少年吸血鬼はハンターの未亡人に愛を捧げる

その少年を見た瞬間ナタリアはハッと息をのんだ。

カンテラの光に照らされた顔が例えようもなく美しかったからだ。

薄明かりの中で白く輝く髪はさらりと肩にかかっている。

日の光の下で見れば見事な金色に違いない。

決して女っぽい顔立ちではないのに、未熟な骨格のせいで容貌はどこか少女めいている。

それでいて鋭い目つきには揺るぎない老獪さを感じさせられ、長く見つめれば心の奥深くまで見透かされそうな気がした。

そして同時に、その表情にはナタリアに対する頑なな拒絶が浮かんでいる。

いつも人を見るとうるさいほどに吠えかかるアンジーだが、自分達の方が招かれざる客であると知ってか、クゥクゥと鳴きながら下げた尻尾を振っている。

「まあ、フォグリア家の方? ごめんなさい勝手に入って」

目の前の少年は簡素な服を着ている。

使用人だろうとナタリアは思ったが、それにしてはやけに堂々としていて遜ったところがない。

(そうだ、イェーガー家の人々に少し似ているわ)

ナタリアはばつが悪い思いで言葉を改めた。

「わたくし、ナタリア・イェーガーと申します。このような時間に突然の訪問、申し訳ありません。立派な檸檬の木があると聞いて気になって⋯⋯」

ナタリアの挨拶を、だが少年は突き放したような乱暴な言葉で遮った。

「あんたが探すべきは林檎の木じゃないかな。どっちにしても、ご婦人がこんな夜中に一人で出歩くものじゃない。早く帰りな!」

「なっ」

何ですって、とナタリアは言おうとしたが、なんとか心の中に押し込めた。

確かに、他家の別荘に勝手に入って目当てのものを物色しているなど、たとえそれが抱えて持って行けるものではないとは言え、物取り同然である。

ナタリアは、急に夜気の冷たさを感じてぶるりと身を震わせた。

言われなくとも早く別荘に帰りたいと思った。

「ええ、そうですわね。大変失礼致しました」

 何とか笑みを浮かべ《改めてお伺いさせてください》と続けようとしたところで突然、この場の緊張感に似合わない陽気な声が上がった。

「こんばんは奥様! 当家の主人が何かご無礼を?」

ナタリアと少年が同時に目を向ける。

そこには、こちらもいつの間に近くまで来たのか一人の男が立っていた。

男は満月とはいえこの夜霧の中、灯りも持たないのに躊躇いもなく二人の前に進み出た。

「ルカ」

少年が男の名を呼んだので、この霧の夜の幻影のような男は形のある人間になった。

黒っぽい巻き毛の、がっしりして背の高い男だ。

ナタリアはこの男にどこかで会ったことがあるような、不思議な既視感を感じた。

だが一体どこの誰に似ているのか、この闇夜の中ランタン一つの灯りでははっきりと分からず、その疑問さえも一瞬で闇夜に溶けていった。

「主人? まあ、申し訳ありません、フォグリア家のご当主でいらっしゃるのね」

ナタリアの微笑みにフォグリア家の若き当主は、かぶっていた仮面を取り落したような、ひどく不機嫌な顔になった。

先ほどまで感じていた老獪さはなりを潜め、そこに残っているのは、ただの《少年》だった。

ナタリアは、必死で冷静な表情を保たなければいけなかった。

そうでなければこの少年の顔をじっと見つめるか、彼の少年らしい不機嫌さに、礼儀知らずな笑みを向けてしまいそうだった。

使用人かと思っていたが少年はこの家の、フォグリア家の当主なのだ。

「アルフォンス様客人の前でその態度は失礼かと。申し訳ございません、どこのお屋敷の奥様でいらっしゃいますか?」

ルカと呼ばれた巻き毛の男は視線をナタリアに戻した。

「ナタリア・イェーガーと申します。西地区にある、イェーガー家の親族です」

「⋯⋯左様でございますか。イェーガー家のお方。こちらの方はフォグリア家のご当主アルフォンス様でいらっしゃいます。私は一介の使用人でございますが、執事としておそば近くでお世話をさせていただいております、ルカと申します」

