少年吸血鬼はハンターの未亡人に愛を捧げる


イェーガー家は、広い敷地を塀で囲った屋敷が続く貴族の街の真ん中に建っている。

周囲の屋敷同様に、広い敷地に本邸と離れが建ち、果樹や花が植えられた庭が低い塀に囲まれている。

ナタリアは夫と二人暮らしだった小さな離れではなく、義兄ギルバートの住む三階建ての母屋の方へ帰宅の挨拶に向かった。

ベスがあらかじめ電報を打って帰省を知らせていたので、ドアをノックすると執事のトマスが半年ぶりだがいつも通りの仏頂面で出迎えてくれた。

ナタリアは、彼が笑った顔を見たことがあっただろうかと考えたが、思い出すことが出来なかった。

それほどまでに、ナタリアとイェーガー家の人たちとの関係は希薄だった。

ナタリアは、そのことが悲しいのか、それともこの家を出ていこうとしている今となってはその方が良かったのだろうかと考えた。

だけれど、あるときふっと思い出す記憶の中に、そこにいた人々の笑顔が無いのはとても悲しい思い出に違いない。

そこでナタリアは思い切ってトマスに「使用人の皆さんはお変わりない?」と、ほほ笑んだ。

すると、トマスはとても驚いた顔で口の端をぴくっとふるわせて、ほんの少しだけ、分からない程度の微笑みを返して来た。

執事のトマスの後ろには、老執事以上に歓迎の意思の感じられない義姉のエリーゼが立っていた。

彼女の眼は、無関心と嫌悪を行ったり来たりして揺れている。

その唇の端も震えているが、彼女はおそらく笑おうとはしていない。

応接間に通されて一応は香り高い紅茶を出してくれたが、彼女の表情は硬く、半年前以上に不機嫌だ。

「エリーゼ、どうなさったのですか。具合が悪くていらっしゃるの?」

エリーゼは現在妊娠中で、もういつ産まれてもおかしくないという時期だ。

エリーゼはむっつりと切り出した。

「ギルバートが今夜はあなたを母屋の方に泊めるよう言ったから、離れで用事だけ済ませたら夕食はこちらに来てくれる? 客間をあなたとメイドの為に準備したわ。私は今自由に動けないから、あなたに家のこまごましたことを手伝わせるとギルバートが言っていたわ」

「えっ⁉︎」

そう言われてナタリアは、エリーゼが不機嫌な理由がわかった。

エリーゼは嫉妬深い兄嫁だ。

彼女は、ナタリアがギルバートと陰で会っているのではないか、夫がどこかに女を持っているのではないか、常に心配していた。

ナタリアは結婚当初から過剰なほど牽制され、結婚数日で苦手になった彼女のことが、数週間で嫌いになった。

義兄のギルバートにも嫌われているが、今まで見向きもしなかったナタリアを突如母屋に泊めると言うのならば、エリーゼの心配は尤もだろう。

「エリーゼ、ギルバートを愛していらっしゃるのですね。でも、そんなに気を張っていてはお腹の子に障ります。せっかく赤ちゃんをお迎えするんですもの、気持ちを楽に持ってください」

「⋯⋯」

エリーゼは、臨月の腹を優しく撫ぜて言った。

「子供のいないあなたには私の気持ちがわかるはずが無いわ」

エリーゼの心配性は妊娠してからより一層強くなっていた。

ナタリアは義姉が『夫は妻の妊娠中に浮気をするものだ。男はその様な生き物だからあまりショックを受けない様に⋯⋯』と親切ごかしに耳打ちされるのを聞いたことがあった。

その言葉は、ナタリアが結婚する時も花嫁の心得であるかのように聞かされた。

心配性で嫉妬深い上に、あり得ないほどの美形であるギルバートを夫に持っているのだから、その心配は否応なく膨れ上がったに違いない。

ヴェネディクトが何度も『兄さんはそんな人ではない』とエリーゼを説得していたのだが、彼女は聞く耳を持たなかった。

「エリーゼ、はっきり言ってギルバートは私のことを嫌っていらっしゃるわ。何故今夜私をここに泊めるのか本当にわからないし、家の事を手伝えだなんて突然言われても、私は明日には帰るつもりなんです」

ナタリアはいつも曖昧に済ませて来たが、今日ばかりははっきりと言った。

もう、この義姉と会う事もほとんど⋯⋯もしかすると金輪際会うことは無いかもしれないと思ったからだ。

「ナタリア⋯⋯あの人、もう私のこと見もしないのよ」

だがエリーゼはナタリアの話など聞いている様子もない。

彼女ははらはらと涙をこぼした。

気弱なところを見せるエリーゼは珍しい。

この義姉はナタリアの前ではいつも厳しい目つきをして、年長者らしく義妹を指導しようと厳格に振る舞っていた。

「お腹の大きい女なんて女じゃないのよ。私は⋯⋯妻なのに!」

ナタリアは、夫を亡くした自分にそのような話をするエリーゼの無神経さに心底苛立った。

私のヴェネディクトは死んだのに! 死んでしまったのに! と。

だが自身の悲しみとエリーゼの苦しみは別のものだ。

ナタリアの悲しみは、刺さったままの鋭い針がずっと胸を刺すが、その傷口から血の吹き出すことのない、薄い皮膚に覆われた傷に変わりつつあった。

ナタリアはそれが昨夜本の中にメッセージを見つけて、フォグリア家の別荘に行ったせいだと思った。

久しぶりに風を切って歩き、頬に夜霧を感じながら潮の香りと薔薇の香りを嗅いだせいだろうと思った。

ナタリア・イェーガーではなく、ナタリア・リッツだった頃の明るく楽天的で、どちらかといえばお転婆な少女だった自分を久しぶりに取り戻したのだ。

それが、昨晩あの生意気そうな少年に出会ったせいだと感じるのは、少々悔しかった。

「私にはこの子はきっとただ一人の子よ。それなのにギルバートは嬉しそうだったのは最初だけ! どうして⁉︎ あなたはいいわね若いんですもの。これから、いくらでも子供に恵まれるチャンスがあるでしょう?」

「エリーゼ、私を慰めてくれてありがとう」

ナタリアはこのトゲがエリーゼの顔面にぐっさり刺さればいいという願いを込めて言った。

こんなに真っ直ぐに無神経で腹の立つ慰めを頂いたのは初めてだ。

ここ最近、ナタリアは『あなたは若いのだから、まだいくらでもチャンスはある』という趣旨の無神経な慰めに苦しめられていた。

それでいて少しでも微笑もうものなら周囲の人々から、夫を失ったのにもう笑っているという無言の冷たい目を向けられる気がしていた。

それなのに、昨日出会った一人の少年のためになんだか深い霧が晴れて、行く道が見えた気持ちになり、エリーゼにささやかな反撃を打つ気にもなれたのだ。

ナタリアのトゲは義姉エリーゼに少し刺さったのか、途端におとなしくなりナタリアに紅茶のおかわりを入れてくれて、おいしい焼き菓子を出してくれた。

そして庭に出たいというナタリアに「ええ、もうすぐ林檎が咲き出すわ」とだけ言って送り出した。

イェーガー家に戻ったのは屋敷にある林檎の木が見たかったからだ。