キミと歌姫はじめました!

「っ、はぁぁぁぁぁ!?!?!?!
二週間後のライブまでの新曲!?無理でしょ!!!」
炭酸の残ったコーラを盛大に吹き出しながら、七瀬有栖はテーブルに突っ伏した。
「ちょ、有栖、汚い」
向かいに座る成早零が、苦笑しながらティッシュを差し出す。
「だって無理じゃん!急すぎるって!!」
「まあ急だね」
「“まあ”で済ませるな!!!」
有栖は顔を上げ、勢いよく身を乗り出した。
「ライブだよ!?しかも初!!しかも二週間後!!」
「うん」
「新曲いるんでしょ!?」
「いるね」
「無理!!」
即答だった。
その勢いのまま、もう一度机に突っ伏す。
――七瀬有栖と成早零。
この二人は、動画投稿サイトで活動する音楽ユニット「LC_404」の正体である。
正体不明の大人気ボーカリスト・Iris。
すべての音を作る作曲家・Noir。
顔出しなし、ライブ未経験。それでも“最強”と呼ばれ、登録者数は五万人を超えている。
そんなふたりに届いたのが――初ライブ決定の知らせだった。
しかも、本番まで残り二週間。
「いやほんと無理だからね!?時間足りなすぎるから!!」
有栖は顔だけ上げて抗議する。
「今から曲作って、歌詞書いて、練習してって……え、寝る時間ある?」
「ないかもね」
「ほらぁ!!!」
再び机に突っ伏す音が響いた。
少しの沈黙。
その向こうで、零は変わらず落ち着いた声で言う。
「でもやるしかないでしょ」
「だからそれが無理って言ってるの!」
「じゃあやめる?」
ぴたりと、有栖の動きが止まる。
ゆっくりと顔を上げた。
「……やめる、って」
「ライブ、断る?」
零の表情は穏やかなままだった。
でも、その目はまっすぐ有栖を見ている。
「……それは……」
言葉に詰まる。
やりたくないわけじゃない。
むしろ、やりたい。
でも――怖い。
失敗したらどうしよう。
今までの全部が崩れたらどうしよう。
ぐるぐると、考えが回る。
「……できる気しないもん」
小さくこぼした本音。
その瞬間、零は少しだけ目を細めた。
「できるよ」
「だからなんでそう言い切れるの!?」
思わず声が大きくなる。
「時間ないし!ライブとか初めてだし!新曲とか絶対間に合わないし!」
言いながら、自分でも分かっていた。
これはただの言い訳だ。
怖いから、逃げたいだけ。
それでも止められなかった。
「私、失敗したくない……」
ぽつりと落ちた言葉。
その場の空気が、少しだけ静かになる。
零は少しだけ考えるように視線を落としてから、ふっと小さく笑った。
「じゃあさ」
「……なに」
「一人だったら、無理かもね」
有栖は一瞬きょとんとする。
「え……」
でもすぐに、むっとした顔になる。
「ちょっと、それどういう意味――」
「でも」
零は言葉を遮るように続けた。
その声は、いつも通り穏やかで。
でも、不思議と強かった。
「僕たち、二人でしょ」
有栖の言葉が止まる。
「有栖の声と、僕の音」
ゆっくりと、言い聞かせるように。
「今まで、それでやってきたじゃん」
思い出す。
最初の動画。
全然再生されなかった日々。
それでも楽しくて、続けてきた時間。
全部、隣には零がいた。
「……でも、それとライブは別でしょ」
「同じだよ」
即答だった。
「やることは変わらない。歌って、音つけて、届けるだけ」
「そんな簡単に言うけど……!」
「簡単だよ」
零は少しだけ笑う。
「だって」
一拍置いて。
まっすぐ、有栖を見る。
「僕たち、二人揃ったら最強じゃん」
その言葉に、有栖は何も言えなくなった。
根拠なんて、どこにもないはずなのに。
どうしてか、否定できない。
胸の奥が、じんわり熱くなる。
「……それ、ずるい」
小さく呟く。
「なにが」
「そういうこと、普通に言うとこ」
零はきょとんとした顔をする。
有栖はくしゃっと笑って、顔を上げた。
「……やるよ」
その目は、もう迷っていなかった。
「どうせやるなら、最高のやつ作る」
「うん」
「絶対成功させるからね」
「うん」
零はいつも通り、穏やかに頷く。
その表情に、有栖は少しだけ安心して。
大きく息を吸った。
「よし!!新曲作るぞ!!!」
こうして――
無謀すぎる二週間が、始まった。
翌日。
「おはよー!!」
校門をくぐった瞬間、有栖の明るい声が響く。
「おはよ、有栖!」
「昨日の課題やった?」
「やったやった!ていうか聞いてよ〜!」
次々とクラスメイトに声をかけては、楽しそうに笑い合う。
その中心にいるのが、七瀬有栖だった。
くるくると表情が変わって、誰とでもすぐに打ち解ける。
まさに“太陽”みたいな存在。
その少し後ろを、成早零がゆっくりと歩く。
「おはよう、成早くん」
「おはよう」
声をかけられれば柔らかく返すが、自分から前に出ることはない。
有栖の隣で、控えめに微笑んでいる。
――そんな、ごく普通の高校生のふたり。
まさかこの二人が、あの「LC_404」だなんて、誰も思っていない。

