ている怜を見下ろした。ラグの毛が潰れるようにして膝を包んだ。

意外と、まつ毛が長い。
笑うとキュ、と持ち上がる口角が、下がっている。

「ん…」

怜が薄目を開けた。
ぼんやりとした瞳と目が合って、楓は我に返る。

「おっ、お風呂!空いたから!!すぐに入って!!」

それだけを言って、楓は部屋から出た。背後から「ん…?わかった…」と寝ぼけたような声が聞こえて、それを振り切るようにして慌てて階段を降りた。

リビングから聞こえるテレビの笑い声がひどく恋しくて、早くそれに浸りたかった。

吸い寄せられるように近づいた自分がよく分からなくて、感じたことのない気持ちから逃げたくて、踏み締めた木の板が、小気味よく踵の裏で音を立てた。