少年吸血鬼はハンターの未亡人に愛を捧げる

「はぁっ、はぁっ⋯⋯」

夜霧に沈んだルイザーの別荘地。

長い時間歩き続けたナタリアの体は汗ばみ、結い上げた髪はほつれて肌にしっとりと張り付いている。

別荘の番犬アンジーがナタリアの周りでくるくると回りながら先を急かすが、ついさっき転んで打ち付けた膝や肩がズキズキと痛み、ゆっくりとしか足が上がらない。

体は悲鳴をあげているが、自分の体を痛めつけている間は、夫の死について考えずにすむ。

ナタリアの夫、ヴェネディクト・イェーガーは半年前バンパイアに殺された。

その夜ナタリアは義兄である当主ギルバートから、イェーガー家は人間社会に紛れて生きる吸血鬼を狩ってきたバンパイアハンターの一族であると教えられた。

ヴェネディクトは、バンパイアから報復で殺されたのだと。

ギルバートはヴェネディクトの棺を前にして言った。

『戦うことも出来ず、ただバンパイアの餌になって死ぬような者は一族の恥晒しだ! その妻であるナタリア、お前はハンターの家系でさえない! そのような女を娶るなど、ヴェネディクトはお前と結婚しただけでも一族を裏切っている!』と。

そして夫の埋葬の翌日、ナタリアはここルイザーの別荘に追いやられたのだった。


「ここが、フォグリア家の別荘⋯⋯」

ナタリアは不安を打ち消すために独り言を言った。

ナタリアが深夜イェーガー家の別荘を抜け出したのは、今目の前に現れたフォグリア家の別荘、その庭に植えられているという檸檬の木を見るためだった。

別荘は門柱の間に道を塞ぐ形で大きな植木鉢が二つ並べてあり、馬車が通れないようになっている。

ナタリアは不思議に感じながらも、鉢の間を抜けて庭に入った。

庭も建物も全く灯りがない。

夜霧を突き抜けた満月がぼんやりと周囲を照らすのみだ。

この庭に夫ヴェネディクトからの最後のメッセージが隠されている。

ナタリアは愚かにもそう確信している。

別荘で悄然と日々を送っていたナタリアをこの場所に駆り立てたのは、祖母の形見である一冊の本。

その中の一節に引かれた一本の斜線のせいだった。

子供の頃から繰り返し読んだ、大好きな小説だ。

ヴェネディクトの死後、その本を開くのはいけないことのような気がしていた……。

なぜならその本『満月を飛び越えて』はバンパイアと人間の少年、少女の三人が織りなす友情と別れの物語だったからだ。

ナタリアは、その表紙に描かれていた幻想的で美しい絵を思い出す。

色鮮やかな雑踏の風景だが、真ん中に黒いマントの男が一人立っていて、一組の男女に手を伸ばしている絵。

初めてヴェネディクトと会ったときナタリアは、夫となる人の愁いを含んだ横顔を見て(この人はあの表紙の男だ)と思った。

ナタリアはあの絵の男の手を取った者は、どこか暗い所に連れて行かれるのだと思っていた。

だが、妻に甘い献身的な夫だったヴェネディクトが連れて行ってくれたのは、とろけるような素晴らしい結婚生活が待つ、美しい新居だった。

でも彼はもういない。

吸血鬼に殺されたのだから。

だが今夜、ナタリアが何気なくその本を開いた時【檸檬の木の下、満月はゆるりと歌う】という部分に青く下線が引かれているのを見つけたのだ。

それはヴェネディクトがいつも使っていた青インクに間違いない。

ヴェネディクトは生前確かに『子供の頃にこの本を借りて読んだことがある』と、懐かし気にナタリアの本を手に取っていた。

だが、それにしてもいろいろとおかしな事だ。

(ヴェネディクトはどうしてこの本を開いて、ここに印を入れたのかしら? バンパイアハンターの家系である彼が何故この本を選んだのかしら?)

この国では暖かい気候を好む檸檬が屋外で栽培されることは殆どないが、この別荘に居を移した時、メイドのベスが言っていた。

『ルイザーの大地主であるフォグリア家の別荘には、立派な檸檬の木があるそうですよ。池のそばに植えられているので、枝が枝垂れて檸檬が水面に映る様はとても美しいそうです』と。

(もしかしたらヴェネディクトは、フォグリア家の庭で檸檬の木を見たことがあったのかもしれないわ)

(檸檬の木の傍にある池、そこに何かがあるのかしら)

ヴェネディクトがどんな考えでその文字をなぞったのか? それを知ることは叶わない。

だが死した彼との新たなつながりを感じ、優しい夫に後ろから肩を抱かれた様な気がした。

折しも今夜は満月⋯⋯。

いてもたってもいられず、ナタリアは別荘の番犬アンジーを連れ寝静まった別荘をそっと抜け出したのだった。


フォグリア家の別荘の庭は、広さを強調した平面的で男っぽい雰囲気だ。

少し遠くに東屋の屋根が霧を遮って浮かんでいる。

アンジーは芝生の庭に大喜びで、先に行ったり後から追い越したりしながら散歩を楽しんでいた。

「アンジー! あまりあちこち行かないでね」
 
ナタリアが声を潜めて言うと、アンジーはまるで言葉がわかるかのようにオゥッと吠えてナタリアの側に戻ってくる。

子供の頃犬に追いかけられてからずっと犬が怖かったナタリアだが、今ではアンジーが大好きだ。

アンジーは忠誠心が高くて賢く健気だ。

今まで犬のこんな美しい心を知らなかったなんて、なんて勿体無いことをしていたんだろうと思う。

建物を避けてそっと小道を辿ると、目的の池はあっさり見つかった。

レンガで整形された直線的な池だ。

池の表面は霧を突き抜けた月明かりでぼんやりと白い。

そして傍らにある頼りない葉を風にそよがせている木が、きっと檸檬だ。

「ベスったら嘘つきね。全然大きな木じゃ無いじゃない」

檸檬と思しき木は高さは三メートル程で、根元から数本分岐して立ち上がり、幹はつややかだ。

取り残したようにいくつか実がぶら下がっている。

「何だか、思っていたのと違うわねアンジー⋯⋯檸檬の木の下、満月はゆるりと歌う⋯⋯でも月って水面に映るものかしら?」

 ナタリアがアンジーに話しかけた時だった。

「それは【林檎の木の下、満月はゆるりと歌う】の間違いじゃないか?」

ナタリアの声に被せるように発せられたのは、氷をまとったような、冷たい声だった。

まだ若い⋯⋯少年の声だ。

突然聞こえた声に、息をのんだナタリアの視線の先。

檸檬の葉陰に、いつからそこにいたのか、一人の少年が佇んでいた。