一時間目の授業が終わる。
チャイムと同時に、教室は一気にざわめき始めた。
「ねえ有栖、次移動教室だよね!」
「うん、一緒に行こー!」
そんな会話をしながら立ち上がり――
すれ違いざまに、零が小さく呟く。
「昨日の続き、どうする?」
有栖は一瞬だけ目線を動かす。
周りに誰も聞いていないことを確認してから、小さく口を動かした。
「バラード寄り……かな」
「ライブ向けなら、もう少しテンポ上げてもいいかも」
「えー、でも最初はちゃんと聴かせたいじゃん」
一見すると、ただの雑談。
でもその中身は、完全に“曲作り”の話だった。
「じゃあAメロは抑えめで、サビで一気に上げる?」
「それいいかも。私、サビでガツンといきたい」
「キーどうする?」
「ちょい高め。でも無理はしないライン」
ほんの数秒。
それだけ言葉を交わして、何事もなかったかのように歩き出す。
「有栖、早くー!」
「今行くー!」
手を振る友達の元へ、小走りで向かう有栖。
その後ろ姿を見ながら、零は小さく息を吐いた。
(……やっぱりすごいな)
あの短時間で、もう方向性が見えている。
有栖の中には、ちゃんと“歌”がある。
自分のやるべきことは、それを形にするだけだ。

二時間目と三時間目の間の休み時間。
有栖は机に突っ伏したまま、小声で言う。
「ねえ、歌詞なんだけどさ」
「うん」
「やっぱ“ライブ”意識したほうがいいよね」
「どういう意味で?」
「なんていうか……一緒に盛り上がれる感じ?」
「コール&レスポンス的な?」
「それそれ!」
でも、と有栖は少しだけ眉を寄せる。
「でもそれだけだと、なんか違う気もするんだよね」
「……うん」
零も頷く。
「有栖っぽくない」
「でしょ?」
くすっと笑う。
「ちゃんと“私の歌”にしたい」
その一言に、零は少しだけ目を細めた。
「じゃあ、無理に寄せなくていい」
「え?」
「ライブだからって、変える必要ないよ」
静かに、でもはっきりと。
「いつも通り、有栖が歌いたいものを歌えばいい」
有栖は一瞬きょとんとして――
「……そっか」
ふっと肩の力を抜いた。
「なんか変に考えすぎてたかも」
「考えるのはいいことだけどね」
「うん。でも」
にっと笑う。
「私らしくいく!」
その言葉に、零も小さく笑った。

チャイムが鳴る。
また次の授業が始まる。
ノートを開いて、ペンを持って。
周りと同じように、普通の生徒として過ごす時間。
でもその裏で、確実に進んでいる。
誰にも知られないまま。
ふたりだけの、新しい歌が。
昼休み。
「ごめん、今日ちょっと用事あって!」
「えーまた?最近忙しくない?」
「あとでちゃんと話聞くからさ!またね!」
軽く手を振って、有栖は教室を飛び出した。
向かう先は――屋上。
重たい扉を押し開けた瞬間、ふわっと風が吹き抜ける。
「うわ、気持ちいい〜!」
思わず声が弾む。
青い空。広がる街並み。
誰もいない空間に、有栖は大きく伸びをした。
「はぁ〜……」
胸いっぱいに空気を吸い込んで、そのままくるりと一回転する。
スカートがふわっと揺れて、髪がなびく。
「……なんか、歌いたくなる」
ぽつりと呟いて、自然と鼻歌がこぼれた。
まだ形にもなっていない、断片的なメロディ。
でもそれは、昨日からずっと頭の中をぐるぐるしていたものだった。
「んー……ここ、もうちょい上げたほうがいいかな」
一人でぶつぶつ言いながら、何度も繰り返す。
高くしてみたり、落としてみたり。
テンポを変えてみたり。
風に乗せるように、自由に。
すると――
「そのフレーズ、もう一回」
後ろから声がした。
びくっとして振り返る。
「うわ、びっくりした!」
そこに立っていたのは、息を少しだけ切らした零だった。
手にはアコースティックギター。
「遅くなった」
「音楽室?」
「うん、借りてきた」
そう言って、軽くギターを掲げる。
「いいねそれ!雰囲気出るじゃん!」
有栖はぱっと顔を明るくした。
「で、さっきのもう一回」
「え、いきなり?」
「忘れる前に」
有栖は少しだけ考えてから、さっきのメロディを口ずさむ。
「〜〜〜♪」
まだ曖昧な旋律。
でも、零はすぐにそれを拾った。
ぽろん、と弦を鳴らす。
「こんな感じ?」
「え、ちょっと待ってすご……」
もう一度、有栖が歌う。
それに合わせて、コードが重なる。
さっきまで“ただの鼻歌”だったものが、
一気に“曲”になっていく。
「やば……楽しいこれ」
「でしょ」
零は少しだけ笑う。
「サビに持っていくなら、ここで一回落としたほうがいいかも」
「えーでも盛り上げたいんだよね」
「じゃあリズムで上げる?」
「……あ、それいいかも」
二人で顔を見合わせて、同時に笑う。
言葉は少なくても、ちゃんと通じる。
「もう一回いくよ」
「うん」
風の音に混ざって、ギターの音が響く。
有栖の声が、それに重なる。
さっきよりも少しだけはっきりしたメロディ。
でもまだ、どこか未完成で。
「んー……なんか惜しい」
「もうちょい何か足りないね」
考え込む二人。
沈黙――のはずなのに、不思議と気まずくない。
むしろ、心地いい。
「……ねえ」
有栖がぽつりと呟く。
「これさ、ライブで歌うんだよね」
「うん」
「目の前に人いるんだよね」
「うん」
少しだけ間があって。
「……やばくない?」
「今さら?」
くすっと零が笑う。
「でも、いいと思うよ」
「なにが?」
「その感じ」
「え?」
「ちょっと浮かれてて、ちょっと怖がってる感じ」
零はギターを軽く鳴らす。
「そのまま歌にすればいい」
有栖は少しだけ目を見開いた。
「……そのまま?」
「うん、そう。」
飾らなくていい。
上手くやろうとしなくていい。
今のまま。
「……それ、アリかも」
ふっと力が抜ける。
「よし、じゃあそれでいこ」
「うん」
またギターが鳴る。
有栖が歌う。
さっきよりも少しだけ、まっすぐに。
その音はまだ未完成で、バラバラで。
でも確かに、同じ方向を向いていた。
風が吹き抜ける屋上で。
誰にも知られないまま。
ふたりだけの音が、少しずつ形になっていく。
風に乗せるように、何度も歌って、弾いて。
少しずつ形になりかけては――崩れる。
「んー……なんか違う」
有栖は眉を寄せた。
さっきまで“いいかも”と思っていたフレーズが、急に色あせて聞こえる。
盛り上がりきらないサビ。
印象に残らないメロディ。
どこかで聞いたことがあるような、ありきたりな流れ。
「……決め手がない」
零もギターを軽く鳴らしながら呟く。
何度も試して、削って、繋げて。
それでも、“これだ”という形にはならない。
「もうちょいでいけそうなんだけどなぁ……」
有栖はその場にしゃがみこんで、空を見上げた。
青い空はさっきと変わらずきれいなのに、頭の中だけがぐちゃぐちゃしている。
あと一歩。
でもその一歩が、どうしても埋まらない。
――キーンコーンカーンコーン。
無情にチャイムが鳴り響いた。
「あ」
現実に引き戻される。
「……やば」
「戻るか」
零がギターケースを肩にかける。
「これ、返してくるから」
「おっけー」
階段の手前で足を止めて、有栖は振り返った。
「ありがとね、ギター借りてきてくれて」
「どういたしまして」
軽く手を振る零と別れて、有栖は一人、教室へと戻る。