大げさなほど朗らかな口調は主人であるアルフォンスとは対照的だ。

ルカが重ねて言った。

「ナタリア様、よろしければ私が庭をご案内しましょうか? 主人は美しいご婦人の前ではどうやら口も聞けないようでございますので」

「何だと、ルカ!」

執事ルカの軽口をアルフォンスが厳しい口調で遮った。

「どういうつもりだ!彼女はイェーガー家の!」

それを聞いたナタリアは、まるでパンと一緒に砂を砂を噛んだ様な不快な気持ちになった。

「まあ、イェーガー家をご存知でしたのね」

ナタリアは心の入っていないねじまき人形の様に言った。

「ああ、もちろん知っている」

アルフォンスの表情が曇る。
イェーガー家の次男が《事故》で死亡したのは貴族の間では有名な話だ。

不審死であるのを必死で誤魔化したことも含めて有名だ。

「こんな夜更けにお邪魔してしまいご迷惑をおかけしました。また改めてお詫びに伺います」

ナタリアはもう二度とここに来るつもりは無かったが、社交辞令として言った。

「アンジー、行きましょう」

忠実な番犬は、ナタリアにピッタリと寄り添った。

「待て」

だが意外なことにアルフォンスからナタリアに声がかかった。

「女の一人歩きなど危険すぎる。ルカ、送って差し上げろ」

ナタリアはそれを聞いて、夜道の一人歩きとこの一見軽薄そうな雰囲気のルカのどちらが危険だろうかと思ったが、素直に好意を受けるべきだと気がついた。

来る時は興奮していたが、女一人で夜道を歩くなど無謀な散歩だったのは間違いない。

ナタリアは突然寒さを感じて体を震わせた。

「ありがたくお受けしますわ。アンジーも乗せていただける? 馬が嫌がらないかしら」

「もちろんかまいませんよ奥様」ルカが快諾した。

「とても良い子なの、暴れたりしないと保証します」

「大丈夫ですよ、貴婦人のお願いを聞くのは紳士の嗜みです。それに我が家の馬も文句ひとつ言うことのない従順な馬です」

 ルカがいたずらっぽく言ったのでナタリアは「まあ、ずいぶんな紳士でいらっしゃるのね」と笑った。

古い貴族教育の教科書に出て来そうな口上だった。

すっかり気がほぐれたナタリアをアルフォンスが手を出して誘った。

「館の裏に自動車がある」

「えっ!」

ルカが面白そうにナタリアを見る。

自動車なら犬を嫌がるはずがない。

この古めかしい館に自動車はいかにも不似合いだったが、車寄せには赤色の美しい蒸気自動車が一台停まっていた。

「まあ、きれい!」

ナタリアは下重心で華奢な自動車の、黒い革張りの座席にアルフォンスの律儀なエスコートで乗り込んだ。

「晴れていてようございました」と、ルカが言った。

最近金持ちの中には自家用車を持つ家が増えて来た。

「家にも自動車は一台あるのよ。でも音がうるさいから誰も乗らないの」

田舎ではやはり馬車が主流だ。

蒸気自動車は故障も多いし大量の水が必要になるため、修理の知識や給水所の当て無くして乗れる乗り物ではないのだ。

ナタリアが座席に落ち着くと、意外にもアルフォンスが隣に乗り込んできて、キョロキョロと落ち着かない様子のアンジーをナタリアと挟んで座った。

「しっかり掴まっていろ。そんなにおしゃべりなら舌を噛むぞ」

アルフォンスがアンジーの頭を掻き、ぶっきらぼうに言った。

「ええ、ありがとう」

ナタリアが礼を言うと、アルフォンスは一層苦々しい表情になってふいっと反対側を向いた。

静かなルイザーの夜に似合わない大きな音を立てて、自動車が発進した。

車用の出入り口は正面の門とは別にあった。

ナタリアは正面の門が馬車を通れないようにしてあった理由が分かった。

