翌朝のルイザ―は快晴だった。
ナタリアの部屋の窓から見下ろすルイザー港では、出港を持つ船が蒸気をあげて停泊している。
「ナタリア様、昨夜はどこに出かけていらっしゃったのですか?」
朝起こしに来たメイドのベスが。不機嫌そうに言った。
ベスは別荘を管理する住み込みのメイドで、ナタリアの母親くらいの年頃だ。
そっと出かけてそっと帰ってきたつもりだったが、気付かれていたのだ。
「ええベス。眠れなくってアンジーを連れて散歩していたの」
ナタリアは、歩いて一時間近くもかかるイェーガー家の別荘まで行き、家人に送られて帰ったなどとても告白できず適当な嘘をついた。
大きな音を立てる蒸気自動車で別荘の近くまで帰ってきた事は、気付かれなくて幸いだった。
ベスは納得していないような表情だったが、しまいにはため息一つで許すことにしたらしく「危険ですから今後夜に一人でお出かけになるなど、なさらないでください。ギルバート様には伝えずにおきましょう」と言った。
「ありがとう、ベス。あなたの善意に感謝するわ!」
ベスはナタリアの言葉に満足げな笑みを浮かべると、朝食を取りにキッチンに戻っていった。
開いた窓から薔薇の香りが部屋に入ってくる。
ナタリアはヘッドボードからヴェネディクトがいつも持ち歩いていた銀のナイフを取り出して、ポケットに入れた。
イェーガー家を出るとき私物以外はほとんど持ち出させてもらえなかったが、このナイフは亡き人の形見としてナタリアの物になった。
これは、バンパイアハンターとしてはなんの教育も受けなかったというヴェネディクトが、唯一持っていたハンターの証だという。
記憶のなかからヴェネディクトが声をかけて来た。
『おはようナタリア、薔薇は朝が一番香りが高いんだ。だから薔薇の季節はいつも早起きになってしまうよ』
「おはよう⋯⋯ヴェネディクト」
ナタリアは、切なく、胸が潰れそうな気持ちを押し殺して咲き誇る薔薇に向かって返事をした。
またヴェネディクトが記憶の中から声をかけてきた。
『ナタリア、僕の可愛い太陽。さあ朝から泣かないで』
「⋯⋯ええ、ヴェネディクト」
昨夜は不思議な夜だった。
ヴェネディクトからのメッセージと、美しい少年と、その執事、夜のドライブ。
⋯⋯機嫌なアルフォンスの様子を思い出すと、なんとも言えない気持ちが湧き上がって来る。
花に群がる蜜蜂の羽音を聞いている時のような、なにか愛おしさを感じるような浮たった気持ちだ。
ベスがベッドトレイにスクランブルエッグとレタスが挟まれたサンドイッチ、コーヒーを載せて戻って来たが、ナタリアが完全に起きているのを見ると、ベランダの小テーブルにそれを置いて、ナタリアのために椅子を引いてくれた。
「ねぇベス、私。今日イェーガー家へ帰るわ」
「えっ?」
ベスは心底驚いた顔で、迷惑そうに声を上げた。
ナタリアはそんなベスを見て苦笑する。
《ナタリアに帰って来て欲しくない》というギルバートの意向は、この別荘のメイドにも十分に行き渡っていると思ったのだ。
「いいえ、心配しないで。ちょっと忘れ物を取りに行くだけなのよ」
ナタリアはそう言ったが、嘘だった。
昨夜アルフォンス・フォグリアが言った『林檎の木下、満月がゆるりと笑う』という言葉が気に掛かっていたのだ。
彼がそう言った瞬間、ナタリアが思い出したのはイェーガー家の庭だった。
ベスはどことなく慌てて、申し訳なさそうに一呼吸おいて「かしこまりました。電報を打っておきます。ナタリア様の言う事をよく聞くようにと仰せつかっておりますからね」と、いつもの大げさな調子で言った。
ギルバートは、ナタリアを家へ戻すつもりはないのだ。
そうだろうと思っていたので、悲しみは少ない。
ナタリアは家長同士のつながりの結果イェーガー家へ嫁いだが、ナタリア自身はただヴェネディクトの妻になったという以外の何でも無かった。
夫亡き今、二人で暮らしたあの家はもはやナタリアの家ではない。
ルイザー港から定期船に一時間ほど乗ればイェーガー家のあるコスト・ボッソ港に着く。
そこから汽車で一時間。さらに馬車で十分ほど、待ち時間も多めに見積もって三時間半もあればあの家に着くだろう。
まず本家で義兄ギルバートかその妻のエリーゼに挨拶をして、今夜は一月ぶりの自宅に泊まれば良いだろうと思っていた。
ナタリアは自分自身でも、イェーガー家との訣別を思いがけないほど割り切っていることに驚いていた。
(昨夜⋯あの人達に出会ったせいかしら?)
何となく、そう思った。
そしてナタリアとベスの二人は昼前に別荘を出た。
別荘は山がちの土地にあるため、ルイザー港に行くためには坂道を少し徒歩で降りて、平道に入るところで馬車に乗ることになる。
だが、ナタリアは別荘にこもりきりだったので、坂道を歩くという事を少し甘く見ていた。
二人分の着替えなどが入ったトランクはずっしりと重く、まだ半分も歩いていないのに、ナタリアもベスも疲れ果てて肩で息をつく始末だった。
夜道を手ぶらで歩くのとは違うのだ。
それに今日は天気が良く、余計に女二人の体力は奪われていく。
「ごめんなさいベス。私が他の使用人達に暇を出してしまったから……」
ナタリアはしょんぼりとして真っ赤になった手のひらを見た。
ベスが重い方の荷物を持ってくれてはいるが、このまま荷物を持って馬車駅まで歩いたら、手にマメが出来るに違いない。
それに、歩き出すまで忘れていたのだが、昨夜転んで打った膝がしくしくと痛み始めている。
ナタリアは今日と明日イェーガー家へ行くから、皆も休むようにと、使用人二人に暇を出してしまったのだ。
『馬車の駅までくらい、一人で行けるわ』
そう言ったナタリアだったが、ベスが一緒に来てくれることになったのだ。
『いいえ、ナタリア様お一人で行かせるなどとんでもございません。お家の方のお世話をするのがメイドの仕事でございます』
ベスは頑なに言い切った。
ナタリアの荷物を持つベスは、頼もしいが邪魔なようでもあった。
ベスはどことなくギルバートの肩を持つところがあるのだ。
ベスは別荘のメイドなので、あまりギルバートと接触が無いからに違いない。
ギルバートも、その妻エリーゼもお世辞にも仕えやすい主人とは言い難いのだから。
ナタリアだって林檎の木を見たら、なるべくならギルバートに会わずに別荘に戻って来たいものだ。
『ハンターの誇りも持たずに、ただ生きて死んだ弟とその妻など何の価値もない』
ギルバートは隠すこともなくそう言い捨てた。
ナタリアの心を、義兄ギルバートの冷たい言葉が鋭く切り刻み、その言葉は半年が経った今もナタリアの心に新たな傷を作り続けている。
そんな男の家に行き挨拶をしなければならないなど、奴隷になったも同然だ。
ナタリアがその痛みを反芻していた時だった。
「あっ、ナタリア様、自動車ですよ! 自家用車」
ベスが前方の道を走る赤い蒸気自動車を見つけて言った。
「あら、本当ね、珍しい!」
ナタリアは咄嗟にそう言ったが、内心はザワザワ波立ち、同時に期待でソワソワしてもいた。
その車は、昨日ナタリアが乗ったものに間違いない。