「七瀬、遅いぞー」
「すみませーん」
軽く謝りながら席に着く。
黒板には、すでに数式が並んでいた。
数学。
いつもならそれなりに聞いているはずの授業。
でも今日は――
(……無理)
頭に入る気がしなかった。
先生の声が、遠くで流れているみたいにぼやける。
「じゃあこの問題を――」
チョークの音。
ノートを開く。
ペンを持つ。
でも書くのは、数式じゃない。
ぽつり、ぽつりと。
単語を書き出す。
“ライブ”
“声”
“届ける”
“怖い”
書いては消して、また書いて。
「……なんか違う」
小さく呟く。
しっくりこない。
どれも、薄っぺらく感じる。
(そもそも……)
ペン先が止まる。
(何書きたいんだっけ、私)
ライブ用の曲。
でもそれって、具体的に何?
盛り上がる曲?
感動する曲?
一緒に歌える曲?
どれも正解な気がして、どれも違う気がする。
(曲調も決まってないし……)
バラードなのか。
アップテンポなのか。
ロック寄りなのか、ポップなのか。
何も決まっていない。
真っ白だ。
「……はぁ」
小さく息を吐く。
ノートの上には、バラバラな言葉だけが並んでいた。
どれも、繋がらない。
(どうしよう)
胸の奥が、じわじわと重くなる。
さっきまで楽しかったはずなのに。
今はただ、“間に合わないかもしれない”という焦りだけが広がっていく。
「七瀬ー、聞いてるかー?」
「……あ、はい!」
はっとして顔を上げる。
教室の視線が一瞬だけ集まって、すぐに逸れた。
「じゃあこの問題やってみろ」
「……え、あー……」
黒板を見る。
でも、数字がまったく頭に入ってこない。
(やば……)
チョークを持たされて、ぎこちなく式を書く。
間違える。
小さく笑いが起きる。
「ちゃんと聞いとけよー」
「すみません……」
席に戻りながら、さらに落ち込む。
(何やってんの、私……)
音楽もダメ。授業もダメ。
全部中途半端。
ノートを見つめる。
書きかけの言葉たち。
――怖い。
――でも、歌いたい。
その二つだけが、やけに強く残っていた。
五時間目が終わり、教室の空気が少しだけ緩む。

「はー、疲れた……」

誰かの声が聞こえる中、有栖はぼんやりとノートを見つめていた。

次は六時間目、古文。

先生が来るまでの短い時間も、無駄にはできない。

(……考えなきゃ)

ペンを握り直す。

ノートの新しいページを開いて、また言葉を書き始めた。

“友情”
“恋愛”
“切ない”

ありがちなテーマを並べてみる。

友達と支え合う歌。
好きな人を想う歌。
別れやすれ違いの歌。

さらに――

“ふたり”
“相棒”
“隣”

自分と零を、少しだけ重ねた言葉も書いてみる。

でも。

「……なんか違う」

小さく呟いて、ペンを止めた。

どの言葉も、それっぽくはなる。

繋げれば、ちゃんと“歌詞”の形にはなる。

でも――

(全部、どっかで聞いたことある感じ……)

心に引っかからない。

響かない。

ただ並べただけの、薄い言葉。

「うーん……」

ぐしゃっと前髪をかきあげる。

ノートには、書いては消した跡がいくつも残っていた。

綺麗じゃない。

まとまりもない。

なのに、しっくりもこない。

(なんでだろ……)

ライブで歌う曲。

ちゃんと届けたいのに。

その“ちゃんと”が、分からない。

ふと、斜め後ろに視線を向ける。

零の席。

いつもなら穏やかにノートを取っているはずのその姿が――

今日は違った。

シャーペンのノック部分を顎に当てて、少しだけ顔をしかめている。

(……え)

一瞬、目を疑う。

零があんな顔をするのは、かなり珍しい。

(あいつも……詰まってる?)