何かしら神秘的な理由を想像していたが、何のことはない。裏から自動車で出入りするのだ。

夜空はすっかり霧が晴れて月が綺麗だった。

アンジーが車体から身を乗り出したり、ナタリアの肩に乗り上がったりするのを、アルフォンスが必死に押さえつける。

「アンジーったら、すっかり車が気に入ったのね!」

アンジーは表情を輝かせて風を受けている。

車から飛び出しそうなアンジーを押さえるアルフォンスの横顔は、ただの恥ずかしがり屋の少年のものだった。

ナタリアはもう彼が失礼だとは思わなかった。

ナタリアはフォグリア家の別荘に行くのに随分と道に迷っていたようだ。

往きと違い、車はあまり角を曲がることもなく走る。

「奥様もう少しでお屋敷ですが、どうされますか?」

ルカが程なく車を止めて訊ねた。

車はあっという間にイェーガー家の別荘近くに到着していた。

行きは随分と遠回りをしていたのかもしれない。

「まあ、ありがとう。そうね、ここで下ろしていただくわ」

ナタリアは丁寧に礼を言った。

車を降りようとすると、驚いたことにアルフォンスがさっと下りてナタリアの手を引いてエスコートしてくれた。

「門まで送ろう」アルフォンスはそう言ってナタリアを引っ張るように歩き出した。

「ありがとうございます、アルフォンス様」

「足が悪いのか?」

数歩歩いた所でふいにアルフォンスが言った。

フォグリア家の別荘へ向かう途中で転んだナタリアはどことなく足を引きずっていたのだ。

「えっ? いえ、さっき転んでしまったんです」

「転んだ⁉︎」

 アルフォンスが大袈裟なほど驚きの声を上げる。

「ええ、そう、転んだの」

 ナタリアはムッとして言い返した。するとアルフォンスは、さっきとはうって変わったいたずらっぽい表情で唇の端を震わせた。

「ひどい方ね、笑うなんて」

 ナタリアが言いつのるとアルフォンスは面白そうに言った。

「とんでもないお転婆だな!」

「そうかしら?」

ナタリアはツンと取り澄ました表情を装いながらも久しぶりにそう言われ、子どもに戻ったように懐かしく、嬉しくさえあった。

ナタリアは実家にいた頃、今は亡き父親に『お転婆』と呆れられていたものだった。

「あんたは何をしにフォグリア家の別荘に来たんだ?」

「さっきも言ったわ。檸檬の木を見に行ったのよ」

ナタリアは、相手が大きな家の当主であることも忘れ、まるで本当に年下の少年を相手にするように言った。

 それを聞いたアルフォンスは戸惑ったように言葉を詰まらせる。

「ねえ、どうして檸檬じゃなくて林檎だと思ったの?」

 重ねて訊くと、彼は突然立ち止まった。

そしてナタリアの手をさっと持ち上げ、手の甲にキスをした。

「あっ」

 ナタリアに口付けるアルフォンスのうつむいた頬は幼いふくらみを残していて、だが白い手は筋が立ってナタリアのものよりずっと大きい、大人の男の手だ。

ナタリアは、少年と大人の男の間の瞬間に立ち会ったような悶えるような恥ずかしさを覚えた。心臓が激しく跳ねて、彼から目が離せない。

「マダム、ここまででよろしいですか?」

「え、ええ! ここで良いわ。別荘はここよ。ありがとう」

いつの間にか別荘の門のすぐ近くにいた。アンジーがウォウ!と吠えて中に入ろうと催促している。

門から振り返るとアルフォンスはまだそこに立ち止まってナタリアを見ていた。

「ああ、夜で良かったわ。こんなところ誰にも見せられない!」

冷え切った手で頬を冷ましながらナタリアは独り言を言った。その頬は子供の頃風を切って走った後のように熱い。

誰も見る者は無かったが、ナタリアの頬は幼い子供が風を切って走った後のように真っ赤になっていた。