音楽のことになると、どこか余裕があるように見える零。

そんな彼が、はっきりと“悩んでいる”表情をしている。

それを見た瞬間。

胸の奥が、少しだけざわついた。

(やば……)

自分だけじゃない。

でも、それは安心じゃなくて。

むしろ――

(ほんとに間に合わないかも)

そんな不安が、現実味を帯びてくる。

キーンコーンカーンコーン。

チャイムが鳴り、古文の先生が教室に入ってくる。

「はい、じゃあ教科書開いてー」

ページをめくる音。

いつも通り始まる授業。

でも有栖の頭の中には、文章なんて一つも入ってこない。

ノートの端に、もう一度ペンを走らせる。

“届けたい”

その一言を書いて、止まる。

(誰に?)

答えが出ない。

(何を?)

言葉が浮かばない。

静かな教室の中で。

有栖の中だけが、ぐちゃぐちゃに揺れていた。
「じゃあねー!また明日!」

「ばいばーい!」

教室を出る直前まで、いつも通り明るく手を振る。

でも一歩廊下に出た瞬間、有栖は小さく息を吐いた。

「……はぁ」

頭の中が、ずっとぐちゃぐちゃしたまま。

考えても考えても、答えが出ない。

(全然ダメだ……)

そんなことを思いながら歩いていると――

「遅い」

壁にもたれて待っていた零が、顔を上げた。

「ごめん」

有栖は少しだけ笑ってみせる。

「待った?」

「そんなに」

短いやり取り。

それだけで、なんとなく空気が落ち着く。

「行こっか」

「うん」

並んで歩き出す。

校舎を出て、夕方の空気に包まれる。

オレンジ色に染まりかけた道を、ふたりで歩く。

向かう先は、公民館。

今日はそこで、ライブ開催の発表配信をする予定だ。

しばらく無言のまま歩いて――

「……ねえ」

先に口を開いたのは、有栖だった。

「うん」

「曲、どう?」

遠回しな聞き方。

でも、意味はちゃんと伝わる。

零は少しだけ視線を前に向けたまま答えた。

「正直、微妙」

「……だよね」

苦笑が漏れる。

「なんかさ、全部それっぽくはなるんだけどさ」

「決め手がない」

「それ!」

思わず声が少し大きくなる。

「なんかこう、“これだ!”ってならないんだよね」

「うん」

零も小さく頷く。

「どこかで聞いたことある感じになる」

「そうそう!それ!」

有栖は思わず笑った。

「やば、同じこと思ってたんだけど」

「だと思った」

少しだけ、空気が軽くなる。

でも――

「……間に合うかな」

ぽつりと漏れた言葉。

足元を見ながら、有栖は小さく続ける。

「このままじゃさ、普通の曲しかできなくない?」

“最強”なんて言われてるのに。

期待されてるのに。

それに応えられなかったら――

「別にいいんじゃない」

「……え?」

思わず顔を上げる。

零はいつも通りの顔で、あっさり言った。

「普通でも」

「いやいやいやいや、よくないでしょ!?」

「なんで」

「だってライブだよ!?初だよ!?」

「うん」

「絶対すごいって思われたいじゃん!」

「思われたいの?」

「思われたいでしょ普通!!」

有栖は勢いよく言い切ってから、はっとする。

少しだけ間があく。

零は少しだけ考えるようにしてから、口を開いた。

「じゃあさ」

「……なに」

「“すごい”って、何?」

その問いに、有栖は言葉を詰まらせた。

「え……」

すごいって、何?

歌が上手いこと?
盛り上がること?
感動すること?

どれも正解っぽいのに、どれも違う気がする。

「……わかんない」

正直にそう言うと、零は小さく頷いた。

「僕も」

「え、そっちも?」

「うん」

少しだけ困ったように笑う。

「だから詰まってる」

その言葉に、有栖は一瞬きょとんとして――

「なにそれ」

ふっと笑った。

「なんか安心したわ」

「安心するところ?」

「するでしょ。あんたでも詰まるんだなって」

「失礼だな」

でも、その声はどこか柔らかい。

少しだけ沈黙が流れる。

夕焼けの中、並んで歩く。

「……でもさ」

有栖が前を見たまま言う。

「なんか、こう……ちゃんと届けたいんだよね」

「うん」

「画面越しじゃなくてさ、目の前にいる人に」

その言葉に、零は少しだけ目を細めた。

「じゃあ、それでいいんじゃない」

「え?」

「“届けたい”って思ってるなら」

シンプルな言葉。

でも、すとんと胸に落ちる。

「……そっか」

小さく頷く。

難しく考えすぎてたのかもしれない。

「とりあえずさ」

有栖は前を向いて、少しだけ笑った。

「今日の配信、ちゃんとやろ」

「うん」

「逃げられないようにしないと」

「もう逃げ場ないけどね」

「それな」

ふたりで軽く笑う。

気づけば、公民館はもうすぐそこだった。

まだ曲はできていない。

答えも見えていない。

でも――

隣には、ちゃんといる。

それだけで、少しだけ前に進める気がした。
公民館に到着する頃には、空はすっかり夕焼け色に染まっていた。

「こんにちはー」

自動ドアを抜けて受付に声をかけると、

「あら、今日も来たのねぇ」

顔なじみのおばちゃんが、にこにこと手を振る。

最初はぎこちなかったやり取りも、今ではすっかり日常の一部だ。

「今日もホール借ります」

「はいはい、いつものね」

手慣れた様子で鍵を取り出しながら、

「頑張ってるわねぇ、ほんとに」

なんて言われて、有栖は少しだけ照れくさそうに笑った。

「ありがとうございます」

零が軽く会釈する。

鍵と、預けていた機材を受け取る。

カメラやマイク、細かい機材が入ったケース。

もう何度も繰り返してきた流れだ。

---

重たい扉を開けて、ホールに入る。

「……やっぱ広いよね」

ぽつりと有栖が呟く。

誰もいない空間。

静まり返ったステージ。

そこに立つと、少しだけ背筋が伸びる。

「そのうちここ埋まるんでしょ」

「やめて、想像したら無理」

有栖はぶんぶんと首を振る。

零は軽く笑いながら、すぐに機材の準備を始めた。

三脚を立てて、カメラを固定する。
マイクの位置を調整して、音をチェックする。

一つ一つの動きに無駄がない。

その横で、有栖は軽く息を吸い込んだ。

「……あー……」

声を出す。

ホールに、すっと響く。

もう一度、少しだけ強く。

「——あぁぁ……」

広い空間に、自分の声がまっすぐ伸びていく。

それだけで、胸の奥がじんわりと温かくなる。

(……やっぱ好きだな)

目を閉じる。

声を出す。ただそれだけ。

それが昔から、どうしようもなく心地よかった。

外のことも、焦りも、不安も。

全部、一瞬だけ消える。

「調子どう」

機材から目を離さないまま、零が声をかける。

「んー……悪くはない」

正直に答える。

さっきまでの“出ない感じ”は、少しだけ薄れていた。

「でも、完璧じゃない」

「完璧じゃなくていいでしょ」

さらっと返ってくる。

有栖は思わず苦笑する。

「それ、今日めっちゃ言うね」

「事実だから」

零はカメラの角度を微調整しながら続ける。

「むしろ今日の配信、そこ見せてもいいかもね」

「え?」

「ライブやります、新曲作ってます、でも苦戦してます、みたいな」

「いやいやいや、それ大丈夫!?」

「人間味あっていいじゃん」

「いやそれはそうだけど……!」

有栖は少し考えて、うーんと唸る。

「……でも、ちょっと嫌かも」

「なんで」

「かっこよくいたいじゃん」

即答だった。

その言葉に、零は一瞬だけ手を止める。

それから、少しだけ笑った。

「十分かっこいいと思うけど」

「どこが」

「全部」

「軽いなぁ……」

頬を膨らませる有栖を横目に、零は再び機材に向き直る。

「配信の流れ、もう一回確認しとく?」

「うん」

有栖は指折り数えながら言う。

「まずライブ発表して」

「うん」

「新曲やりますって言って」

「うん」

「で、最後にリクエスト多かった曲一曲歌って終わり」

「OK」

シンプルな構成。

でも、その“新曲”がまだない。

「……やばいね、改めて思うと」

ぽつりと漏れる。

「やばいね」

零もあっさり同意する。

「でもやるしかない」

「それな」

顔を見合わせて、少しだけ笑う。

準備は、ほぼ整った。

カメラも、音も問題ない。

あとは――

「……よし」

有栖は軽く頬を叩く。

「やりますか」

「うん」

零がカメラの前に立つ。

有栖も、マイクの前へ。

スイッチを入れる。

赤いランプが灯る。

画面の向こうには、まだ見えない誰かがいる。

でも確かに、繋がっている。

「……こんにちは」

有栖が、ゆっくりと口を開いた。

いつもと同じ。

でも少しだけ違う、最初の一言だった。
ライブ配信のセッティングが終わると、有栖はひとり隣の部屋へ向かった。
ホールの片隅にある小さな控室。
「ふぅ……」
扉を閉めると、少しだけ肩の力が抜ける。
制服のリボンを緩め、慣れた手つきで上着を脱ぐ。
クローゼット代わりのハンガーにかけて、代わりにいつものラフな衣装へと着替えていく。
動きやすい、少し大きめのパーカー。
それが、有栖にとっての“歌うときの自分”だった。
鏡の前に立ち、軽く髪を整える。
黒い長髪が肩に流れ落ちる。
「よし」
小さく呟いて、最後に取り出したのは――白い狐の半面だった。
口元と輪郭だけを隠す、そのお面。
揺れるたびに、細いタッセルと小さな鈴がかすかに鳴る。
ちりん、と小さく。
その音が、有栖は昔から好きだった。
(これ、やっぱいいなぁ)
そっと顔に当てる。
視界が少しだけ変わる。
でも不思議と、息苦しさはない。
むしろ――“歌うスイッチ”が入る感じがした。

元々は、完全に姿を出さずに配信していた。
声だけのシンガー。
それでも十分だった。
それなのに、ある動画がきっかけで状況は変わった。
「本当は歌ってないんじゃないか」
「毎回別の人が歌ってる説」
そんなコメントが一気に広がった。
気づけば、それは“疑惑”として拡散されていた。
だから零が提案した。
「最低限、存在は見せたほうがいい」
そして選んだのが、この半面だった。
全部を隠さない。
でも全部は見せない。
その“ちょうどいい距離”が、今の自分には合っていた。

(オッドアイとかバレたら、絶対余計なこと言われるしね)
零の目は、少しだけ特徴的な色をしている。
フランス人の祖母を持っているせいか、
右目は色素が抜けたようなグレー。
左目は燃えるような赤色だった。
有栖自身はそんな零の目を宝石のようだと気に入っており、
クラスメイトや知り合いももう慣れた様子だったのだが、
「これ、下手したらビジュアル系って言われるよ」
零がそう言って顔を見せることを躊躇ったため、顔は出さないことにした。
見た目じゃなくて、声で勝負する。
それが、二人の共通の決め事だった。

「有栖」
外から声がする。
零だ。
「準備できてる?」
「うん、今行く!」
軽く返事をして、タッセルが揺れるのを感じながら立ち上がる。
鈴がちり、と鳴った。
(よし)
鏡の中の“アイリス”を一度だけ見て、扉へ向かう。
ここから先は――
歌う自分の時間だ。
部屋を出た瞬間、有栖は一瞬だけ足を止めた。
そこに立っていたのは――
黒いスーツに、黒いネクタイ。
そして、自分と同じ形の狐面をつけた成早零だった。
ただし、それは白ではない。
深い闇のような黒。
まるで影そのものが形を持ったような、もう一人の“誰か”。
(……Noir)
有栖は小さく息を飲む。
いつも隣にいるはずの零なのに、そこにいるのは“別の存在”のように見えた。
黒狐の面の奥から、静かな視線が向けられる。
その手には、アコースティックギター。
公民館の舞台袖に置かせてもらっている楽器の中から、持ってきたのだろう。
「それ」
有栖が視線で示すと、零は軽く頷いた。
「エレキよりこっちのほうが、今日の雰囲気に合うと思って」
淡々とした声。
でもその一言だけで、すべてが決まっている気がした。
(……ほんと、そういうとこだよね)
有栖は小さく笑う。
白い狐面の自分と、黒い狐面の零。
光と影みたいに並んで立つ二人。
どちらも顔は見えないのに、不思議と“誰か”がそこにいると分かる。
――IrisとNoir。
ただの名前じゃない。
今の自分たちそのものだった。
「行こっか」
零が短く言う。
「うん」
有栖も頷く。
タッセルの鈴が、ちり、と小さく鳴った。
カメラの前に座る。
赤いランプが灯った瞬間、空気が変わった。
「……いくよ」
小さく零が言う。
有栖は仮面の奥で息を整えた。
配信開始。
一瞬の無音のあと、コメント欄が爆発するように流れ始める。
《きたあああああ!!》
《LCだ!!》
《待ってた!!》
《Irisーー!!》
画面の向こうの熱量に、有栖はほんの少しだけ目を細めた。
その隣で、黒い狐面のNoirが静かに口を開く。
「みなさん、こんにちは」
落ち着いた柔らかい声。
それを引き継ぐように、有栖も軽く頷いてから明るく声を重ねた。
「――Liminal Codeです!」
《きたーーーー!!》
《エルシー!!》
《声好きすぎる》
コメントがさらに加速する。
零は一度だけ画面を見てから、本題に入った。
「早速ですが、今日は大事なお知らせがあります」
空気が少しだけ引き締まる。
有栖も小さく息を吸った。
「Liminal Code、初のライブを開催します」
一瞬、コメント欄が止まり――
次の瞬間、弾けるように流れ始めた。
《え!?!?》
《ライブ!?!?》
《まじで!?》
《やば!!》
「日時は二週間後、6月28日・日曜日です」
零の声は淡々としているのに、確かに熱を持っていた。
「チケットは抽選になります。配信終了後、公式サイトから申し込み可能です」
有栖は横で静かに頷く。
(ほんとに……ここまで来たんだ)
「そして会場は――」
一拍。
「都心にある花園ドームです」
その名前が出た瞬間、コメント欄がさらに大きく揺れた。
《花園ドーム!?!?》
《あそこってガチの大箱じゃん》
《やばすぎる》
有名すぎるライブホール。
一度は名前を聞いたことがある場所。
その現実感に、有栖の心臓が少しだけ跳ねる。
零は続けた。
「そして、このライブで――」
少しだけ間。
画面の向こうの空気が止まる。
「新曲を披露します」
その言葉で、コメントは一気に加速した。
《新曲!?!?》
《やば楽しみすぎる》
《絶対神曲じゃん》
有栖はその反応を見ながら、仮面の奥で小さく息を吐いた。
(……やるしかない)
まだ完成していない曲。
でも、もう逃げられない場所まで来ている。
零が最後に言う。
「詳細は配信終了後、公式サイトで確認してください」
「それでは――」
有栖は一瞬だけ間を置いて、笑うように声を重ねた。
「今日の一曲!」
「それじゃあ、次はリクエストいきます」
Noirの声が静かに響くと、コメント欄が一気に動いた。
《これ待ってた!!》
《どれ歌うんだろ》
《全部聞きたい》
「たくさんありがとう」
有栖――Irisが軽く手を振るようにして、画面に向かって明るく笑う。
「その中でも、一番多かった曲にしよっか」
一瞬だけ間を置いて、零が頷く。
「……ヨルガオ」
その名前が出た瞬間、コメント欄がざわっと揺れた。
《うわああああああ》
《それはアツい》
《古参泣くやつじゃん》
ヨルガオ。
Liminal Codeとして最初に公開した、デビュー曲。
まだ誰にも見つかっていなかった頃の、原点の歌。
今のような登録者数もなければ、注目もなかった時代の音。
だからこそ、この曲をリクエストしているのは、初期から追っているリスナーが多い印象だった。
「いいね、それ」
Irisは両手で小さく丸を作る。
そして、軽く指を鳴らした。
カチ、と小さな音。
「3、2、1」
そのカウントと同時に、空気が変わる。

ぽろん、とギターが鳴った。
Noirの指が弦を弾くたびに、優しく波紋のような音が広がっていく。
その上に――
「―――朝じゃなく僕は夜に咲く。
キミの隣で寄り添うように。
暗くて悲しいこの夜も、きっと僕らなら超えていける。」
Irisの声が重なった。
透き通るような、高くも低くも自由に揺れる声。
まるで夜の空気そのものをなぞるような、静かで美しい歌声だった。
仮面で顔は見えない。
それなのに、なぜか“表情”が見える気がする。
楽しそうに歌っていることだけは、はっきり伝わってくる。
Noirもまた同じだった。
淡々とした姿勢のまま、指先だけはやけに柔らかい。
ギターの音は優しく、それでいて芯がある。
ふたりの音が重なるたびに、曲が“完成していく”。

コメント欄は一気に加速していた。
《これだ……これがヨルガオ……》
《懐かしすぎて泣く》
《初期から見ててよかった》
《やばい、普通に鳥肌》
《2人とも楽しそうなのいいな》
《仮面つけてるのに雰囲気わかるのすごい》
画面の向こうで、誰かの記憶が揺れている。
昔の曲。まだ誰にも届かなかった頃の歌。
それが今、何万人もの前で鳴っている。

Irisは歌いながら、ふと感じていた。
(ああ、ちゃんと届いてる)
ただ画面の向こうじゃない。
誰かの“時間”に触れている感覚。
Noirのギターが一瞬だけ強く鳴る。
その音に合わせて、Irisの声が少しだけ高く伸びた。
夜の中に、ひとつの光が差すように。

最後の一音が消える。
静寂。
そして――
《Irisの声やべー》
《っぱエルシーなんだよなぁ》
《こーいうのでいいんだよ》
《Noirのギターまじ好き》
《最高すぎる》
コメント欄はまだ熱を持ったままだった。
Irisは小さく息を吐いて、楽しそうに笑った。
「みんなありがとう」
Noirも静かにギターを下ろす。
「……いい曲だよね」
その一言に、Irisは少しだけ目を細めた。
「うん!」。
仮面の奥で、確かに笑っていた。
それは、昔の曲なのに。
今が一番、“完成している”気がした。
「それじゃあ、今日はここまでです」
Noirの声が、すっと空気を切り替えた。
さっきまでの熱が、少しだけ落ち着く。
Irisもそれに合わせるように、軽く手を振った。
「ライブ、楽しみにしててね!」
明るい声。
その一言で、コメント欄が最後にもう一度盛り上がる。
《絶対行く!!》
《抽選当てる!!》
《楽しみすぎる》
「ありがとう」
Noirが小さく頭を下げる。
そして――
配信終了。
画面が暗転した瞬間、ふたりは同時に息を吐いた。
「ふぅ……」
「終わったね」
張っていた糸が、少しだけ緩む。
有栖はそのまま両手を上に伸ばした。
「はぁーー……疲れたぁ」
伸びをしながら、仮面の紐をゆっくりと外す。
タッセルが揺れて、鈴がちり、と鳴った。
零も同じように黒い狐面を外す。
一瞬だけ、いつもの高校生の顔に戻る。
「で、どうなってる?」
零の一言に、有栖はスマホを手に取った。
公式サイト。
ライブ抽選応募ページ。
「えっと……」
画面を開いた瞬間、有栖の目が少し見開かれる。
「……6000超えてる」
「もう?」
零が少しだけ眉を上げる。
花園ドームの収容人数はおよそ一万人前後。
まだ半分以上余裕があるとはいえ――
「もう半分近くいってるってことじゃん……」
有栖はぽつりと呟いた。
じわじわと、実感が湧いてくる。
(ほんとに……見てくれてるんだ)
画面の向こうの数字が、ただの数字じゃなくなる。
誰かが、来たいと思ってくれている。
その事実が、どうしようもなく嬉しかった。
気づけば、零と目が合っていた。
一瞬の沈黙。
そして――
「やばくない?」
「やばいね」
どちらともなく笑う。
次の瞬間。
ぱん、と軽い音が響いた。
ハイタッチ。
手のひらがぶつかる感覚が、やけに現実的だった。
「よし」
有栖が笑う。
「やるしかないね、これ」
「うん」
零も小さく頷く。
満面の笑みのまま、ふたりはそのまま立ち尽くす。
まだ完成していない曲。
まだ見えない本番。
それでも――
確かに、ここまで来ている。
その実感だけが、胸の奥で静かに熱を持っていた。
それから、時間は目まぐるしく過ぎていった。

気づけば――ライブまで、残り一週間を切っていた。

「……はぁぁ……」

自室のベッドに寝転がったまま、有栖は天井を見上げていた。

そのまま、ゆっくりと両手で顔を覆う。

(やばい)

その一言しか出てこない。

ラグの上には、座椅子に腰を下ろした零。

顎に手を当てたまま、ノートに何かを書いている。

真剣な目。

だが次の瞬間――

二重線。

すぐに消される。

また書く。

また消す。

その繰り返し。

「……ダメだな」

零が小さく呟く。

「え、そっちも?」

有栖がベッドから顔だけ起こす。

「うん」

即答だった。

部屋の空気が、少しだけ重くなる。

未だに――何も決まっていない。

ジャンルも。

使う楽器も。

歌詞も。

メロディも。

全部、白紙のまま。

(今までで一番やばいかも……)

有栖は再びベッドに沈み込んだ。

今までは違った。

どちらかが詰まっても、もう片方が必ず形にしてくれた。

有栖が歌詞で迷えば、零が音をつける。

零がメロディで止まれば、有栖が言葉を落とす。

そうやって、いつも完成してきた。

なのに今回は――

「何も出てこない」

零がぽつりと言う。

その言葉に、有栖は天井を見たまま答える。

「うん……出ない」

沈黙。

時計の針の音だけが、やけに大きく感じる。

(こんなこと、今までなかったのに)

有栖は唇を噛む。

ふたりなら大丈夫だと思っていた。

どんな曲でも、どんな状況でも。

でも今回は違う。

“始まり方”すら見えていない。

「……ジャンルすら決まってないって、逆にすごいよね」

有栖が苦笑する。

「ポジティブに言えばね」

零も薄く笑った。

でも、その笑みはいつもより少しだけ浅い。

またノートに視線を落とす。

書く。

消す。

書く。

消す。

(何が足りない)

零の手が止まる。

(どこが間違ってる)

有栖も天井を見つめたまま考える。

でも、答えは出ない。

ただひとつだけ、はっきりしているのは――

「……やばいね」

有栖の声。

「やばいね」

零の返事。

同じ言葉。

同じ温度。

なのに、今回は笑えない。

ふたりとも、同時に分かっていた。

これまでと同じやり方では、たぶん間に合わない。

それでも。

それでもまだ、手は止められない。

まだ終わっていない。

まだ、作らなきゃいけない。

ライブまで、あと一週間。
ノートには、ギターコードがびっしりと並んでいた。

C、G、Am、F――

有栖には正直、ほとんど意味が分からない。

ただ、そこに“音楽”があることだけは分かる。

「ここ」

零が指で一箇所を示す。

そして、軽く息を吸ってから、リズムを口ずさみ始めた。

「タッ、タタッ……ここで少し抜く感じ」

その声に合わせて、空気が動く。

有栖はじっと耳を澄ませた。

「……あ、そこもう少し跳ねてる方が好きかも」

「跳ね?」

「うん、ちょっと明るくしたい」

零は一瞬考えてから、コードを弾き直す。

ぽろん、と音が変わる。

「……こっち?」

「それそれ!」

有栖は思わず笑った。

「なんか今のいい!」

「じゃあ採用」

さらっと言う零。

そのやり取りが、妙に楽しい。

また別の箇所。

零が指を止める。

「ここのクラップ」

「うん」

「ギター弾きながらだと無理だな」

「じゃあ私やるよ」

即答だった。

零が少しだけ目を瞬かせる。

「できるの?」

「できるかは知らないけど、やる」

「勢いすぎない?」

「えぇ〜?勢い大事じゃん!」

軽く笑い合う。

---

気づけば、部屋の空気はさっきまでとは全く違っていた。

コードを決める零。

リズムを口ずさむ零。

そこに、有栖が割り込む。

「そこ歌うときさ、もうちょい息入れたくない?」

「確かに」

「じゃあ一拍増やそ」

「いいね」

自然に会話が続く。

止まらない。

迷いながらも、どんどん形になっていく。

---

そのとき、有栖はふと思った。

(あれ……)

今まではいつも同じだった。

零が作曲して、有栖が歌詞を書く。

零が演奏して、有栖が歌う。

それで完璧に成立していた。

役割がはっきりしていて、それでよかった。

むしろ、それが“完成形”だと思っていた。

でも――

今は違う。

「こっちの方が好きかも」

「じゃあそうしようか」

その一言で、音が変わる。

一緒に“作っている”感じがする。

どっちが上でも下でもない。

ただ、混ざっていく。

---

「……なんかさ」

有栖がぽつりと呟く。

「いつもより、今の方が楽しいかも」

零がギターから顔を上げる。

「うん、僕も。」

短い返事。

でも、その一言で十分だった。

有栖は笑う。

「もっと早く気づけばよかったね」

「だね」

零も少しだけ口元を緩める。

またコードが鳴る。

有栖がリズムを叩く。

ふたりの音が、少しずつ重なっていく。

今まで知らなかったやり方で。

今までよりずっと、近くで。
気づけば、時計の針は深夜0時を指していた。

「……え、もうこんな時間?」

有栖はぼんやりと画面の時計を見て呟く。

夕飯を食べた記憶もない。

ただひたすら、音と向き合っていた。

ノートの上には、ぎっしりと書き込まれたコードとリズムのメモ。

さっきまでバラバラだった断片が、今はひとつの形になりかけている。

「とりあえず、ここまでは完成」

零がギターを軽く叩きながら言った。

「大まかな構成はできたね」

「うん……やば、ほんとにできたじゃん」

有栖は少し呆然としながら笑う。

ずっと“無理かも”と思っていたものが、ちゃんと形になっている。

まだ完璧じゃない。

でも、確かに前に進んでいる。

---

「じゃあ今日はここまでにしよ」

零がギターをケースに戻しながら言う。

「続きは明日」

「うん……そうだね」

有栖は大きく伸びをした。

身体のあちこちが重い。

でも、妙に心地いい疲れだった。

---

有栖はクローゼットを開けて、布団を引っ張り出す。

「泊まってっていいの?」

零が少しだけ目を瞬かせる。

「今さら帰るのもだるいでしょ」

「まあ、それはそうだけど」

軽く笑い合う。

有栖は部屋の隅に座椅子やミニテーブルをずらして、スペースを作った。

布団を広げると、ふかっと空気が抜ける音がする。

「はい、完成」

「雑」

「いいの、寝れれば」

零は少しだけ笑って、ギターケースを壁際に寄せた。

---

部屋の明かりが少し落ちる。

静かになると、さっきまでの音が余韻のように残っている気がした。

「……ねえ」

有栖がベッドに座りながら言う。

「ん?」

「なんかさ」

少しだけ笑う。

「今日、ちょっと楽しかったかも」

零は一瞬だけ止まってから、

「うん」

とだけ返した。

それ以上は何も言わない。

でも、それで十分だった。

---

同じ部屋で眠るふたり。

窓の外は静かな夜。

まだ完成していない歌。

でも確かに、形は見え始めている。

その真ん中に、ふたりはいた。